政治の流れを変えた「天平のパンデミック」~インフルエンザの比じゃない恐ろしさ!

https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/4615  【政治の流れを変えた「天平のパンデミック」~インフルエンザの比じゃない恐ろしさ!】より

時は天平。疱瘡(天然痘)の大流行が、藤原四兄弟全員を死へと追いやった。それはまさしく、奈良時代のターニングポイントとなったのである。

疫病の大流行で政治機能が麻痺した

今年もインフルエンザの季節がやってきました。現代に生きる私たちにとっても、ある病気が爆発的に流行する「パンデミック」は、恐ろしいものです。

医学の発展には、「疫病との闘いの歴史」という側面があります。日本史においても同様で、時代が遡るほど、疫病の流行は多大な被害をもたらしてきました。

奈良時代の記録をみると、天平9年(737)に、ある疫病が大流行しています。この疫病によって当時、政権を握っていた藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)全員が病死し、政治機能が一時的に麻痺してしまいました。

原因は疱瘡(天然痘)とされていますが、実は史料に明記されているわけではありません。天平7年(735)にもやはり同じような病気が流行った記録がありますが、この二つの病を同一と考えるかどうかも説が分かれています。

では、これらの疫病がどこから来たのか。

海外からもたらされたものであることは間違いないとは思いますが、特定できてはいません。というのも、天平6年(734)から9年の間に、遣唐使のほか、渤海や新羅に行った使節が帰国しているからです。

私自身は遣新羅使が持ち込んだのではないかと考えていて、この疫病の流行を背景にした最新作の長編小説『火定(かじょう)』でも、そうした設定で物語を展開しました。実際、使節の中には新羅で亡くなっている人もいますし、『万葉集』には、往路の壱岐で病に倒れた人のいたことが記されています。彼らは、壱岐にまで広まっていた疫病に感染したのでしょう。

公卿の三分の一が感染して死亡!?

奈良時代の史料そのものが少なく、特に疫病についての公的な記録は稀少です。ですから、犠牲者数やどのような対策が取られたのかも、ほとんどわかりません。

ただ、天平年間に政治を担っていた公卿たちが、疫病の流行前後でどれぐらい入れ替わったかを調べた研究があります。これによると、流行前に92名だった公卿たちが、流行後には56名に減少しています。

実際に罹患した人数は不明ですが、トップクラスの公卿たちのうち、三分の一が死亡した可能性が高い。環境や栄養状態を考えると、庶民が罹った場合、半数以上が亡くなったとしても不思議ではありません。

この非常に高い致死率から、当時の日本では未経験に近かった疱瘡、つまり天然痘だったのは、まず間違いないでしょう。

それでは、この大流行を人々はどう受け止め、どのような手立てが講じられたのか。

疱瘡は、高熱から始まるものの、数日後にはいったん熱が下がります。ここで「治った」と思って動き回ると、感染がどんどん拡大してしまいます。数日後に再び高熱が出て、さらに激しい痛みを伴う発疹が全身に広がります。致死率は高く、治ったとしても発疹の跡が顔などに残ってしまうのです。

強い感染力も特徴です。低温や乾燥に強く、罹患した人が使っていた寝具を、2週間後に別の人が使っても罹患する可能性があるといいます。剥がれ落ちた瘡蓋からの感染です。会う人が限られていた公卿たちが次々と罹患していることからも、感染力の強さがうかがわれます。

また発症までには、12日前後の潜伏期間があるとされています。いったん熱が収まるという特徴と長めの潜伏期間、そして強い感染力によって、疱瘡は爆発的に広まったのです。

こうした状況下で、どのような治療が施されていたのか。

これも記録は残っていません。天平2年(730)、皇后・藤原光明子が施薬院と悲田院を設立しています。施薬院は今でいう病院、悲田院は孤児や飢人を救済する施設でした。どれほどの収容力や医療技術があったかは定かではありませんが、何らかの手立てを講じた可能性はあります。

一方、宮城内には貴族専用の医療機関である典薬寮と、天皇をはじめ皇族を診察する内薬司がありました。

しかし、疱瘡に対する知識や治療法、感染予防のマニュアルがなかったのは、市井も宮城内も同じです。ほとんどなす術もなく、快癒を祈りながら、思いつく限りの対症療法を施すしかありませんでした。

パンデミックをきっかけに政局は混迷を深めた

政治と民の距離は、今よりずっと遠かったはずです。けれど、要職にある人たちが次々に倒れ、亡くなっていることを知った人々は、さらに恐怖を覚えたでしょう。

人は未知のものに対して不安や怖れを抱きます。得体の知れない新興宗教に縋る、あるいは身なりや言葉の違う外国人を「厄災を持ち込んだ」と見なして攻撃する――『火定』の中でも描きましたが、ふだんは「バカバカしい」と一笑に付すようなことが、起こり得るのがパンデミックです。

そうした中でも、天平9年6月、『典薬寮勘申』が発表され、そこには、猛威を振るう疫病への対処法が示されました。ただそこに書かれていることは、医学には素人の私でも違和感のあるものが少なくありません。

たとえば「水を飲ませると死ぬから飲ませるな」「辛いものや生魚は食べさせてはいけない」など。根拠がわかりませんけれど、必死で治療の糸口を探していたんだということは伝わってきます。

天平9年の疫病の大流行は、政治的クライシスとしてもパンデミックとしても、日本史に大きな影響を及ぼした厄災です。

藤原四兄弟が亡くなった後、藤原氏の勢力は大きく後退し、聖武天皇を中心に橘諸兄などによる皇親政治が始まります。それに対して藤原氏では、四兄弟における一番上の武智麻呂の子・仲麻呂が巻き返し、その後には道鏡が現われ……と、政局は混迷を深めていくのです。

この疫病の大流行は、まさしく奈良時代のターニングポイントになった出来事でした。のちに造られる東大寺の大仏も、この疫病とは無縁ではなかったと考えていいでしょう。

時代が下ると、疱瘡は“定着”していきます。悪神として擬神化され、「疱瘡神」として人々に怖れられ続けました。

江戸時代には、疱瘡神を封じる「疱瘡除け」として、源為朝の絵が出回りました。保元の乱の後、伊豆大島に流された為朝が支配下に収めたとされる八丈島には、疱瘡がなかったからです。

長い間、人々を苦しめ続けた疱瘡。その苦しみから解放されるのには、種痘が発見され、世界中に普及した二十世紀を待たなくてはなりませんでした。

※本記事は「歴史街道」2018年1月号より転載したものです。

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