アヤタチとサンカ

https://ameblo.jp/pelecyphoras/entry-12070557899.html  【アヤタチとサンカ】より

本稿先月号は、限られた紙数に所論を詰め込んだので、やや難解だったかと思う。主旨を要約すると、渡来人・応神の東征軍に対して、海人支配者のイスラエル支族・アマベが抵抗したが、同じ海人系の安曇族が応神に協力し、乱を治めて新しい海人の頭となった。アマベの1部は、抵抗を続けるために山中に入り錬金術に励んだ。後日、同族モノノベ氏および同じく同族ながら応神側に就いた秦氏(宇佐氏)も、この活動に参加した。この集団が本来の山窩(第1種)で、棟梁がアヤタチを名乗り、錬金術の傍ら剽悍な山岳民族ショケンシを訓練して諜者とした。やがて、ショケンシの活動に注目した世間は、事情を知らぬまま山窩とショケンシとを同一視し、また両者の混血種も増えてきたので、ショケンシや混血種を誤って山窩(第2種)と呼ぶようになった。

 アマベがアヤタチとなったのは応神天皇の世である。千年後の室町時代までには、アヤタチ家系にも変遷があった。アヤタチは何時のころか丹波国亀岡穴太村を本拠として上田姓を称し、経済力を高めて室町時代には京でも名高い豪商となった。とくに紡績・織布・染色などにおける活躍が著しく、信州上田にまで勢力圏を伸ばしたと聞くと、どうしてもそこに秦氏の匂いを感じる。血統が交替したのであろう。また江戸時代の酒造業は米の需給調節を目的とした幕府直轄事業と位置づけられたが、醸造そのものは民間に任され「山窩」の名主クラスだけに許可が与えられたという。これはむろん第1種の山窩である。

 外科医・渡辺政雄は、アマベ系を誇るアヤタチ上田家の外孫として、上田家の古伝承を周蔵に説いたが、モノノベもウサ(宇佐)もアヤタチの元と解説した。これは、早くから衰退したアマベに代わって、同族で古代の大姓となったモノノベがアマベと混血してアヤタチの地位を継いだこと、さらにその後、経済面に特化して常に時の権勢家と結んだ宇佐氏(秦氏のこと)がアヤタチ家系に侵入した(混じった)ことを意味するもので、アヤタチの血筋が、同族間にせよ徴妙に変移したものと思う。アヤタチ家系に変移があったのに合わせて山窩(第1種・第2種)にも変遷があった(後述)。

 明治維新の真相は、各所で階級の顚覆をもたらした歴とした社会革命である。維新以前すでに幕藩体制が歪みを生じていたのは、身分と所得のギャップが累積したからで、支配層たる武士の俸禄は相対的に減少し、士分外の者が制度外の利権・財源を確保して財源を強化した。所得の相対的増減は、階級制度の外観を変えずに、武士階層の中身を入れ換えた。オリエント伝来の錬金術と諜報戦略によって営々と地歩を築いてきた山窩(第1種)は、この機会を捉え、幕末・明治期に大きく変身し、明治社会の各所に重要な地位を占めるに至った。維新の功臣は素より成功者に、その類が多かった。

 例えば、明和元年(1764)に藩主三浦氏が三河国西尾から移封されてきた美作国・勝山藩は、幕末に至り2万3千石の藩財政がもたなくなり、財政権を士分外の者すなわち「山ノ者」「川ノ者」に委ねた。その目的は彼らの保持する山野利権を財源に組み込むためで、これを機に「山ノ者」「川ノ者」が士分に取り立てられて藩の重臣になり、彼らの特殊な経済力により、以後の藩財政を支援したと言われている。寒村を領する小藩だけでなく、将軍お膝元でさえ旗本・御家人がこの伝であったことは、勝海舟の祖父・小谷検校の事跡に明らかである。士分外の者が経済力により士分に取り立てられあるいは武士の株を買い(養子となって)〔俄武士〕となったので、維新前のいわゆる下級武士にはこの伝が多かった。

 御一新後の階級変動はさらに急激で、農村社会でも豪・中農クラスの農家では実質的な階級変動が生じた。例えば、下男が突然主人から家督を乗っ取って、主婦や子女を見下すことも多かった。かかる現象は、革命史観が普及した今日ならば歴史上必然の社会変動と見ることもできようが、当時の人士はこれを「末世ならではのあさましき事」と感じた。階級上昇の当事者さえ疾しさを感じたのは、成り上がり者の心理といえばそれまでだが、当時の社会通念に屈したのである。四民平等が強調されても封建心理は一掃されず、「革命の成果」は表面化しなかった。農村の社会的構造は変化せず、ただ各家の内部において秘かな革命が生じていたのである。

 明治社会の実権を新たに握った下級武士と士分外の衆には第1種の出身が多かった。山県閥が内務省を支配したのは、世の視線が第1種に向かないように努めるためで、維新の功臣ことに★長州出身者にその種が多かったからである。階級上昇を率直に喜べない彼らは、第1種たる出自を隠すために、四民の他に「卒族」なる偽階級を創ろうとして失敗するが、傍ら山窩の名をショケンシに押しつけ、その陰に隠れた。つまり「山窩とはショケンシ(第2種)の別名である」との虚説を広めようとしたのである。

