「土の時代」とは何だったのか

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/76908 【2020年まで私たちが生きてきた「土の時代」とは何だったのか】より

「経済」が支配した220年間

いま、新型コロナウィルスが世界構造を根底から揺るがしている。実は占星術においても2020年は、約220年ぶりに「土の時代」から「風の時代」へと激変する年と言われている。そもそも私たちが生まれて以来今まで生きてきた「土の時代」と呼ばれる時代とは一体どんなものだったのか。新刊『「風の時代」に自分を最適化する方法 220年ぶりに変わる世界の星を読む』を上梓する「星読みヒーラー」yuji氏が教えてくれた。

多くの国で君主制・王政がしかれていた「火」の時代

土の時代からこれからの風の時代へのシフターといえる存在がCOVID–19だとしたら、今私たちがまだ片足を残しているほう、つまり土の時代となったときには一体何が起き、どうやってルールが変わっていったのでしょうか。その辺りをこの項では深く掘り下げてみたいと思います。

まず、土の時代の一つ前の火の時代には、世界の多くの地域で君主制・王政がしかれていました。

世襲制・嫡男が家督を継ぐ・徳川幕府のように御三家から後継者を出すシステム等々、国によってその様式は異なりますが、基本的には家柄と血筋がものをいう時代でした。

王様を筆頭に、王族・貴族階級、騎士階級と続き、その下には一般人が続く国家が出来上がっていました(古代ローマではこの下に奴隷が続く)。

ほとんどの場合その階級は絶対で、生まれた瞬間に社会的な属性が決まっていました。

そしてその絶対王政・階級固定主義に対して反旗を翻したのが1789年に起きたフランス革命であり、1776年のアメリカ独立宣言ではないでしょうか。

これらは“既得権保持者”に対して革命を起こし、その主権を民の側に移行することに成功したものであり、統治を跳ね返し、独立した存在として認めさせた、歴史的にも非常にエポックメイキングな出来事でした。

そしてそれができた要因は2国ともに旧体制側が財政難に陥っていて体力がなかったこと、そしてフランスの場合は君主の圧政に苦しんでいた市民を“都市の裕福な資本家=ブルジョアジー”がうまく取り込んで、一気に資本主義革命なるものを成功させたことにあります。

こうして世界は洋の東西を問わず、政治の主権が“持てるものたち”へと移っていくこととなりました。

“力”を持つのは財という時代

また、この頃と前後して、イギリスでは製鉄業・繊維加工・蒸気機関の開発等が進んだ、いわゆる産業革命が起きたことで、物品の大量生産が可能となりました。

こうして手工業から工場制機械工業へと生産のステージが移ったことで各国のGDPも増加し、また資本主義革命(フランス革命等)が起きたことで世界では民が力を持ち、豊かになっていきました。

この1750~1800年代前半の間、つまりちょうど火の時代から土の時代へという時代の切り替わりのタイミングで、人類は王や貴族階級による支配から解放されただけでなく、物質的な豊かさも同時に手にできる生活へと大きくシフトすることとなったのです。

さて、土の時代への移行は前述のとおりですが、その土の時代は“具体的には”私たちに一体どのような変化をもたらしたのでしょうか。

土の時代には今までの時代のように“血筋”とか“階級”がものをいう時代ではなくなり、武力は法によって裁かれるのでむやみやたらにふるうこともできません。となれば、当然ですが、“力”を持つのは財であり、また財を生む才能や知略というものが世を動かす力であると言えると思います。

財と聞いて思い浮かぶのは当然ですが銀行、そして、土地・株等の有価証券とすぐに連想されるのは、私が土の時代の生まれだからでしょうか。

血筋>能力だったものが、血筋<能力に

土の時代は産業革命の頃に前の火の時代からバトンを受け取ったので、工場制機械工業が大いに発達し、大量生産・機械化、そして後年では自動化が進み、生産性が高まりを見せた時代でもありました。

そのため、農作物のとれる肥沃な大地、いい立地にある土地家屋、そして工場を所有しているなどということは資産家の証明にほかならず、そのような“財”を持つ者とうまく連携し、お互いの財が財を生むスパイラルを構築していったのが前述の銀行家の人たちでしょう。

