人生との向き合い方

http://www.f-jichiken.or.jp/column/H26/yosioka171.html【「おくのほそ道」を楽しむ】より

 総括支援アドバイザー兼教授 吉岡 正彦

「古池や 蛙飛びこむ 水のおと」「夏草や 兵どものが 夢の跡」「五月雨を あつめて早し 最上川」「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」

これらはどの句も有名で、筆者が小学生か中学生の頃だったか、教科書などで習い、松尾芭蕉という人はすごいなあ、と言う印象だけが頭の片隅に残っていた。それ以来のことだったのだが、先日、あるテレビ番組で「おくのほそ道」の解説をやっており(注1)、話の内容が面白かったので、ついつい見入ってしまった。

  それまでは、芭蕉が弟子の曾良とともに、東北から日本側一帯を長く旅して、各地で有名な俳句を詠んだ程度のことしか知らなかったのだが、この番組の解説をした俳人の長谷川櫂さんによる「おくのほそ道は単なる紀行文ではなくて、人生との向き合い方を明らかした紀行文学である」という話を聞いて認識を新たにした。福島県内も旅路の一部として含まれているので、少し紹介してみたい。

この番組は、芭蕉がつかんだ新たな世界をひもとく、という主旨で全4回、内容も4部構成の放送として組まれた。今回見たのは再放送だったので、4回分、計100分間の番組を一気に見ることができた。

  松尾芭蕉は、1644(寛永21)年、伊賀上野(三重)にて下級武士の子として生まれ、武士の家に奉公人として働きつつ俳句の勉強をしていたが、名をあげたいと29歳にして江戸に出た。その後次第に誹諧師(はいかいし)として有名になり、37歳で東京は深川の芭蕉庵にて隠とん生活を始めた。そして、46歳のときに、東北の旅に出た。その道中が「おくのほそ道」としてまとめられている。 

 「おくのほそ道」は、1689(元禄2)年3月27日(旧暦、以下同じ)に東京の深川から旅立ち、栃木、福島、宮城、岩手、山形から日本海側そして岐阜の大垣(9月6日)までをめぐった旅であり、全行程は約2400キロ、150日間に及ぶ。

  その全体は原稿用紙400字詰めで30枚程度の短編だが、1692(元禄7)年に51歳で亡くなるまで、原稿に手を入れ続けていたという。単なるドキュメンタリーな紀行文ではなく、芭蕉の創作文学と考えられのは、同行した曾良の日記と比べるとさまざまに脚色されていることから、明かとなっている。

第1部は、「心の世界をひらく」と題して、江戸から白河(福島)までを扱い、旅の禊(みそぎ)にあたるとしている。つまり、長旅への祈願やお寺参りが中心となっており、白河までの道中は、旅の準備期間として位置づけられる。

  まずは深川にて、「古池や 蛙飛びこむ 水のおと」の句を詠んだ。しかし、この句は、古池に飛び込む蛙を見て、詠んだわけではないという。事実は、なにかポチャンという音を聞いて、蛙が水に飛び込んだらしいという想像により、「蛙飛びこむ 水のおと」と詠み、その後、上の句として「古池や」とつけたということだ。つまり古池に蛙が飛び込むシーンを見て、この句を詠んだわけではない。

  しかし、この句はそれまでの言葉遊びとしての俳句から、心の世界を詠む俳句に変えた名句として位置づけられるという。心に浮かんだ風景を詠むという蕉風開眼(しょうふうかいがん)の一句とされる。

  そんな試みを、実際にみちのくを旅することで試そうとしたのが「おくのほそ道」ということになる。したがって、一人の悩みを持った人間が、どう生きていったらいいのか、心に持った悩みを解決させる目的で旅を続け、帰ったときに答えを見つけた経験が書かれている。

第2部は、「時の無常を知る」と題され、白河(福島)~尿前(宮城)間である。古代、中世の歌人たちが歌でつづった名所があり、それを見に行く旅、つまりはみちのくの歌枕の旅にあたる。

  古代、中世の王朝の歌人たちに詠われた現場を訪ねるのだが、実際には、貴族たちは風の便りに聞いた想像上の場所として詠んでいることが多い。したがって、歌にあるそれらしい場所を、後づけとして探した旅であった。

  たとえば、信夫の里(福島)で、古今和歌集に「陸奥(みちのく)の しのぶもぢずり 誰ゆえに みだれむとおもふ 我ならなくに」(奥州のしのぶ草の摺り模様のように、私の心は乱れているが、それはみなあなたのせいです)と詠われた、もぢずり石(石に模様を描いて布をのせて上からたたくと模様がうつるといわれる)をさがし歩いた。そして、ある小さな村でみつけると、その石の半分は土に埋まっており、かつての風情は残っていなかったとの記述がある。ちなみに、もちずりの石は、いまも福島市山口の文知摺観音(安洞院)の境内に残っている。

5月9日には、あこがれの歌枕の地であった松島(宮城)に到着した。ここで、芭蕉があの有名な「松島や ああ松島や 松島や」を詠んだのかと思っていたら、これは後世に別人が詠んだ句であるとのこと。そう言えば、そんな話も聞いたような、と思い出した。

  ちなみに、芭蕉は「おくのほそ道」のなかに松島で詠んだ句は入れておらず、「句を入れないことで松島をたたえたのではないか」という長谷川さんの解説には、なるほどと合点がいった。

  5月13日には平泉へ行き、北上川沿いの源義経討ち死の地を訪ねて、「夏草や 兵どものが 夢の跡」を詠んでいる。また、当時は廃墟のなかに残っていた中尊寺金色堂にも寄っているが、長谷川さんによれば、時間がすべてを流していくなかでも残って光り輝くものもあることを感じ、世の中は無常であるということを悟ったのではないか、との解釈である。

