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https://utsunomiya-8story.jp/wordpress/wp-content/themes/utsunomiya/image/archive/contents08/pdf_08.pdf【宇都宮城の歴史】より
「前ぜん九年く ね んの役えき・後ご三年さんねんの役えきと宇都宮城 ①」
重要視された宇都宮城
宇都宮城最初の城主といわれる藤 原ふじわらの宗円そうえんは前九年の役(1051~1062年)の際に奥州に進軍する 源 頼 義みなもとのよりよしに従って京都から下ってきたといわれています。
また, 源 義 家みなもとのよしいえ(八幡はちまん太郎た ろ う)は後三年の役(1083~1087 年)のとき二荒山ふたあらやま神社(宇都宮大明神)に戦勝祈願をしたといいます。
文治5(1189)年, 源 頼 朝
みなもとのよりともは奥州藤原氏を攻めるにあたり,先祖である頼義・義家の例にならって戦勝祈願し,勝利のお礼として「生虜せいりょ」(戦場で生け捕りにされた人)を二荒山神社に献じたとされています。
時代が下って天正 18(1590)年,豊臣秀吉は小田原の北条氏を滅ぼして事実上の天下統一を果たしたとき,宇都宮城に滞在して,関東・東北地方の大名の配置を決める「宇都宮う つ の み や仕置し お き」を行っています。
このように,宇都宮および宇都宮城は,それぞれの時代で,東北地方との関係で重要な役割を果たしていたのです。
そこでまず,宇都宮城の起源とも関係する,前九年・後三年の役を見てみましょう。
「前ぜん九年く ね んの役えき・後ご三年さんねんの役えきと宇都宮城 ②」
宇都宮氏の祖
前九年の役(1051~1062 年)は,現在の岩手県で勢力をもっていた豪族・安倍
あ べ氏が南下して,陸奥国む つ の く に(福島県・宮城県・岩手県・青森県)の国司
こ く しと衝突したことからおこりました。この乱の平定に活躍したのが当時源氏の棟 梁
とうりょうだった 源 頼 義みなもとのよりよしです。源氏は関東地方の武士たちとの関係を
強めていましたが,朝廷の命令で,武士たちを率いて安倍氏と戦うことになったのです。
このとき,近江国おうみのくに(滋賀県し が け ん)石いし山寺やまでらの藤原宗円ふじわらのそうえんという僧そうが,頼義よりよしに従って下ってきたとされています。宗円は,頼義に命じられて宇都宮大明神(現・二荒山神社)で戦勝祈願を行い,その効果があって安部氏を滅ぼすことができました。その功績で宇都宮大明神の「社務職し ゃ む し き」(神官の長で,神社の領地の支配を行う。)に任じられたといいます。
この宗円が二荒山神社の南に館を築いたのが宇都宮城の始まりであり,子孫が代々「宇都宮」の苗字を名乗って城主を務めたとされています。
宗円の出身については,関白かんぱく藤原通兼ふじわらのみちかねの子孫であり,また「天台てんだい座主ざ す」であったという言い伝えもありますが,別な説もあります。
「前ぜん九年く ね んの役えき・後ご三年さんねんの役えきと宇都宮城 ③」
宇都宮氏の出自
藤原宗円ふじわらのそうえん(宇都宮氏の祖)が名門貴族の出身だったということは,当
時の資料にはっきり出てくるわけではないので,事実かどうかわかりませんし,実在の人物だったかどうかもわかりません。
宇都宮氏の一族・重臣の本拠地が,主に現在の栃木県南東部から茨城県にかけて分布していることや,宇都宮氏歴代の墓所が茨城県に近い益子町の上大羽か み お お ばにあることなどから,もともと宇都宮氏は常陸国ひたちのくに(茨城県)の出身で下野国
しもつけのくに(栃木県)に進出してきたのではないかとも言われています。
いずれにしても,平安時代に二荒山神社の祭祀さ い しと神領の支配権を手に入れた豪族ごうぞくが宇都宮氏の祖であり,神社の南側に築いた 館やかたが宇都宮城の起こりとなったことは間違いありません。
戦勝祈願が,本当にそのきっかけになったかどうかははっきりしませんが,宇都宮氏の祖である豪族が,武士の棟 梁とうりょうに近づき,自分の領地の支配権を確立させることに努めたということは考えられます。
「前ぜん九年く ね んの役えき・後ご三年さんねんの役えきと宇都宮城 ④」
源義家と清原氏・奥州藤原氏
前九年の役で滅んだ安倍あ べ氏の後に東北地方で勢力を伸ばしたのが,清原きよはら氏です。この清原氏の内部抗争に,源氏の棟 梁とうりょうである 源 義 家みなもとのよしいえが介入したのが,後三年の役(1083~1087 年)です。
義家は,雁かりの飛ぶ列の乱れを見て敵の存在を察知したり,逃げる敵と和歌のやり取りをしたりと,文武を兼ね備えた理想的な武将として語り伝えられています。
しかし,前九年の役が朝 廷ちょうていからの正式な命令で出兵したのに対し,後三年の役は,義家が関東の武士たちとの私的なつながりを利用して軍事行動をおこしたといわれています。
後三年の役の結果,清原氏は事実上滅び,東北地方では,義家と協力した藤 原ふじわらの清衡きよひらが平 泉ひらいずみ(岩手県平泉町)に本拠を置き,その後百年続く奥州藤原氏繁栄の基礎を築きました。
一方で,源氏が関東の武士たちの長としてゆるぎない地位を得ることになり,のちの鎌倉幕府の成立へとつながっていくのです。
そのような重要な出来事であった後三年の役の際に,宇都宮氏や宇都宮城はどんな役割を担ったのでしょうか。
「前ぜん九年く ね んの役えき・後ご三年さんねんの役えきと宇都宮城 ⑤」
後三年の役と宇都宮氏
後三年の役(1083~1087)は,その後の歴史の流れに大きな影響を与えた事件なのですが,その際の宇都宮氏の動きや宇都宮城のかかわりについては,よくわかりません。
後三年の役についての記録にも,宇都宮氏関係の記録や系図にも出てこないのです。
伝承によれば,宇都宮氏の祖である藤 原ふじわらの宗円そうえんは,天永てんえい2(1111)年に没しているので,後三年の役当時は宗円が宇都宮城にいたことになります。
東北地方への出兵に際しては,下野国しもつけのくに(栃木県)は前線基地として,また兵士の供給地として重要な役割を果たしたと考えられますので,記録類に出てこないのは不思議です。
後三年の役に限らず,11 世紀の後半から 12 世紀の中ごろまでは宇都宮氏に関する記録はほとんどなく,動静が不明です。このことが,藤原宗円が実在の人物かどうか疑われるもととなっています。
宇都宮氏がはっきりとすがたを現すのは,約百年後の宇都宮う つ の み や朝綱ともつなの代
になってからです。朝綱は,後白河ご し ら か わ法皇ほうおうを警護する名誉ある地位とされていた「北面ほくめんの武士ぶ し」を務めています。
この百年の間に宇都宮氏は,私たちにはうかがい知ることができない歴史の水面下で,着々と力をつけていたのでしょう。
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