みなみ風海坂藩にウイルスは

https://www.yamagata-np.jp/feature/fuzisawa_feature/kj_2015051400297.php?gunre=hukei【ペンネームと海坂の由来】より

 「北国の小藩」という設定の海坂(うなさか)藩。『蝉しぐれ』では、江戸より120里(480キロ)としている。時代小説、特に武家ものは『暗殺の年輪』以降ほとんどがこの海坂藩を舞台にしているといっていい。もちろん荘内藩をモデルにしている。城下や郊外の情景は鶴岡のそれ、である。

 「文四郎ははだしで、菜園の茄子(なす)に水をやっていた。茄子畑は菜園の隅のたった三畝(みうね)だけだが、まだ紫の花をつけ、つややかないろをした実がいっぱいになっている。」

 水を含んだ土の色、白い足、花の紫、みずみずしい小さく丸いナス…。『蝉しぐれ』の美しい一文である。下級武士の生活振りがうかがわれ、菜園を奨励した荘内藩の姿がほうふつとされる。『三屋清左衛門残日録』では釣り、『臍曲がり新左』では鳥刺し、など藩の奨励策が紹介され、江戸後期の地方の小藩の苦労がしのばれる。

 その「海坂藩」の、海坂というのはどこからきたのか。藤沢さんは鶴岡・湯田川中学校の教師をしていたが、勤めて間もなく肺結核が見つかった。現在の東京都東村山市にある「篠田病院林間荘」に入院する。そこで句会に所属し、静岡の俳誌「海坂」に投句する。

 「海坂は私が小説の中でよく使う架空の藩の名前である。だが実在の『海坂』は、静岡にある馬酔木系の俳誌で、種をあかせば、およそ三十年も前に、その俳誌に投句していたことがある私が、小説を書くにあたって『海坂』の名前を無断借用したのである。」(『小説の周辺』)

 と書いている。

「海坂」というのは「上代、海上にあると信じられていた海神の国と人の国との境界。海のはて」(『日本国語大辞典』小学館)である。海境、海界とも書く。さらに「水の江の 浦島の子が 堅魚(かつお)釣り 鯛釣りほこり 七日まで 家にも来(こ)ずて海界(うなさか)を 過ぎて漕ぎ行くに」(万葉集)とあり、海坂はロマンに満ちた神秘的な楽園に至る境なのである。

 藤沢さんは、本名小菅留治(こすげとめじ)。旧黄金(こがね)村大字高坂(たかさか)字楯(たて)ノ下103番地に生まれた。6人兄弟の4番目で、3男3女の二男。青龍寺(しょうりゅうじ)尋常高等小学校から、昼は鶴岡印刷株式会社、その後役場で働きながら、夜は旧制鶴岡中学校の夜間部に通った。山形師範学校に入り、卒業と同時に湯田川中学校に赴任する。

 そこで、藤沢さんは三浦悦子さんと出会う。後に結婚することになるが、先生と生徒、そして同僚の先生の義理の妹という関係であった。「篠田病院林間荘」に入院している間、三浦悦子さんは見舞いに来ている。この頃に藤沢さんが三浦悦子さんに送ったとみられる熱烈なラブレターが、三浦さんの親類筋から見つかっている。

 結核が治って復職しようとしたが、6年の歳月が過ぎていた。結局、教職には戻れず、業界紙の編集に携わった。そのころ結婚する。藤沢さんにとって辛い時代であった。

 そして、三浦悦子さんは、28歳でガンで亡くなる。

 「胸の内にある人の世の不公平に対する憤怒、妻の命を救えなかった無念の気持ちは、どこかに吐き出さねばならないものだった。私は一番手近な懸賞小説に応募をはじめた。」(『半生の記・死と再生』)

 と文学の道に入るきっかけを語っている。小説家としての第一歩となるオール讀物新人賞を受けたのは、その頃書いた『溟い海』である。

「藤沢」というのは、湯田川温泉の山1つ隔てた地区の名前である。元は「梅ケ沢」の名であったが、永禄年間(1560年代)、神奈川県藤沢の時宗総本山から宗主「遊行(ゆぎょう)上人」が来て説法に務め、この地で亡くなった。以来住民は、上人が寂しがることのないように、と「藤沢」に地名を変えたという。佐藤政太著『湯田川温泉』に詳しい。

 そして、三浦悦子さんはこの地区の出身であった。亡き妻の古里の名をペンネームにしたのである。「周平」も、三浦さんの姉の子、つまり甥(おい)の名前から「周」の一字を借りたと言われる。

