https://blog.goo.ne.jp/hidebach/e/e925f3a75d29f680193c9775af35229d 【象潟(2)ー西施とねぶの花(芭蕉の道を歩く 17)】 より
芭蕉が歩いた道をたどって、訪ねる事を始めたボクは、秋田県にかほ市象潟を訪ねた。
松尾芭蕉が奥の細道で、本州の日本海側最北端、象潟へ行ったのは良く知られている。
(象潟の芭蕉像)
そこで詠んだ俳句、「象潟や雨に西施(せいし)がねぶの花」
も有名であるが、西施とねぶの花については、いずれも名前は知っていても、さて、どんな人、どんな花と聞かれると、説明が出来ない。
「西施(せいし)」について、絶世の美女と言われるが、世界三大美女の中には入っていない。入っているのは「楊貴妃、クレオパトラ、小野小町」となっている。
美女というと、その容姿は時代によって左右されるから、何とも言えないが、切れ長の目でうりざね顔の柳腰が美女の時代、おたふくで代表される美女の時代もあったに違いない。
今はAKB48に代表される美女群がちやほやされる時代である。
「楊貴妃」もその時代の肖像では、でっぷり太ったふくよかな女性というから、美人の定義も今とは違っている。
さて、その「西施」であるが、これもその時代の美女であったことには、間違い無さそうである。
「呉越同舟」で表現される、「呉」と「越」の国が争っている時代の事である。
(大まかなあらすじを以下にのべる。詳しくは「中国五千年の歴史」を参照)(西施像)
越王 勾践が、呉王 夫差に、復讐のための策謀として献上した美女、西施と言う名の美女がいた。貧しい薪売りの娘として産まれた西施は、谷川で洗濯をしている姿を見出されたといわれている。
呉の国に送り込まれた西施に、呉の国王夫差は夢中になり、呉の国は弱体化し、ついに越に滅ぼされることになる。
中国では美女の事を「傾城(けいせい)」ともよぶ。
(傾城=美女にかまけて国の運営をないがしろにし、城を傾けるから。)
西施は胸の病があったらしく、彼女が胸元を押さえ、眉間にしわを寄せ悩む姿にはなんともなまめかしく、か弱い女性の美しさがにじみ出ていたという。
西施にも弱点があったとされる。
それは大根足であったとされ、常にすその長い衣が欠かせなかったといわれている。
しかし、この当時は大根足が美女の条件であったかもしれない。
西施を知らなければ、芭蕉の句を理解できない。「象潟や 雨に西施が ねぶの花」
「奥の細道」の原文に、芭蕉は、「面影松島にかよひて、又異なり。松島は笑うが如く、象潟はうらむがごとし」と言っているが、美女西施の悩める姿と合歓の花を混ぜ合わせて、雨にけむる象潟を表現したかったものと思われる。
岩波文庫「おくのほそ道」の注記によれば、芭蕉のこの俳句の意を次のように解説している。
(雨にけぶる象潟は、 悩める美女西施を思わせる、合歓の花の風情と通い合い、美しくもさびしさを深めている。)
そして次が「ねぶの花」である。
「ねぶの花」は「合歓の花」のことであるが、合歓の木は、夕方から夜の間は葉が閉じることから、ねむる木と言われ、それが「ねむの木」と呼ぶ事になったという。
この木を実際には見たこともなく、象潟の西施像の前にあった合歓の木でしか知らない。
まして花はどんな花かボクは知らない。
https://akahiro.at.webry.info/200807/article_6.html 【『象潟や雨に西施がねぶの花』・・・ねぶの花???】 より
象潟や雨に西施がねぶの花 芭蕉【『奥の細道』
うえの句は、芭蕉が元禄二年六月十七日に秋田県の象潟〔きさかた〕で創ったものです。
ちなみに今年は7月19日が旧暦の6月17日です。
◇象潟〔きさかた〕は、1804年文化元年の大地震で水が涸れてしまって島だけが残ってあとは田圃になってしまいました。むかしは松島と並ぶ東北地方の名勝でした。
芭蕉が『奥の細道』の旅を計画したとき、まず思い描いていたのは松島と象潟のふたつの歌枕でしょう。
