Facebook・清水 友邦さん投稿記事 「命の森」
水がある森ではシダやコケなどの植物がよく育ちます。
植物が繁殖しているとそれを食べる昆虫がいます。
その昆虫を食べに鳥が来て、蛇やネズミがきます。
そのネズミを狙ってイタチやキツネがきます。
蛇を狙って猛禽類が来ます。
夜になると蛇が逆に鳥の巣を狙います。
森には無数の命が宿っています。
400平米(121坪)ほどの土の中に約1兆の昆虫が生息しています。
この地球上に哺乳類は約6,000種、鳥類は約9,000種、昆虫は約95万種の種があります。
地球は「虫の惑星」なのです。
その昆虫の命を支えているのが豊かな森です。
森林を破壊して作られたのが都市です。
森が伐採されると、鳥も獣も昆虫も死に絶えてしまいます。
森林破壊による生物多様性が喪失するプロセスの途上に今回の新型コロナウィルス禍があります。
種の絶滅や生態系の崩壊が、ある臨界点を超えてしまったので人類はウィルスのリスクにさらされているのです。
全ての存在は相互依存の関係によってバランスを保っています。
地球環境が危機状態にあることを新型コロナウィルスは教えてくれています。
In the forest with water, plants such as fern and moss grow well.
There are insects that eat it when the plant is breeding.
Birds come to eat the insects, snakes and rats come.
The Weasel and fox are aiming for the rat.
The Raptors are coming for the snake.
At night, the snake aims for the bird's nest on the contrary.
There are countless lives in the forest.
There are about trillion insects in the soil of the Square Meters (.).
On this earth, mammals are about species, birds are about species, and insects are about species.
The Earth is ′′ the planet of bugs"
It is a rich forest that supports the life of the insect.
It's the city that destroyed the forest and made it.
When the forest is felling, birds, beasts, and insects will die.
There is a new corona virus misfortune on the way to the process of biodiversity due to deforestation destruction...
Humanity is exposed to the risk of the virus because the extinction of species and the collapse of the ecosystem has exceeded a certain critical point.
Every existence is balanced by the relationship of interdependence.
The new corona virus teaches us that the earth environment is in crisis.
http://www.tetsugakusha.net/whitehead/prologue/02-00/289-2/ 【有機体論の萌芽】より
「出来事と客体」のページでは、出来事は、時空的で、諸部分へと分割可能であるのに対して、客体は、直接的には時空のうちになく、部分へと分割不可能であることをみました。しかし、「有機体」とは、諸部分の構成成分をもちながらも、部分と全体が本質的に統一されているという意味で「分割不可能(individual)」なものです。そのため、「有機体」という概念を考える上で、「出来事」と「客体」は対立してしまいますが、逆にいえば、それらを結びつけることができれば、ホワイトヘッドの「有機体の哲学」の萌芽が形成されます。このページでは、中期自然哲学に見出せる、ホワイトヘッドの有機体論の形成について解説します。
自己同一的なパターンと唯物論的機械論
「出来事と客体」のページでみた通り、出来事は直接的に時間や空間のうちにあり、諸部分に分割できます。一方で、客体は直接的には時間や空間のうちになく、部分への分割性をもちません。ホワイトヘッドによれば、客体は「(厳密に言うと)時間や空間なしに存在する」。