 藤沢さんの、古里に対する気持ちが凝縮されている一文を引用して第I部の最後にしよう。

「山形県西部。荘内平野と呼ばれる生まれた土地に行くたびに、私はいくぶん気はずかしい気持ちで、やはりここが一番いい、と思う。」(『ふるさとへ廻る六部の…』)


https://www.yamagata-np.jp/feature/fuzisawa_feature/2-1-1.php?gunre=kaze  【【海坂藩の貌】史実下敷きに展開】より

 藤沢周平さんの膨大な作品群は、大きく分けて二つに分類できよう。時代小説と歴史小説である。時代小説はさらに武家ものと市井ものに分けられる。武家ものは細分化すれば、三つになる。荘内藩の史実を基にした作品で、鶴ケ岡城下の実際の地名が出てくる初期の作品、例えば『ただ一撃』『証拠人』などと、架空の北国の小藩・海坂藩を舞台にした、いわゆる「海坂藩もの」、そして江戸後期の下町に住む武士など(とりわけてそれは浪人者であるが)を主人公にした作品群である。そうした中で、海坂藩ものといわれる作品が最も多く、庄内に住む人々にとっては小説の舞台の雰囲気が身近に感じられて、愛着の深いものがある。

 海坂藩の城下の原型は、直木賞を受賞した『暗殺の年輪』に既に登場しているが、城下の様子が生き生きと詳しく描かれているのは『蝉しぐれ』と『風の果て』であろう。

 特に『風の果て』では海坂藩という名は出てこないが、酒井家九代・忠徳(ただあり)公治世の荘内藩が描かれている。藤沢さんの海坂藩ものの中で、町割や藩の石高、酒田の本間家の登場、福島で旅の路銀が途切れたという忠徳公の入部のエピソードなど、この作品は最も荘内藩に近い史実を紹介している。

 その他の海坂藩ものが、骨格は荘内藩だが、詳細については庄内と付かず離れずの距離を置いているのを見ると、推測するに、原稿を広げた机の上に、藤沢さんが独自につくり上げた城下絵図がいつもあり、この作家は日夜その世界に入り込んでいった、といえそうだ。

 『用心棒日月抄・凶刃』の冒頭、城下の北東のはずれにある般若寺で、忍びの集団・嗅足(かぎあし)組解散の命が下されるが、同じ寺が鶴岡市日吉町に今もあって、古い歴史を持つ曹洞宗の名刹(めいさつ)である。城跡の北東に位置する。

 地形的に見た場合、鶴岡市は戦災にも遭わず、江戸時代の町並みを比較的残している町である。藤沢ファンには、町並みが醸し出す雰囲気が作品の世界と一致して、たまらない魅力となる。鶴岡公園の本丸や二の丸の濠端、柳の古木や桜の老樹、そしてしもた屋風の民家の軒下を通る小路、市街地を流れる堰(せき)の水音…。

 海坂藩は、石高七万石の小藩である。家士は禄米の借り上げ(禄高のうちから藩が借り上げる)に苦しむ貧乏藩。お家騒動に絡む争闘に主人公が巻き込まれ、腕に覚えのある必殺の剣を駆使して見事に解決する。

 荘内藩は十四万石、実質二十万石といわれる豊かな藩であった。江戸時代に庄内巡見の幕府の一行に同行した古川古松軒の『東遊雑記』によれば「(鶴ケ岡は)豊饒の百姓も数多見え、人足に出る者の衣服も賤しからず。馬なども肥え太り、居宅も美々しく、山川草木に至るまで、上上国の風土なり」と最大級の賛辞を贈っている。さらに、藩主転封の幕命に抗して、領内の農民が江戸に駕籠訴(かごそ)し、沙汰(さた)を覆したという史実もある(『義民が駈ける』)。どうも海坂藩は、荘内藩と、家士が多過ぎて貧にあえいだ米沢藩を重ね合わせたような領国、という印象が強い。

 海坂藩城下では庄内弁や鶴岡の食べ物が登場し、地名や地形、風俗習慣も鶴岡に残るものと酷似している。しかし、領内の制度や藩の執政のありようは、藤沢さんが一方では心を寄せたという米沢藩のそれと似通っている部分がある。あるいは、藩内の政争にしても、双方の史実を下敷きにして、鶴岡にも米沢にも差し障りのないよう、ストーリー展開に配慮を加えた趣がある。

 米沢藩を描いた『幻にあらず』『一夢の敗北』『漆の実のみのる国』には、海坂藩ものと呼ばれる小説に共通するものが随所に見られる。もちろんそれは、作家の自由裁量ではある。



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