『奥の細道』の前文には俤〔おもかげ〕松島にかよひて又異なり。松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはへて、地勢魂をなやますに似たり
象潟の「おもかげ」は松島と似ているところもあるが、全く異なる点もあり、
松島は人が笑っているような明るいところがあるが、象潟は何かをうらんでいる様な曇ったところが見える。
象潟を詠んだ歌で有名なのは、能因法師の
世の中はかくてもへけり きさ潟の 蜑〔あま〕の苫屋〔とまや〕をわが宿にして
と、西行法師の詠んだ
きさがたの櫻は波に埋もれて 花の上こぐあまの釣り舟
画像
◇右の絵は、『みちのく芭蕉絵物語』【支倉出版】の象潟の絵で、伊沢清氏の作品です。
手前に咲いているのが「ねぶの花」つまり合歓〔ねむ〕の花、遠景に雨にけむる象潟の島々が見えています。
雨に「煙る」は通常は「けむる」ですが、「けぶる」という言い方もあります。
眠るも、ふつう「ねむる」ですが、「ねぶる」という言い方もあります。
「けぶる」「ねぶる」「ねぶ」は、「けむる」「ねむる」「ねむ」の古い言い方だそうです。
◇西施〔セイシ〕は、中国の春秋時代の越の国の美女で西子ともいう。
越の國の王・勾践〔コウセン〕が会稽の戦いに敗れたとき、呉王・夫差〔フサ〕に越の國一番の美女である西施を献じたのです。
夫差は よろこんで西施を寵愛して政治を顧みなかったために、勾践はこれを攻撃して滅ぼし、会稽の恥をすすぐことができた。政略のために敵地へ送られた憂悶の美女です。
西施が心を病んで面を顰〔ひそ〕めたさまが美しかったので、争って国中の女性がこれに従い、「西施が顰」の故事が生まれたそうです。
「西施の眠り」というのは、薄倖の美女が憂い顔に皺を寄せて、眼をなかば閉じたさまを表わす言葉です。
芭蕉は、「西施の眠り」のイメージを合歓の花や象潟の雨にけむる景色に感じ取ったのでしょう。
この句の初案は『象潟の雨や西施がねぶの花』
この句のテニヲハを変えて『象潟や雨に西施がねぶの花』
このことについて山本健吉氏は著書のなかでこのように書いています(『芭蕉』P287)
初案はab+cdつまり「象潟の雨や」と「西施がねぶの花」の単調な並列たが、
改作はA(ab+bc+cd)の数式になると解説しています。
『まず朦朧とけぶる象潟の全景があり、その中から「暗中模索」して雨中に眠る「合歓の花」を點出し、さらに胸裏に「西施」の憂悶の姿を描き出す。
芭蕉の視覚的想像力に、古典意識が加わって、幽玄にした艶なる句である。』
■『奥の細道』の象潟の全文:
江山水陸の風光数を盡して、今象潟に方寸〔ほうすん〕を責〔せむ〕。
酒田の湊より東北の方、山を越、磯を傳ひ、いさごをふみて、
其際十里、日影やゝかたぶく比、汐風真砂を吹上、雨朦朧として鳥海の山かくる。
闇中に莫作して、雨も又奇也とせば、雨後の晴色又頼母敷〔たのもしき〕と、
蜑の苫屋に膝をいれて、雨の晴を待。其朝天能ハレ霽テ、
朝日花やかにさし出る程に、象潟に舟をうかぶ。先 能因島に舟をよせて、
三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、
『花の上こぐ・・・』とよまれし櫻の老木、西行法師の記念〔かたみ〕をのこす。
江上に御陵あり、神功后宮の御墓と云。
寺を干満珠寺と云。此處に行幸ありし事いまだ聞ず。いかなる事にや?
此寺の方丈に座して簾を捲ば、風景一眼の中に盡て、南に鳥海天をさゝえ、
其陰うつりて江にあり。西はむやむやの関 路をかぎリ、東に堤を築て秋田にかよふ。
道遙に 海北にかまえて、浪打入るを所か汐ごしと云。
江の縦横一里ばかり、俤〔おもかげ〕松島にかよひて又異なり。
松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。
寂しさに悲しみをくはへて、地勢魂をなやますに似たり
『象潟や雨に西施がねぶの花』
『汐越や鶴はぎぬれて海涼し』
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