王政時代のアンシャンレジームに対し、この時代では富の再生産が行われていくこととなったのです。

そうして、世界の潮流は移り変わり、火の時代にはつきものだった“血縁や血筋の問題”から解放された国や地域から新時代の追い風を受けることとなりました。

血筋>能力だったものが、血筋<能力に。効率や努力・頑張りといったものが評価される時代へと、時代を流れる空気そのものが変わっていったのです。

そしてそれを最も体現しているのが世界3位の面積を持つ国、アメリカです。

欧州のヒエラルキー社会から脱した人たちは新天地を求めアメリカへと移住しました。

なぜならそこは新世界をつくる革命家・革命の使徒たちを多く受け入れるマインドを持つ国であり、アメリカンドリームなどといわれるように、階級等一切関係なく“一発当たり”が期待できる、一世一代の大勝負がかけられるところだったからです。

適正な新陳代謝が起きずに“腐敗”する可能性も

そうして時代は進み、私たちは「お金・学力・肩書・資格」等、積み上げがものをいう時代を生きています。

例えば、優れたアイデアがあっても20年前、まだインターネットがここまで普及する前は、ツイッターでつぶやく! ということはできず、どこかの誰かに見せ、承認を受けたりする必要がありました。そしてそのためにはアポイントが必要で、そのアポイントを取るためにはそれなりのポジションが必要で……とそれなりの時間と労力をかけないと“アイデアを届けること”すらも難しい時代だったのです。

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そしてそういった世の中が進むと、ひどい場合には権力が集中し、適正な新陳代謝が起きずに“腐敗”する可能性すらはらみ、危険でもあります。ただ、その代わりといってはなんですが、企業で働くことが一定の“身分・終身雇用”を生み、また社会保障もできてきたことによって、生活基盤が歴史上初めてと言っていいほどに安定。

これにより、明日の食事のことを考えるのではなく、もうすこし未来のプランを考えたり、アクションを起こすことに繫がっていきました。そうした安定感は子供の進学やローンを組んで住宅を買う等を市民レベルでも可能にし、子供の教育や資産形成においても強力な追い風をもたらしました。特にこの土の時代の終盤、2009年には四年制大学進学率が50%を超え、多くの人たちが“学力・学歴という未来への投資”を行う時代へと繫がりました。

これはそっくりそのまま次時代である風の時代へとシームレスに移行していく特質です。なぜなら、次の風の時代は“知性・知恵”の時代といわれるもの。土の時代の後半、しっかりと“土”はその内に次時代を生きる種たちを育んでいたのです。


Facebook・長堀 優さん投稿記事

戦後の混乱期のさなかであった1949年7月5日、世にいう「下山事件」が起きています。

 国鉄初代総裁であった下山定則氏が出勤途中に行方不明となり、翌日未明に常磐線綾瀬駅付近で轢断死体となって発見された事件です。

 鑑定にあたったのは、当時東京大学法医学教室教授であった古畑種基(ふるはた・たねもと)博士でした。

 遺体の轢断面に生活反応がないことなどから、古畑博士は下山氏の死因を「他殺」と断定します。

 また、下山氏の服は脱がされた状態で遺体を覆っていただけであり、遺体の一部に油がベットリと付いているなど、自殺とするにはあまりにも多くの疑惑も警察の鑑識から提起されていました。

 にもかかわらず、この事件は、最終的に「自殺」として処理されたのです。

 そして、国鉄職員の整理に反対していた下山総裁亡き後、職員の大量首切りが断行されていくことになるのです。

 学生時代、私は、授業で紹介された古畑博士の著書「法医学入門」を読んでいました。

 この本には、下山鑑定を「他殺」と判断するに至った根拠とその後の経緯が、古畑博士自身の言葉で詳細に解説されていました。

 当時の私は、日本の戦後処理がどのように進められたかなどは知るよしもなく、なぜこれを警察が自殺としたのか、不思議なこともあるものだ、ぐらいにしか考えていませんでした。

 しかし、今回Amazonでたまたま目にした松本清張氏の「日本の黒い霧」を読むにつけ、四十年の時を経て、下山事件の影で暗躍した勢力、つまり戦後日本を支配してきた構造をあらためて認識することになりました。

 この作品は、もともとは1960年、文藝春秋に連載された短編を集めたものです。

 その後、2004年に新装版として復刻されているのですが、なんと2020年に第23刷が発行されています。つまり、六十年も前に執筆されたノン・フィクションが、今だに売れ続けているわけです。驚くしかありません。