しかし、ホワイトヘッドは、このように言う一方で、「客体は諸出来事に対する関係性のゆえに時間や空間のうちに派生的にあるに過ぎない」とも言っています。このことは裏を返していえば、たとえ派生的であるに過ぎないにしても、客体は出来事に対する関係性のゆえに時間や空間のうちにあるともいえるでしょう。出来事と客体は一見、相対立するようですが、実際には互いに他を必要とし関係づけられています。客体は出来事の性格(character)であるがゆえに、間接的に時間や空間のうちにあり、部分‐全体関係に関わっているのです。『自然認識の諸原理』でホワイトヘッドはそれを「パターン(pattern)」を含む客体と呼びます。例えば、金太郎飴を想像してみてください。金太郎飴のどの部分を切っても、同じ絵柄が出てきます。各断面に現れる同じ絵柄を自己同一的な「客体」と考えましょう。もしここで、金太郎飴を出来事と考えるならば、その絵柄は、どれも異なる絵柄です。ある断面A、別の断面B、さらに別の断面Cは、どれも異なる出来事です。出来事である限り、金太郎飴は、諸部分に分割することできます。しかし、それらの出来事は、同じパターン(絵柄)を「反復」しています。AもBもCも、あくまで出来事であるにもかかわらず、同じ絵柄がパターンとして繰り返されている。では、この繰り返されているものは何かといえば、絵柄、つまり「客体」です。一般に、客体は部分‐全体関係をもたないのですが、パターンと呼ばれる客体は、諸出来事の中で、繰り返し現れます。そして、繰り返し現れるということによって、パターンという客体は、間接的に、部分―全体関係をもっているような客体と考えることもできます。
生成する自然の過程は、パターンを反復することによって自己同一性を保持し、「存続する客体(enduring object)」であると考えられます。ある一つの出来事のうちに現れているパターンが、その出来事の諸部分においても反復して現れるということが「存続(endurance)」です。パターンが、継起する諸部分を通じて反復され、全体においてそのパターンが示されているとき、その出来事は、単に生成するのではなく、「存続している」と言われます。
パターンは、全体における部分の反復、あるいは逆に、部分の反復による全体の構成を説明する用語ではあります。しかし、それは、多を統一する個体性(individuality)や、部分と全体の不可分性を説明する用語ではありません。全体が諸部分によって構成される限りで、パターンはむしろ、ホワイトヘッドが批判する「唯物論的機械論(materialistic mechanism)」の説明原理となるべき概念です。ホワイトヘッドのいう唯物論的機械論とは、全体は、単なる部分の集合として、本質的に部分に影響することがないという考えです。例えば、たくさんの部品からなるロボットを考えてみましょう。それは、部品という諸部分から、全体が構成されています。しかし、どの部品も壊れれば他の部品に取り換えることできます。この意味では、どの部品も、ロボット全体にとって、かけがえのないものではなく、交換可能なものです。人間の脳は、他の人の脳と取り換えると、その人ではなくなるという点で、その人(全体)と脳(部分)が、かけがえのないものとして本質的に結びついています。他の器官も、臓器移植すると拒絶反応が生じる点では、全体に対して、かけがえのない本質的な関係をもつものです。機械や物質の場合、そうではありません。物質は、諸要素の相互の連関を欠いたまま、あるとき・ある場所に位置を占めることができます。ホワイトヘッドは、これを「単に位置を占めること(simple location)」といいます。それぞれの物質は、自然法則で表現される全体のプランのうちで、決められた経路を主体性なく運動すると考えられます。ここに、合目的性や価値の実現といった有機的な連関が入り込む余地はありません。全体が部分によって、部分が全体によって説明し尽くされるパターンとは、むしろ唯物論的機械論を説明する概念なのです。
では、ホワイトヘッドの有機体論の着想は中期哲学のどこにあったのかと問うとき、その萌芽は、『自然認識の諸原理』の「リズム」の章における「生きている客体(living object)」に見出せます。この客体は、自らのうちにパターンの反復を含み、ある程度は自己同一的です。しかし、それは、単なるパターンの反復ではなく「生命的なものを含んでいる客体」として理解されています。ホワイトヘッドは、「リズムの表現やリズムに対する感受性を保持している。生命とはそのようなものとして理解されるリズムなのである」と言います。
この客体がもつ「生命らしさ(liveliness)」は、その客体の状況である出来事との関係性によって認識されます。すなわち、自然には、出来事と、その出来事のうちに示されるパターンとの「コントラスト(contrast)」があります。一方で、生成する出来事は「推移」という性格によって「生命(life)」に「新しさ(novelty)」を与えます。他方、パターンは生命に「同一性(identity)」を与えます。これら新しさと同一性が相俟って「リズム」を構成します。ホワイトヘッドによれば、「リズムの本質とは同一性と新しさの融合である。その結果、諸部分が、その細部の新しさから生じているコントラストを表示している一方で、全体はパターンの本質的統一を失うことはない」。かくして自然には「創造的前進」があり、「自然は生命を含むのである」。
