「鬼門」との正しい付き合い方、日本人が恐れる鬼の正体とは

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江戸幕府も恐れた鬼門、新井白石が迷信の解明に乗り出す

古くから艮(北東)の方位を鬼門と呼び、畏怖の対象となっていた

風水や家相に関してこれまで様々な質問を受けてきたが、中でも一番多かったのが「鬼門にトイレがあると良くないことが起こりますか?」というものだろう。鬼門については、昔から各所であれこれと議論されてきているので、書籍はもとよりインターネット上でも大量の情報が存在する。

単なる迷信か、それとも何か根拠があることなのか、諸説入り乱れる中、今回改めて、なぜ鬼門を怖く感じるのか、その正体と歴史を、江戸時代の儒学者である新井白石が執筆した鬼門の研究書「鬼門説」を軸に検証してみよう。

新井白石(1657~1725)は、徳川家宣(第六代将軍)と家継(第七代将軍)の侍講(家庭教師)として幕政にも関わった儒学者で、日本の古代史に始まり、西洋文化や蝦夷・琉球といった地誌にも造詣が深く、長崎貿易や財政にも影響力を及ぼした、当代一の知識人である。

その白石が記したのが、わが国に残された数少ない鬼門についての研究書「鬼門説」である。「鬼門説」は、白石の学問に対する「究極までに疑ってかかる」という精神に乗っとって書かれていて、当時の社会の風潮や歴史的な背景まで言及した、大変貴重な資料である。

「鬼門説」が記されるに至った背景には、当時の社会に鬼門を忌む風潮が色濃くあったことがある。一般庶民だけでなく、幕閣の中にもこの鬼門忌みの風潮が存在していたのであろう。迷信を畏怖し過ぎて悪影響があってはならないと、幕府の御用学者であった白石が、この問題の解明に乗り出したのである。

そもそも、江戸の造営と鬼門とは深い関わりがあった。「大猷院殿御實記(だいゆういんどのごじっき)」という公文書に、「大僧正天海が願いにより、忍岡の地を給わりて、伽藍を創建せしめらる。その旨趣は、むかし桓武天皇平安城に定鼎の時、傳教大師皇城の鬼門叡山の霊地をいとなみ、帝都の鎮護として千有余年皇祚長久を祈奉る事。(句読点は読みやすいよう筆者が付加)」と、鬼門除けに上野寛永寺の建設がなされた顛末が残されている。

江戸幕府をも恐れさせ、平安遷都で鬼門封じのために行なわれた延暦寺造営からはるか1,200年の時を経た現代においても、そこはかとなく怖がられているこの鬼門とは、いったい何なのだろうか。迷信やゲン担ぎが当たり前の時代にあっても、いつも冷徹な目を持ち続けた新井白石が論じた「鬼門説」をたどりながら、考察してみよう。

白石はまず、鬼門そのものの意味を知るため、唐時代に書かれたと思われる風水の専門書「黄帝宅経(こうていたくけい)」を引用し、考察している。その中で、白石が注目したのは以下の2つの記述で、1つめは「鬼門の宅は気を塞ぐ。缺け薄く空しく荒るるは吉し。これを犯せば偏枯淋腫等の災あり」、2つめは「艮鬼門は龍腹徳嚢、宜しく厚實なるべし。重吉あり。缺薄なれば即ち貧窮す。」である。

この意味は、前者が『鬼門に家を立てると、中風になって麻痺したり、腫瘍や淋病にかかり薄命になるので、手を入れず荒れるに任せているのが吉』というのに対し、後者は『鬼門とは龍の腹にある徳の詰まった袋のようなもので、大切に敬えば大変な吉を授かり、疎かにすれば貧窮する』と、それぞれ全く正反対のことを言っている。

つまり一方では、鬼門には一切近寄らず手も触れるなと言っているのに対し、もう一方では大事に敬って手入れをすれば幸運がやってくると言っているわけで、白石はその矛盾を指摘、鬼門なるものに統一見解は存在せず、定まった思想に基づいた根拠のあるものではないと判じている。

