麦の穂をたよりにつかむ別れかな

http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/muginoho.htm 【麦の穂を便りにつかむ別れかな】より

芭蕉db

  元禄七、仲夏のころ、江戸を出で 侍りしに、人々送りけるに申し侍りし

麦の穂を便りにつかむ別れかな(有磯海)(むぎのほを たよりにつかむ わかれかな)

麦の穂を力につかむ別れかな(真蹟懐紙)(むぎのほを ちからにつかむ わかれかな)

 元禄7年5月11日、江戸を発ち、最後の上方の旅へ。句の詠まれた情景は品川か川崎だが、ここで門人達と最後の別れとなった。寿貞尼の子次郎兵衛を連れての旅だが、途中寿貞尼の訃報に接し、次郎兵衛は再び江戸に戻り、これも最後の別れとなる.時に芭蕉51歳の初夏。

 『陸奥鵆』には、この句に先立って桃隣の詞書:

「老いたるこのかみ<兄松尾半左衛門のこと>を心もとなく思はれけむ、故郷ゆかしく、又、戌五月八日、此の度は西国に渡り、長崎にしばし足をとめて、唐土舟(もろこしぶね)の往来を見つ、聞慣ぬ人の詞も聞かんなど、遠き末を誓ひ、首途(かどで)せられけるを、各々品川まで送り出、二タ時計(ふたときばかり)の余波(なごり)、別るる時互にうなづきて、声をあげぬばかりなり。駕籠の中より離別とて扇を見れば」とある。

麦の穂を便りにつかむ別れかな

 一句には勿論文芸的装飾があるにしろ、芭蕉の体力は既に往昔のものではなかったはずである。よろける姿が現実にあったかどうかは知らないが、見送った門人達すべてに、「今度こそ」という思いはあったであろう。力学的に全く頼りにならない「麦の穂」が、「頼られる」ところに切実さが極まっている。名句。

 なお、見送りの門人の句はつぎのとおり。

刈り込みし麦の匂ひや宿の内  利牛  麦畑や出ぬけても猶麦の中   野坡

浦風やむらがる蝿のはなれぎは 岱水  以上『炭俵』

落着の故郷やちやうど麦時分  杉風  新茶ぞと笈の懸子に一袋    滄波

一休み樗の花や昼の辻     杏村 など 以上『別座舗』


https://yeahscars.com/kuhi/muginoho/ 【麦の穂をたよりにつかむ別れかな】より

むぎのほを たよりにつかむ わかれかな

麦の穂をたよりにつかむ別れかな松尾芭蕉 晩年元禄7年(1694年)、大坂で客死する芭蕉、最後の旅立ち。川崎宿を少し過ぎたところの京口にある腰掛茶屋・一茶亭(通称「榎だんご」)で、団子を食べながら、見送りの弟子たちの句に応えるかたちで成った句。

5月11日、寿貞尼の子で、芭蕉の息子とも目される次郎兵衛を連れて江戸深川を発ち、故郷の伊賀上野に向かう。死を決して旅に出たわけではなく、「長崎にまでも足を運び、外国人の声も聞いてみたい」と言っていた。しかし、句には一抹の不安が表れ、見送る者には心もとなく映っていた…

この時、野坡には「麦畑や出抜けても猶麦の中」の句がある。当時、辺り一帯は麦畑だったという。

▶ 松尾芭蕉の句

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京浜急行八丁畷駅前の句碑(神奈川県川崎市)

麦の穂をたよりにつかむ別れかな京浜急行八丁畷駅の改札を出て、正面を線路沿いに数十メートル行くと、道の左側に祠があって、その中にこの句碑がある。俳人一種が、天保の三大俳人の一人として知られる桜井梅室に揮毫してもらって、文政13年(1830年)8月に建立。

当初は、この句が詠まれた茶屋跡に建てられたというが、その後転々として、昭和27年6月に地元の俳人たちによって、南西に500mほど下った現在地に移された。前回の東京五輪を前に保存機運が高まり、現在は町内会「芭蕉の碑保存会」で管理している。近くの日進町町内会館「麦の郷」や「芭蕉ポケットパーク」にも、関連展示物がある。

句碑前は緑地となっており、保存会で麦を栽培したりしているとのことであるが、周囲はビル街で、ここに麦畑があったとは想像さえできない


https://history.kaisetsuvoice.com/Edo_Genroku_Basho4.html 【松尾芭蕉の生涯(四)晩年】より抜粋

麦の穂を 便につかむ 別れかな

(意味)私はよろめいて、思わず道端の麦の穂に取りすがってしまう。そんなにもわが身は衰えているのだ。それにつけても心細い別れだ。

ふたたび大津や膳所、堅田をまわり、次に故郷伊賀上野に墓参りのために里帰りしました。兄半左衛門も、ほかの家族もすっかり衰えて杖をついて白髪頭になっていました。つくづく、時の流れというものを感じる芭蕉でした。


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