一見、机や椅子といった「物理的客体」は、「現象的性格」、つまり、私たちの知覚に現れている物質的客体として「一様(uniform)」です。机や椅子といった、物質的存在に、リズムなんてものはないように見えます。ところが、「原因的性格」に注目するとき、それらは、一様ではないリズムの性格をもっています。どういうことかといえば、自然の原因的性格が細分化されていくことによって明らかとなる原子や分子といった「科学的客体」と、その状況の出来事である「場」とには、リズムがあるということです。例えば、一つの楽曲は、一つ一つの音符に分解してしまったら、メロディーもリズムも失われてしまいます。一つ一つの楽音ですら、ある一定の波長をもち、その振動周期よりも短い期間には存在しえません。一つ一つの音は、ある一定の持続のうちで全体として知覚されるのです。同様に、原子や分子も、一定の波長をもちます。ゾンマーフェルトの量子条件を考えてみれば、ある原子が安定して存続するのは、量子条件を満たすときです。そうでないときは、原子は、エネルギーを減衰して、崩壊してしまいます。原子や分子は、機能するために必要な周期性があり、この意味でリズムある存在だといえます。そして、机や椅子も、「原因的性格」を探究すれば、原子や分子にたどり着くのですから、つまるところ、リズムある存在だと考えられるのです。
生命、あるいはリズムとしての客体は、「非一様な客体」と呼ばれます。「非一様な客体」は、部分と全体が本質的に不可分で、ある一定の持続をもった統一的な全体としてのみ現実に存在します。そのため、単に機械論的な存在ではなく、有機体としての存在です。中期哲学において出来事と客体は対照的でしたが、この客体は、絶え間なく進展する出来事の生成と、恒久的な客体の自己同一性とを兼ね備えています。それは、コントラストというかたちで差異性を孕みながら、パターンの反復によって同一性も保持し、諸部分を本質的に統一した全体として現実に存在するのです。
中期哲学のリズムや生命という概念は、ホワイトヘッドの後期哲学では、表立ってはあまり使われなくなります。ですが、考え方自体は、『科学と近代世界』の出来事という概念にも引き継がれています。「有機体の哲学」と呼ばれる哲学は、中期自然哲学のリズム論、生命論で既に形成されつつあったのです。後期哲学における有機体論の発展は、『科学と近代世界』のページで詳しくみていきましょう。
http://www.tetsugakusha.net/whitehead/?s=%E7%A7%91%E5%AD%A6%E3%81%A8%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%B8%96%E7%95%8C 【『科学と近代世界』】より
『科学と近代世界』―隠された編纂史
中期ホワイトヘッドの主題が自然科学の哲学であったのに対して、後期ホワイトヘッドの主題は、形而上学あるいは宇宙論だといえます。『科学と近代世界』は、そうした後期ホワイトヘッドの最初の著作です。しかし、『科学と近代世界』は、異なる時期に書かれた諸章によって構成されており、ホワイトヘッド自身の立場にも本質的な変化が認められます。中期自然哲学から『科学と近代世界』への変遷は、≪本当の構成≫にしたがって辿らなければなりません。
『科学と近代世界』の≪本当の構成≫
ホワイトヘッドの国際的な研究雑誌Process Studiesの編集長を長らく務めてきたフォードは、詳細な編纂史分析によって『科学と近代世界』にはいくつかの層があることを明らかにしました。その分析によれば 、この著作は、
(i)ローウェル講義(1924年2月)をもとにして書かれた諸章
(第1章、第3章~第9章、第13章)
(ii)ローウェル講義以外の講演・講義をもとにした2つの章
(第2章と第12章)
(iii)1925年6月の刊行時に加筆された箇所
(第2章の一部、第6章の一部、第7章の一部、第8章の一部)
(iv)刊行時に新たに追加された2つの章
(第10章「抽象」、第11章「神」の章)
という4つの箇所から構成されています。
特に1924年10月から1925年5月にかけて行われていたハーヴァード講義には、ホワイトヘッドの思索に本質的な進展があったとフォードは分析しています。つまり、(ii)と(iii)の間に不連続な転換があり、中期哲学と矛盾する特徴である「時間的原子性」をハーヴァード講義期間中に発見したことが、その転換の理由であったとフォードは主張しているのです。フォードは自らの分析が不確かで推測的にならざるをえないことを認めた上で、ハーヴァード講義に出席していたW. E. ホッキングがとったノートや「相対性」の章に加筆された箇所を論拠に時間的原子性の発見を跡づけ、『科学と近代世界』内の不連続性を強調しています。
こうした編纂史分析は、今日でもなお、ホワイトヘッド研究に多大な影響を与えています。というのも、ホワイトヘッド研究の素人は、『科学と近代世界』そのものが、後期ホワイトヘッド哲学の始まりだと考えてしまいます。しかし、フォードのこの解釈にしたがえば、(iii)(iv)の箇所こそが、中期哲学とは決定的に区別されるホワイトヘッド独自の後期哲学の≪本当の始まり≫であることになるからです。
このことは、中期自然哲学と後期形而上学の変遷を接続することにもなります。フォードの研究以前には、ホワイトヘッドの中期自然哲学と後期形而上学には、不連続な断絶と飛躍があると考えられていました。しかし、フォードの研究は、中期自然哲学と(i)(ii)の部分には連続性を取り戻したのです。
