https://ameblo.jp/sakuramitih31/entry-12465748905.html 【いそのかみ ふるき都の 郭公 声ばかりこそ 昔なりけれ】 より
いそのかみ ふるき都の 郭公 声ばかりこそ 昔なりけれ 素性法師
(いそのかみ ふるきみやこの ほとどぎす こえばかりこそ むかしなりけれ)
意味・・ここ、石上の古都で鳴くほとどぎすよ。昔と同じような声で鳴くのはお前たちだけだ。それ以外の風物は長い星霜を経て、すべて移り変わったように荒廃している。自然は変わらないが、人の営みは変わるという無常観を詠んでいます。
注・・いそのかみ=石上。奈良県天理市石上。「古き」の枕詞。 声ばかりこそ昔なりけれ=声だけは、昔のそのままであるが。「こそ・・けれ」の形で、あたりの風物はすべて昔とうって変わったという余韻をこめている。
作者・・素性法師=そせいほうし。~909。俗名良岑玄利(よしみねのはるとし)。遍照の子。雲林院に住み権律師になる。
出典・・古今和歌集・144。
https://blog.goo.ne.jp/chorinkai/e/34a3ab710bae5a180764844271476b55 【「不易(ふえき)と流行(りゅうこう)」という諦観】 より
今日の不況では政界や経済界だけでなく、あらゆる分野において、人間の発想の改革が欠かせないことが明らかになりました。それについて思い起こすのが俳聖松尾芭蕉翁(1644生~1694没)の芸術論ともいうべき、「不易と流行」の諦観です。翁のいう不易は、(易(か)わらないこと・不変)です。流行は、はやりではなく読んで字のとおり、〈流れ行く・移り変わること〉で、流行は翁にあっては、時代に応じた「俳句の新風」をいいます。
不易と流行とは、俳句に限らず政治・経済から人生一般に通ずる真理です。不易は、変らないことですから常住(コンスタント・常にとどまる)で、流行は、移り変わることですから無常のことです。無常も積極的な意味は今は忘れられて、世間では無常の消極的な意味の“はかなさ”だけが幅を利かせているのは淋しい限りです。翁が流行というように、いっさいは時の流れにしたがって移り動くのです。移行するのです。
“三日見ぬ間の桜”は、桜の花の散り方の速いことから、世の中の移り代わりの速さかなを譬(たと)えるのですが、悲しみの調べだけを受け取り、三日見ない間に、桜のつぼみが生長している事実を同時に諦観しなければ、本当の無常観とはいえません。
禅語の「無常観」を一つご紹介しましょう。中国の唐代の高僧大龍(だいりょう)和尚に、一人の修行僧が、「世の中で永遠に変わらないもの(不易)は何か」と問います。すると大龍和尚は、
山花(さんか)開いて錦(にしき)に似たり (山の花が咲いて錦のようだ)
澗水(かんすい)湛(たた)えて藍(あい)の如し (谷の水が満々と湛えて藍のようだ)
と、絵になるような美しい詩で答えます。前句は、“三日見ぬ間の桜”に相応する無常(流行)の速やかな一例です。後句は日本の紀州の名勝瀞八丁(どろはっちょう)の深い渓谷にいっぱいに湛えられた水が少しも動かないように見えても、微(かす)かに移行している状態です。いずれも遅い早いの差はありますが、すべて変化し移り変わらぬものはない、求められた永遠の真理とは無常の真理で、「無常の真理こそ不易(不変)である」と答えたのです。芭蕉が「流行こそ不易の本体」と結ぶのと同じです。
現在でいうなら無常・移行のもっとも速いのは、真空中の光の速度で、秒速30万キロメートル弱です。そのもっとも遅いのは氷河の流速で、一日24時間に、20センチメートルから50センチメートルが普通とされます。移行の速力に大差はあっても、すべては無常流行する事実と真理に変わりありません。
人間も例外ではありません。個人差はあっても時々刻々に老化していく事実を、悲哀感の無常感でなく、むしろ生産的な無常観を諦観しましょう。諦観は確認するだけでなく、さらに、「だからこうあるべきだ」と一歩踏み出し、進んでこそ諦観です。それはまた50歳の折り返し地点からの「人生観」の確立でもあります。
http://boulangerie.depa.jp/?eid=1086739 【不易流行と諸行無常と兵どもが夢の跡】より
具体的にどことか何がとかいう話ではないんです。ただ、ここ五年、もっと十年とかのスパンである界隈を眺めていて、チャレンジャーは現れては消えていき、何時の世もその身を盤石の固きに置いた者だけが生き残ることが出来るという歴史の教科書のような物語の繰り返しだなあと思ったので。
ネットの普及というのは価値観の複雑化においては意味があったようにも思うけど、そもそも価値が複雑になる必要があったのかという疑問も感じてしまうのです。ネットが普及してアーリーアダプター的な人たちが増えたと思うんですよ。アーリーアダプターっていうのは極度のミーハーみたいなものだと思ってください。実際は違うけど。でもネットでSNSで新しい情報をいち早くシェアしたり、人より早く新しいものを手に入れて写真をFacebookやTwitterにアップする人たちは、十年以上前に言われていたアーリーアダプターよりもかなりの早さで流行にリーチできていると思うのです。
それで一部の尖ったというか、デザインに凝ったものが取り沙汰されて、それがウケるという事例が見られるようになって。ただ、それだけ、イケてるだけでは息が続かない。五年前に最先端だったものが、今は廃墟のような風情になってしまっていて、もう腐臭が漂うので誰も見向きもしないという惨状もあるわけです。古くてダサくなったものに「古くてダサいよ」とは声をかけないんですよね。ただそれが無かったことのように扱われるだけで。自分も数年前は熱狂していたのに、ダサくなるとその時間さえも忘れてしまう。今のオッサンが80年代アイドルを懐かしむようなそんなノスタルジーなんて無いんですよ。
何時の世もやはり普遍的な価値がそびえる強固な岩盤の上にしか時の流れに添う生き方というのは存在していなくて、流れる雲を追って気づいたらこんな所まで来たんだねえとかいうファンタジーなんて何処にもありはしない。すげえ尖っててシンプルでミニマルで和の精神を追求しているブランドがあって、そのフォロワーが雨後の筍のように出てきたけど全部消えていって、そりゃあどう考えたって収益はキツイだろうといろいろ調べたら、ブランドのオーナーが単なる土地持ちのボンボンだったという虚しい現実もあるわけです。
価値で動いているわけでもなく、道理で動いているわけでもない。まずは盤石な礎を築き、機に発し感に敏なる自己を形成していくしかないんだろうと思います。かつて活躍した挑戦者たちの勇姿に思いを馳せながらそろそろ休憩を切り上げて仕事します。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」とは言いますが、不易流行を旗印に果敢に市場に攻め入った猛者たちが諸行無常の露と消え、兵どもが夢の跡というよく分からないことを書いていますが、僕もまた死屍累々の荒野を歩んでいく一人ですので今後ともよろしくお願いいたします。
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