第3部は、平泉(岩手)~市振の関(新潟)間であるが、「宇宙の旅」として位置づけられている。無常観の解決への旅である。

  ここでは、予定外のルートとして5月27日に、山寺(立石寺・山形)を訪ねており、千段ほどの階段をのぼり、山寺に着いた。すると、心が空きとおるような感覚を味わい、「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」を詠んだ。これは、広大な宇宙の静かさ、自然の大きさを感じたことから、スケールが大きくなった句であるという。

  さらに、残雪が残り自然条件がきびしい月山(山形)の山頂には、死ぬ思いをしてたどり着くことができ、宇宙と一体となった感覚を味わった。そこで詠んだ句が、「雲の峰 幾つ崩れて 月の山」である。ここで芭蕉が到達した境地は、「不易流行」、つまり宇宙は変わらないことと変わることが一体となっている。自然も日々変化しているが、同時に変わらないことも多い。俳句には、不易と流行の両面が必要であることを学んだという。

第4部は市振の関(新潟)~大垣(岐阜)間であるが、テーマは「人間界の旅」である。第3部で宇宙と一体となった芭蕉は、最終の構成で人間界に戻ってくる。

  ここでは、金沢に住む知人であった小杉一笑との別れ(早世)、曾良が病気になり別れるなど、たくさんの別れを経験した。そこで、人生は別れであるという人生観が示される。そこで詠んだ句が、「今日よりや 書き付け消さん 笠の露」(今日からは曾良とはなれて一人旅だ。笠に書いた同行二人(仏と自分という関係を曾良と自分との関係になぞらえた)の文字を笠の露と涙で消してしまおう)である。

  なぜ別れの歌を多く詠ったのか。出会った人とも、最後には別れないといけない。人間界にも不易流行がある。死はかならずしも悲しいことではない、との悟りを得たのであろう。

そして、8月21日、大垣(岐阜)に到着し、最後に詠んだ句が、「蛤の ふたみにわかれ 行く秋ぞ」である。蛤のふたと身が分かれるように、私は見送る人びとと別れて、次の旅として二見が浦や伊勢神宮に行こうとしている。晩秋の季節がら、別れの寂しさが身にしみる、ほどの意味である。旅の終わり寂しいが、また新たな旅(人生)の始まりでもあるとして、最後の筆を置いている。

なお、残念ながら、同番組上では福島県内での体験は、ほとんど省略されていた。芭蕉は4月21日に白河に入り、矢吹、須賀川、郡山、二本松、福島、飯坂、桑折、国見、伊達などをへて、5月3日には白石(宮城)に入っている。そこでこの間、県内で詠まれた句を紹介しておきたい。

○白河の関 1689(元禄2)年4月21日

「卯の花を かざしに関の 晴着かな」   曾良

(古人は、能因法師の歌「都をば霞と共に立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」に感動して、この関を通るときに衣服を着替えたという。自分たちは、着替えるべき装束を持たないが、せめて真っ白に咲いている関の卯の花をかんざしにして通ることとしよう。)

○須賀川 1689(元禄2)年4月22日~29日

「風流の 初めやおくの 田植うた」

  白河には芭蕉の先輩、等窮(とうきゅう)がいた。みちのくの田植え歌を聞いて、異文化に接したような新鮮な感覚を覚えた喜びを読み込んで、等窮への挨拶とした。

「世の人の 見付ぬ花や 軒の栗」

  滞在した庵の軒に栗の木の花が咲いている。目立たないが、この花のように清貧に生きている庵の主人は、行基菩薩と同じ思いを、花に託しているに違いない。

○信夫(福島) 1689(元禄2)年4月29日・5月1日・2日

「早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺」

  稲の苗取りをしている娘達の手つきを見ていると、昔、衣にしのぶ摺りをしたときの手つきがしのばれて、なんともなつかしい。(しのぶ摺りについては本文参照)

○飯坂(福島) 1689(元禄2)年5月2日

「笈(おい)も太刀も 五月にかざれ 紙幟(のぼり)」

  端午の節句も間近いので、あちこちで紙製の鯉のぼりが泳いでいる。義経の太刀や弁慶の笈(背に負う箱)もいっしょに飾ってほしいものだ。

こうして「おくのほそ道」を追体験してみると、旅がもつ醍醐味に興奮してくる。筆者も旅が好きで、これまで松島、山寺(立石寺)あるいは月山などを訪ねたことがあるが、また旅に出たくなる衝動にかられる。この夏休みの時期に、一か所でもどこか訪ねてみたくなった。

  なお、今日、俳句はHAIKUとして、世界的にも愛好者が増えているが、俳句の原点を創ったこの「おくのほそ道」4500キロにおよぶ旅路は、紀伊半島にある熊野古道やスペインを横断している巡礼の道サンティアゴ・デ・コンポステーラに匹敵するような、世界的な文化遺産として位置づけられる価値を持つのではないか。

  芭蕉と曾良の像(JR福島駅前)       山寺(立石寺)

(最後に、以上の記載は同番組を見た筆者の個人的な理解や解釈であることを付記しておきたい)

(注1)NHKテレビ 100分 de 名著「おくのほそ道」2013年10月~11月放送(再放送は2014年7月13日など)

参考文献

NHKテレビ 100分 de 名著「おくのほそ道」2013年10月~11月放送(再放送は2014年7月13日など)

http://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/26_okuno/index.html

芭蕉データベース「奥の細道」

http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/okunohosomichi/okufirst.htm

松尾芭蕉「おくのほそ道」(全)角川書店編、平成13年

※ このコラムは執筆者の個人的見解であり、公益財団法人ふくしま自治研修センターの公式見解を示すものではありません

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