実際、伝記などの史資料は、中期と後期の連続性を示唆しています。ホワイトヘッドの講義を受けていたローは、1924年にハーヴァードへ移住する前にホワイトヘッドが後期哲学の基本的な考えを既にもっていたと聞いたと報告しています。また、ハーヴァードへ移住する前にホワイトヘッドが友人に送った手紙には、ハーヴァードでのポストは自らの考えを体系的なかたちで展開するのに好機となるだろうとも書かれています 。事実、『自然認識の諸原理』第2版(1924年8月)の序文では、「私は近い将来、これらの著作[『自然認識の諸原理』『自然という概念』、『相対性原理』]の見地を、より完全な形而上学的研究のうちに包括させたいと願っている」と記されており、既に形而上学的研究が予告されていたのです。
しかし、フォードの研究により、中期自然哲学と『科学と近代世界』の(i)(ii)の箇所の連続性が確保されたとはいえ、『科学と近代世界』内部の変遷が、ホワイトヘッド研究にとって重要な問題となりました。『科学と近代世界』の形而上学・宇宙論を読み解くにあたっては、『科学と近代世界』の≪本当の構成≫に注意しながら、ホワイトヘッドの哲学的変遷を辿る必要があります。
prehension
BY ADMIN2016/01/30TERMS
「抱握」と訳される。「抱握」はホワイトヘッドが作った術語であり、『過程と実在』では、「関係づけられてあることの具体的事実」(PR 22)と言い換えられるが、発展史的起源は、必ずしも意識を前提しないような知覚という意味で、「非認識的把握uncognitive apprehension」に遡ることができる(SMW 69)。『科学と近代世界』によると、
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S. アレグザンダー
◆サミュエル・アレグザンダー, Samuel Alexander(1859-1938)
[伝記]
イギリスの哲学者。F. H. ブラッドリーの観念論的形而上学に対して、実在論的な形而上学を展開した。主著『空間、時間、神性』(1920年)では、時空から物質、生命、神性が創発するという創発的進化論を提唱した。ホワイトヘッドは、『科学と近代世界』の序文で、アレグザンダーに多くを負っていると述べており、ホワイトヘッドの永遠的客体論や神論は、アレグザンダーの『空間、時間、神性』を批判的に超克する中で影響を受けたと考えられる。
[概要]
『空間、時間、神性』という表題が示す通り、アレグザンダーは独自の時空論を展開し、それをもとに進化も説明しようとしていた。その時空論によれば、時間と空間は本来一つであって、時間と空間が分離されていない「点‐瞬間point-instant」あるいは「純粋出来事pure event」のみが存在する(STD I-48)。それぞれの「点‐瞬間」あるいは「純粋出来事」は部分的な有限の時空であり、連続的全体としての無限の時空の限定であると考えられる。
アレグザンダーの形而上学では、連続体である無限の時空こそ真の実在であるが、この時空は実体ではなく、有限な諸現存がそれから作られるところの素材stuffあるいは質料hyleである(STD I-144n., I-341)。実体という身分は時空の複合体である有限な現存existenceに割り当てられており、実体的同一性をもつ個体が恒存するのは、ある瞬間において諸々のパターンが反復されることによって特定のプランが成立し、そのプランが、持続における種々の相に反復されることによると考えられる。
但し、時空がプランをもつのは普遍がそれ自体として存在するからではない。普遍はパターンあるいは時空的形相とも呼ばれるが(STD I-214)、不変的で永遠的な存在ではない。アレグザンダーは、普遍は変化せず不動で永遠的であると考えたことはプラトンやピタゴラス派の欠陥であると批判し、経験的なパターンの反復の内に普遍を見出す(STD I-226ff.)。
さて、こうした形而上学において、進化は、新しい質をもつ現存が時空からその複合体として創発することによると考えられる。創発とは、構成要素の数的・量的な和ではなく、新しい質的綜合であり、時空の運動から物質が、物質から生命が、生命から心が創発して宇宙が進化すると説くのが創発的進化論である。時間と空間をアプリオリな感性の直観形式としたカントとは対照的に、アレグザンダーは、時空から心も生み出され、時間が心の形式というより心が時間の形式だと言う(STD II-43f.)。時間と空間は本来一つであるが、時空の一つの側面である時間は「成長の原理」(STD II-346)として新しい現存を生み出す動性を孕んでいる。
では、新しい質をもつ現存はどのように創発するのかといえば、様々なパターンの組織化によって新しいパターンをもつ時空的複合体が生じるからだと答えうる。だが、この説明は質の創発それ自体を説明しているわけではない。例えば心は生理的布置である中枢神経系、特に大脳なくしては生じないがそれと同一ではない。生理的パターンがいくら複雑になったところで上位の質たる心性=意識性は創発しえないからである。つまり、時空のパターンは複合化しても時空のパターンなのであって、新しい質それ自体をもたらすわけではない。
