「新年の飾り物としての蓬莱」を「蓬莱伝説」に傾斜して捉えた故の違和感をコメントに入れてしまいました。軽率をお許しください。記事を削除させていただきました。
https://ameblo.jp/laphroaig-10/entry-11259545323.html 【元日や神代のことも思はるゝ】より
◎元日や神代のことも思はるゝ
すべての罪や穢れが祓われ、すべてのものが改まり、われわれの命がよみがえる正月。この正月を迎え、伊勢の神宮の室町時代の禰宜荒木田守武は
元日や神代のことも思はるゝ
という句を詠みました。
一年の季節の周期の中で、ことあるごとに神々に祈りを捧げ、神々とともに生きてきたわれわれ日本人にとって、その願いを最も強くするのが正月ではないでしょうか。われわれの祖先である神々の時代すなわち天地の初めの時、新鮮な、純粋なそして生命力あふれる時は、さまざまな神事や行事によって毎年この正月に再現されます。守武のいう「神代」は、まさに正月に現前するといえましょう。
https://shinyokan.jp/senryu-blogs/akiko/14042/ 【俳諧の祖、荒木田守武(あらきだ・もりたけ)への関心】より
鉛筆と紙 生前どれだけ活躍した人であっても、長い歴史に名を留めることはむずかしい。荒木田守武は俳諧の祖としての名前だけしか知らなかったが、たまたま宿泊の神宮会館の近くに句碑があることを案内絵地図で見て、関心をもつに至った。俳諧の祖ということは川柳の祖でもあるわけだから、句碑を見たいと思っていた。
荒木田 守武(あらきだ もりたけ、文明5年(1473年) – 天文18年8月8日(1549年8月30日))は、戦国時代の伊勢神宮祠官・連歌師。荒木田一門薗田氏の出身。山崎宗鑑とともに俳諧の祖とも言われている。
1541年(天文10年)一禰宜となる。山﨑宗鑑から連歌を学び、「新撰菟玖波集」に入集されたものをはじめ、1508年(永正5年)の「法楽発句集」などの連歌集、1530年(享禄3年)の「独吟百韻」1540年(天文9年)の「守武千句」などの俳諧集、1525年(大永5年)の教訓歌集「世中百首」などがある。(Wikipedia)
5日。9時半頃、神宮会館の横から神宮バラ園のほうに坂道を上がる。バラ園は開いていなかった。中の荒木田守武句碑の位置を確かめてから、神宮相撲場の横を通って神宮会館内のエレベーターで降りる。西館1Fまで。フロアから直接バラ園に出られるようになっている。バラ園の囲いに入ると、隅に句碑。
画像-0317 《元日や神代のことも思はるる》(守武)。
エレベーターで神宮会館本館1Fまで。ソファ席にて休憩。荷物を預けて、昼食に「とうふ屋」まで。更に「魚福」で焼ガキ2個。御幸道路を渡って西へ。少し歩くと、歩道のすぐ右横に墓地。入っていくと荒木田守武墓碑。墓地なので、さすがに写真に撮るのはやめておいた。
再び神宮会館1Fにて休憩後、守武が住んでいた辺りにあるという碑を見に行く。
画像-0319 この碑の横に立つと、バラ園の句碑や墓碑とともに、ごく近くに神宮会館を囲むように三角形に点在していることが分かる。守武の伊勢神宮祀官として貫いた一生、俳諧に遊んだ一生がまざまざと見えてくる。
なんとも理想的な人生ではないだろうか。神宮禰宜である私の畏友も、この地にすでに墓も建てたと言っておられた。文筆に長けておられるので、守武の人生とも少し被る。私は川柳の旅を通じて、いま守武に出会っている。今度お会いしたときには、俳祖荒木田守武の話ができるように、少し勉強しておこうと思っている。
http://gauss0.livedoor.blog/archives/6977475.html 【伊勢内宮の神官・連歌師・俳諧師 荒木田守武の命日(新暦8月30日)】 より
今日は、戦国時代の1549年(天文18)に、伊勢内宮の神官・連歌師・俳諧師荒木田守武の亡くなった日ですが、新暦では8月30日となります。
荒木田守武(あらきだ もりたけ)は、1473年(文明5)に、伊勢において、伊勢内宮の神官を世襲する荒木田七家の一家で、内宮三禰宜だった父・荒木田守秀、母・荒木田(藤波)氏経の娘の子として生まれました。1487年(文明19)の15歳の時、禰宜となりましたが、若い頃より連歌を好み、1495年(明応4)の23歳の時、飯尾宗祇選『新撰菟玖波集』に兄の守晨と共に1句入集しています。
連歌を宗祇、宗長、猪苗代兼載らに学び、1508年(永正5年)には、発句集『法楽発句集』を作りました。また、和歌も能くし、1525年 (大永5)に、世人を教諭する教訓歌集『世中百首(伊勢論語)』を作っています。
1530年(享禄3)に、俳諧集『俳諧独吟百韻』を作り、1540年(天文9)の68歳の時、独吟の俳諧千句『守武千句(飛梅千句)』を作って、山崎宗鑑とともに俳諧独立の機運をつくり、宗鑑と並んで俳諧の祖と呼ばれるようになりました。伊勢内宮の神職としても累進し、1541年(天文10年)の69歳の時、伊勢内宮一禰宜(長官)となり、薗田長官とも呼ばれています。
俳諧に座興的性格から脱して文芸性をつけようとしてきましたが、1549年(天文18年8月8日)に、伊勢において、数え年77歳で亡くなりました。
<代表的な句・歌>
・「飛梅や 軽々敷くも 神の春」(独吟千句)
・「落花枝に 返るとみれば 胡蝶かな」
・「元日や 神代のことも 思はるゝ」
・「散る花を 南無阿弥陀仏と 夕哉」
・「青柳の まゆかく きしのひたひかな」(守武千句)
・「聟入りの道のほとりの花薄 とくりを持たせ秋風ぞ吹く」
・「春の夜の朧月夜(おぼろづくよ)と世中の博打(ばくち)うたぬにしくものはなし」(世中百首)
〇荒木田守武の主要な著作
・連歌集『宗長追善千句』
・連歌集『秋津洲千句』
・随筆『守武随筆』
・発句集『法楽発句集』 (1508年)
・歌集『世中百首(伊勢論語)』 (1525年)
・俳諧集『俳諧独吟百韻』(1530年)
・俳諧集『守武千句(飛梅千句)』 (1540年)
・歌集『法楽和歌千首』 (1546年)
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