 この作品の冒頭に掲載されている短編が、この「下山事件」についての考察でした。

 膨大な資料を丹念に読み込んだ上で、事件を鋭く分析していく清張氏独特の手法は、上質の推理小説を読むようで実にエキサイティングでした。

 しかし、GHQの謀略が次第に明らかになるにつれ、その非情な振る舞いに、私は激しい感情が湧いてくるのを抑えることができませんでした。

 GHQへの激しい思いは、拙著「いざ霊性の時代へ」を執筆する際の大きなモチベーションの一つにもなりました。日本の支配構造の中心は、近年、米国から近くの国に移ったとも言われますが、その力は現代においても何ら変わりなく、さらに悪化しているようにさえ感じます。

 下巻では、「帝銀事件」も取り上げられています。

 犯人の落ち着きはらった態度、毒物の致死量や効果の発現時間を知り抜いたかのような行動、そして素人とは縁遠い駒込型ピペットを所持していたことなどから、警察の捜査対象は、当然のように軍医に絞られていきます。

 そして、かの石井中将が率いた旧731部隊関係者もその対象に含まれていくのです。

 ちなみに、石井中将については、ソ連が戦犯の一人として起訴を要求していたにもかかわらず、アメリカは庇い続けました。そして、まもなく勃発する朝鮮戦争では、旧731部隊の関与が疑われる細菌兵器が実戦で用いられることになるのです。

 捜査は、適切な方向へと向かって極めて緻密に進められていたはずですが、しかし途中から急激に方針が転換され、北海道から拉致されてきた市井の画家、平沢貞通にすべてをかぶせて「解決」してしまうのです。

 平沢に手形詐欺の前科があったことから、当初は批判的であった世論も沈静化していきます。しかし、詐欺と稀に見る大量殺人はその本質が大きく異なることは明らかです。

 平沢に毒物の知識や使用経験があったとは到底思えず、毒物の詳細もその入手経路も明らかでないにもかかわらず、最高裁でも彼の死刑判決が覆ることはありませんでした。

 清張氏は、この点につき、「GHQが旧陸軍の特殊研究を参考にしていたある種の組織を日本側の捜査から表面に出るのを防衛したためであった」と推定していますが、的外れな指摘ではないはずです。

 戦後七十五年を経た現在に至るまで、日本は、このGHQの呪縛から解放されることはなく、その網の目はますます巧妙に、そして強力に我々を絡めとり、今の騒動を通じ、今やまったく身動きが取れなくなってしまったかのように思えます。

 つまり、この「日本の黒い霧」が迫った日本の影の支配構造は消え去ることなく、あの時よりますます堅固になって今に続いているわけです。

 その意味からすれば、この作品の価値は古びることなく、逆にこの時代にその輝きを増していると言えるでしょう。

 「真実」は決して色褪せることはないのです。

 だからこそ、この本が今も売れ続けているわけであり、清張氏の慧眼とその勇気にはただ敬服するばかりです。

 現在の一見絶望的にも見える状況から我が国が脱する第一歩は、この国を厚く覆う黒い霧をまず知ることではないかと思います。

 黒い霧、つまり戦後の日本における支配構造の原点を考える上で、この本はとても重要なヒントを与えてくれるはずです。

 どんな霧も、未来永劫太陽の光を遮り続けることはできません。

 外国が勝ったようにみえる現在、日月神示が説くような「神一厘の仕組み」は、果たして発動するのでしょうか。厚い霧の向こうに青い空がひろがっていることを信じ、今は自分にできることをしていくしかないようです。


Facebook・兼井 浩さん投稿記事

戦争責任者の問題 ~伊丹万作~

「だまされていた」と言って平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。

いや、現在でもすでに別のうそによって だまされ始めているにちがいないのである。

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だますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。

そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。

このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまったくその本質を等しくするものである。

そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。

それは少なくとも個人の尊厳の冒涜、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。

我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。

「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。

「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである。

一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。

『映画春秋』創刊号(昭和二十一年八月)より一部引用 

http://www.aozora.gr.jp/cards/000231/files/43873_23111.html ← 全文

伊丹 万作(いたみ まんさく、1900年1月2日 - 1946年9月21日)は、日本の映画監督、脚本家、俳優、エッセイスト、挿絵画家。本名は池内 義豊(いけうち よしとよ)。

主な監督作に『國士無双』『赤西蠣太』、シナリオに『無法松の一生』『手をつなぐ子等』など。長男は映画監督・俳優の伊丹十三、長女は大江健三郎夫人の大江ゆかり、孫は俳優の池内万作、池内万平。

***

戦時中だけでなく、現在の日本も独裁者にとって支配し易い国なんです。

思考停止状態では、知らないうちに操られます!

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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