この点についてアレグザンダーは、時空全体である世界には新しさへと向かう「衝動nisus」があると論じるとともに、時空を越えた未知の新しい質を「神性deity」と呼んだ。無限の時空は、その一つの側面である「時間の不休の運動」(STD II-348)によって新しい質の創発に向かい、有限なる現存を生み出していく。無限の時空は、心を生み出すまでに至ったが、心が最後の質であるとは限らない。時空の運動から物質、物質から生命、生命から心が創発したように、進化的宇宙論にもとづく「類比」に従えば、時空にはさらなる高次の質へと向かう衝動がある。その質こそ神性に他ならない。
神性はいつも、その時代の世界における最も高次の現存を越えた質となるところのものである。例えば未だ心が創発していなかった宇宙における、より高次の質も神性と呼ばれえたのであって、時空が無限の時間によって向かうところの、より高次の質が一般に神性と呼ばれる。
(吉田幸司 「過渡期ホワイトヘッドの神論―アレグザンダーの創発的進化論と対比した発展史研究」, 『プロセス思想』, 第15号, 日本ホワイトヘッド・プロセス学会, 2012, 127-138.の一部を抜粋。)
[主要著作]
『道徳的秩序と進歩』Moral order and progress : an analysis of ethical conceptions, London : Trübner & co., 1889. (English and foreign philosophical library.)
『ロック』Locke, London : A. Constable, 1908.
Foundations and sketch-plan of a conational psychology, Cambridge, [Eng.] : University press, 1911.
The basis of realism, London : Oxford university press, 1914. (Proceedings of the British Academy ; 6.)
『空間、時間、神性』Space, time, and deity : the Gifford lectures at Glasgow, 1916-1918, London, Macmillan, 1920.
STD: S. Alexander, Space, Time and Deity. Vol. I, II, Macmillan, 1966.
『スピノザと時間』Spinoza and time, London, G. Allen & Unwin, ltd., 1921.
Art and the material : the Adamson lecture for 1925, Manchester : The University Press; London, New York : Longmans, Green and co., 1925. (Adamson lectures.)
Art and instinct, Oxford, 1927.
Artistic creation and cosmic creation, London, 1928. (Annual philosophical lecture, Henriette Hertz Trust ; 1927.)
The art of Jane Austen, Bulletin, Manchester, 1928.
Spinoza : an address in commemoration of the tercentenary of Spinoza birth, Manchester : Manchester University Press, 1933.
『美と他の形式の価値』Beauty and other forms of value, London : Macmillan and Co., Limited, 1933.
Philosophical and literary pieces : by Samuel Alexander, London : Macmillan, 1939.
[関連文献]
吉田幸司. 2012. 「過渡期ホワイトヘッドの神論―アレグザンダーの創発的進化論と対比した発展史研究」, 『プロセス思想』, 第15号, 日本ホワイトヘッド・プロセス学会, 127-138.
吉田幸司. 2014a. 「ホワイトヘッド形而上学の意義―F. H. ブラドリーおよびW. ジェイムズと比較して」, 『理想』, 第693号, 理想社, 121-134.
V. Lowe. Understanding Whitehead, The Johns Hopkins Press, 1966, pp. 264ff. (アレグザンダーとホワイトヘッドの比較研究は十分になされていないが、ローは伝記的観点から研究している。)
R. G. コリングウッド 『自然の観念』、平林康之・大沼恵弘訳、みすず書房、1974年、244~273頁。(コリングウッドは両哲学の批判から自身の歴史哲学を展開した。)
遠藤弘 「S. アレグザンダーとA. N. ホワイトヘッド―その形而上学的時間論を中心にして」 『イギリス哲学研究』第2号、日本イギリス哲学会、1979年、5~13頁。
ジャン・ヴァール(Jean Wahl) 『具体的なものへ―二十世紀哲学史試論』、水野浩二訳、2010年、月曜社。
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