また白石は、鬼門という言葉の起源について、中国の「山海経」の記述がその出典であると結論付け、「鬼門説」の中で次の部分を引用紹介している。

「東海の度索山という地に、大なる桃の三千里に渡って曲がりくねる樹があり、その低い枝が東北に向かうを鬼門という。この所(鬼門)は諸々の鬼の出入りする所で、神荼・鬱塁という二神がいて、悪鬼を捉えて虎の餌にする。黄帝はこれに習って、桃の枝を門戸にさして、神荼・鬱塁の二神を描いて諸々の凶鬼を塞ぐ。」

「山海経」は、古代中国の戦国時代(紀元前403年)頃から前漢時代(紀元前206年〜8年)に徐々に加筆されて完成した地理書である。内容は、中国を取り巻く全方位の山河大海に住む人々や生物、その風俗や生態、そしてその地に伝わる神威や妖怪などを記録した博物書であり、日本にも多大な影響を与えている。

ただし、この原文は現存する「山海経」には含まれておらず、後漢の王允「論衝」訂鬼篇の中で引用した「山海経」にのみ存在している。白石の時代に渡来した「山海経」の写本の中には、この記述が残されたものがあったのだろう。

つまり、鬼門とは北東方向に存在する、鬼が出てくる門というわけだ。そう言われると、何となく恐ろしく感じる。日本人にとって鬼は怖いものというイメージがあり、それが鬼門への恐怖と繋がっているのは間違いないだろう。しかしこの「鬼」とは、いったい何なのだろうか。

鬼門から出てくる鬼の正体は?中国の鬼は魄、日本の鬼は悪霊や怨霊

能面の般若は、女性の内なる怨念や情念、嫉妬、怒り、悲しみを込めた女性の怨霊を表現する面

中国における鬼(キ)は、道教で言うところの「魂魄(コンパク)」の「魄(ハク)」の部分のことである。人は「魂魄」によって生を維持し、「魂」は精神を支配し、「魄」は肉体を支配していると考えられている。人は死ぬと、「魂」が3つに分かれ、1つは天に帰し、1つは地に帰り、1つは墓に帰ると考えられた。その死の際に、風水で選ばれた龍穴の地に正しく埋葬されないと、「魂」は正しくそれぞれに帰ることができず、「魄」が遺体に残されたままとなり、殭屍(キョンシー)になってさまようと考えられた。

このさまよう「魄」が、山海経で虎の餌にされた鬼の正体である。道教では「魄」は、肉体を支配する感情のことを言い、喜び、怒り、哀しみ、懼れ、愛、惡しみ、欲望の7つをまとめて七魄と呼んだ。中国人の考えた鬼とは、人の「魂」=良心が抜けて、「魄」=制御不能な感情だけがさまよっている状態のことである。ちなみに行くべきところへ行った「魂」は神になると考えられた。

さて、日本の鬼は、もともと「おぬ」と呼ばれた概念である。「隠」と言う字を当てる。隠されて見えない物、人目に触れず裏側にあるものという意味で、そこから派生して、人知を超えた力を有するもの、神へと進化していった。

日本の神という概念は、和魂と荒魂という二面性を持っている。和魂とは雨や日光の恵み、加護のことであり、荒魂とは天変地異や疫病といった祟りのことである。原始の神とは、大自然の摂理そのもののことで、この摂理が持つ二面性が、のちの怨霊信仰へと繋がってゆく。

菅原道真も早良親王も平将門も盛大に祟る。祟りが大きければ大きいほど、その二面性がもたらす恩恵、いわゆる加護も大きくなるという理屈である。だから、人は天神様(祭神菅原道真)に参り、神田明神(祭神平将門)の祭りを盛大に祝うのである。

この怨霊が神へと変化する過程でこぼれ落ちたものが鬼である。神は怨霊から変化する過程で、祟りと加護という霊験を得たが、鬼はその変貌の過程で、道教の「巡り金神信仰」や仏教の浄土信仰と混ざり合い、牛のツノを持ち、虎の皮のパンツを身につけ、鉄の棍棒を振り回し、地獄の亡者を懲らしめるという属性が備わっていった。

ちなみに昔話において、鬼を退治する多くの者は童子(小さい者)である。東洋思想において、子供は神に守られていて、霊験を発揮し悪霊を祓うと信じられていたからである。そのことからも鬼とは、悪霊・怨霊のことと認識され、日本では恐れられたのである。

北東でも角が無ければ大丈夫、名前を変えれば鬼門では無くなる?

