https://plaza.rakuten.co.jp/soukailife/diary/200805290000/ 【キャンドル・ダラーナ(ローソク冥想) (6)】 より
かつて沖ヨガ道場ではローソク冥想をよく経験しました。(*沖ヨガは冥想と書きます)
暗くした室内の中央に火のついたローソクを置き、それを輪になって囲み、見つめる瞑想です。目には力を入れず、ローソクを見つめ炎の揺れる姿を観察します。
炎の中の色、外の色、風で揺らぐ様子。じーっと見つめます。そして目をときどき閉じ、まぶたの裏に移る炎の残像を見ます。
そして炎を心に広げ一体化し対象とひとつになる三昧(さんまい:サーマディ)の境地に!
・・と行きたいところですが。
それがなかなか足がしびれたり、じっとしてると体の歪みが強く感じられそれが瞑想の邪魔をしまして~(笑)
このローソク冥想は、凝念*(ダラーナー)の段階の瞑想です。
*凝念はパタンジャリが著わしたとされる「ヨーガスートラ」でいう8支則(アシュト・アーンガ)のヨガ(ヨーガ)の6番目です。
やって見るとわかりますが燃える炎が人間の感性に与えてくれるものがあるんです。
原始時代に火を使い、寒いときに暖を得たり、火によって調理することで食べられる”ものが飛躍的に拡大したことでしょう。危険な動物の攻撃を火によって撃退することもできたでしょう。
暗い中で燃える一つの炎を、洞窟の中で昔の人が見つめたようにローソク冥想をすることで記憶庫(DNA)の中にアクセスするように思えるのです。
これが自分が考えた砂時計を見つめる瞑想だと心に与えてくれるものが違うんです。
砂時計はなんか寂しくなっちゃうんです。(^o^)
暖かさ、光、それを心の中の働きと一体化する・・キャンドル・ダラーナ(ローソク冥想)
試して見て下さい。
余談ですが、インドの火の神さまは、”アグニ”といいます。このアグニという言葉が
点火装置イグニッションという英語の語源になったといいます。
あっそれより、火の用心を忘れずにd(^-^)
https://plaza.rakuten.co.jp/soukailife/diary/200805300001/ 【一点凝視と半眼2つの目の使い方 (2)】 より
ヨガにおけるふたつの眼の使い方を考察してみます。
一つは凝視型です。これはトラータカやドリシュティがあります。
”トラータカ”はハタヨーガの文献である
「ハタヨーガプラディーピカー」や「ゲーランダサンヒター」によると
浄化法のひとつで微細な一点を心を静めて”涙がでるまで”視線を動かさず見つめる作法(行)です。
きのう書いたローソク瞑想なども、この一点凝視タイプのバリエーションですが本来のトラータカは目の浄化法のようです。沖ヨガでも目の体操として行ないます。
アシュタンガヨガで動きの中で使う、ドリシュティも一点凝視ですね。
これも使いこなすことにより、動きの質がレベルアップするものです。
二つめは”半眼”という、目をつぶらず、まぶたを半分閉じる禅や瞑想の眼の使い方です。
凝視と反対で視線は定めず、動かさないのですが、眺めないように、視点をぼかす目の使い方です。
僕が考えるには、ポイントではなく空間を見ている=感じている状態のようです。
剣豪、宮本武蔵などもこの眼の使い方をしていたようです。
坐禅(曹洞宗系)では、敢えて視線をぼかすために面壁といい壁に対面し坐禅を組むようです。
以下、禅僧にして作家である玄侑宗久氏の「禅的生活」ちくま新書のなかにでてくる眼の使い方に書いてある文章です。
「それはすぐに目の疲労につながる。
いきおい眼差しはぼんやりして「見るともなく見ている感じ」になってくる。
半眼ではあるが眼を開いて坐禅するのはそのためだ。」
「じつはこの「見るともなく見ている状態こそ、禅にとっては大切なのである。
やや専門的に言えば意識を拡散したまま、集中している状態、と云えるだろう。」
「理性的なあなたは左脳の支配下にあり、そこでは全体を分断して部分にすることで物事を判断しようというはたらきが優勢である。
そこにおいては喜怒哀楽も視覚的な根拠や言葉まで獲得してエラそうにしはじめるのだ。
しかし永いこと面壁しているとその根拠が得られなくなり、やがては感情そのものが自身をなくして消滅する、ということなのである。」
奥が深いです。
眼の使い方で感情という妄想を消滅させる面壁半眼。
先のトラータカや一点凝視の移動で動きの質を変えてしまう、ドリシュティの凝視の使い方と合わせ、その違いを意識してヨガに使ってみて下さい。
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