京都御所に施された鬼門除け、北東の一角を凹ませている

さて、白石の「鬼門説」に戻ろう。白石は、古来の日本における鬼門除けの具体例として、京都御所を取り上げ考察している。

京都御所は古くから北東の隅は角を作らないよう「缺け(かけ)」が設けられていた。御所の四隅のうち鬼門に当たる一箇所だけを、写真のように凹ませたのである。白石によると、これは先述の風水の専門書「黄帝宅経」に記述されていた、「鬼門は缺け薄く空しく荒るるは吉し」を受け、角を無くすことで鬼が出てくる門の存在自体を消してしまったと言うのである。

一見、まやかしというか、子供騙しのように思えるが、当時はよく行われていて、ようはその本質を変更するのではなく、名前の変更や一時しのぎで誤魔化そうとする手法である。

これはいわゆる「方違え(かたがえ)」もそうで、行先が縁起の悪い方位にある場合、家を出たらいったん別の方角へ行き、ぐるりと大回りして本来の目的地へ向かうことで、悪方位には向かわなかったと考えるのと同じようなことである。

このような手法は、江戸時代初期には、すでに一般化していたようで、江戸城創建当時、寛永寺への参拝に便利なように艮(うしとら)の方向に門を作ったところ、鬼門に開口部を設けるのは不吉だとの騒ぎが起こり、家康が自ら指示し、門の名前を「筋違橋門」と名付けさせることで騒ぎを収めたと公式記録に残されている。

これも方違えのバリエーションにあたるわけだが、実際のところ、鬼門とは「山海経」にあるように北東という方位に意味があるのであって、塀の一部を凹まして作ろうが、門の名前を変えようが、方位に変化が起きるわけではない。そんなことで対策ができてしまう鬼門に、いったい何の意味があるのか?もちろん白石もそう考えたようで、「鬼門説」の中では、鬼門との付き合い方にも言及している。

新井白石が教える、正しい鬼門との付き合い方とは

大僧正天海が将軍に願って開いた巨大な伽藍を持つ寺院。葵の紋と金泥で彩色された偉容は圧巻

日本における鬼門は、北東にある悪霊・怨霊の出入り口であり、不用意に近付かず、畏敬の念を持って遇すべし存在であるわけだが、では畏敬の念を持たず、不用意に荒らしてしまったら、どんな祟りが起こるのか?白石は鬼門との付き合い方に関しては、こう語っている。

「東北の方を缺ざれば不吉なりといふも、世の人のいひならはせる事にて用うるにたらざるにや。かかる事は、今中華には堪輿家とて其道を学び、方位をさだむる人あり。我朝には陰陽暦家等かかることをいひ沙汰せしとみえし。『黄帝宅経』の説も一定の説ともみえず。たとへ其禁忌を犯したりとも、わづかに偏枯淋腫の病にかかるのみにて、ふかき禍ありとは見えず。」

つまり、鬼門は世間では不吉だと言っているが、中国の専門家である堪輿家(風水師)にしても、日本の陰陽師にしても、言っていることには矛盾があり、たとえ禁忌を破ったとしても、ほんのちょっと病気になる程度で、たいしたことは無い、あまり深く気にするなと言っているのである。

加えて、「佛の説にも『本来東西無。何處南北有。』と見えし。これもまた方位の禁忌あるまじき謂、しかるに後の世にいたりて鬼門に伽藍つくられて、悪気を降伏あるべしなどいふ。いかなることにや。佛の心にもたがいぬべき。」とも言っている。

これは、お釈迦様は東西南北という概念自体が無意味なことであると説いていて、まして方位の禁忌などあるはずはない。にもかわらず、鬼門に伽藍を作ったら天下泰平になるなどと、いい加減なことを言って大寺院を作らせるとは、お釈迦様の教えに背くことである。と断罪している。

新井白石の結論は、鬼門は方便の常套手段であり、あまり乗せられ過ぎると莫迦を見るぞと警告しているのである。かなり思い切った発言だが、何事も過ぎたるは及ばざるが如し、ということなのだろう。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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