 その偽史作業を引き受けたのが、★柳田国男と三角寛であった。柳田の当初の論文はサンカ(第2種)を客観的に捉えていたが、やがて民族学を避けて民俗学者と称し、あのまま研究を続けたならば到達した筈の第1種には終に行き着かず、現実離れした常民説に移った。内務閥に迎合し、官位を以て買収されたものと思う。昭和初期に大人気を博した三角寛の小説は第2種の生態を描写し、当初ほとんど犯罪小説の趣があったが、これも第2種に世間の目を引きつける内務省の政策に迎合したのである。自らの山窩小説により、山窩の名をショケンシ(三角はミヅクリと呼ぶ)に負わせた三角は、晩年に学位論文『サンカの社会』を著し、ショケンシの生態の客観的観察報告書の体裁で、過去に唱えたサンカ=無法者観を修正したが、その学問的外観のために、却って山窩=ショケンシの説を補強してしまった。両人の努力で、山窩といえば第2種との誤解が浸透し、今に至っている。

  山窩には、右の2種とは別に、朝鮮山窩と呼ばれる第3種があると聞く。それは朝鮮半島経由で渡来した騎馬民族で、日本社会の要所を握るに至ったという。つまり、アヤタチになった秦氏(上田氏)の家系に侵入することで、その地位と権力に乗って第1種に潜入した。確かに応神天皇以来千数百年の山窩の歴史である。民族の興亡を反映して、その中身に変移があったとしても不自然ではない。

 ユーラシア大陸の中心部を押さえる騎馬民・トルコ族は古来世界史の動因であった。西に赴くやゲルマンの大移動を引き起し、東に往くや五胡十六国の乱を生じた。トルコ族は生来の軍人で政治支配に長け、商業民を重用し農耕民を搾取して各地に軍事政権を建てた。シナの北朝から始まり隋・唐の大帝国を建てたのはトルコ族の北狄である。その1部が朝鮮半島を経由して日本に渡来し、軍権を握った可能性は否定すべくもない。それが武田氏・足利氏である。

 武田騎馬隊で知られる武田氏は、多田満仲の孫・源頼義の三男・新羅三郎義光に始まるが、義光の次男・義清が乱暴を以て流された甲斐国で、故郷の常陸・武田庄に因んで武田冠者を称したのが武田姓の始まりである。義光の長兄は八幡太郎義家、次兄は高麗次郎義綱を称した。八幡は文字通り八流の旗で、清朝も満洲軍の象徴とした。そもそも「八」は★北狄の聖数で族長たちは八角の天幕に会して重要事項を議した。★聖徳太子の夢殿もその1種だが、師匠の高句麗憎の教えによるものであろう。清朝奉天故宮の大政殿も八角の楼閣で、天幕を石造に変えたものである。

 多田満仲は本来大伴氏で、『南紀徳川史』に太田満仲と記すようにオホタと呼び、オホタタネコを祀る。多田鉱山の財力を以て清和天皇の孫の源経基(961薨去)の養子に入った満仲は、養父経基より4歳年長だったが、ともかくも清和天皇の末裔を称し得る立場となった。その家系に潜入した前述の3人は実の兄弟でなく、名乗りの八幡すなわち八流の旗は満洲トルコ族の象徴である。高麗・新羅も字の通りだが、今日の韓族・朝鮮族ではなく、半島の歴史的支配層であったトルコ族の支流で、要するに3人は北狭に属する3部族の各族長であった。

 ★源平藤橘四姓の制度と家系偽僣は日本史最大の謎で、経緯は分からないが、兵馬弓箭に長けた武力を以て荘園の用心棒となった騎馬族は、平安貴族の荘園を護ることで日本社会に溶けこみ、四姓を偽僣することを許され、やがて封建制を創設して政治実権を握る。ここでいわゆる「朝鮮山窩」に彼らを擬すのは、朝鮮と謂い山窩と呼ぶのはそれに対応する実体があったからで、その実体とは、

1 朝鮮半島を経由して渡来した事実、

2 第1種山窩の家系に混じり、乃至は入れ替わって山窩・アヤタチとなった事実である。わが歴史上で上の2つを満たすのは畢竟、北狭の系統しかありえまい。

 朝鮮山窩の名にはそぐわないが、山窩集団に潜入したと想像される渡来人は他にもいる。蓋し、多神教世界にユダヤ教・キリスト教・回教の一神教思想が浸透していくのが人類史の大勢である。つまり一神教の侵出は、歴史的必然性が生んだ自然現象ではなく、ワンワールド勢力の世界戦略の流れに沿った人工的現象なのである。ワンワールド勢力が日本列島を見逃す訳もないから、その勢力がいつしか日本に潜入していたとしても、ちっとも不自然ではない。

 ディアスポラにより東方に流移したユダ支族のセファルダム。鎌倉時代に世界に拡散したカサール系ユダヤ教徒のアシュケナジム。室町時代に奴隷商人・武器商人として盛んに来日したセファルダム系のポルトガル人と支那人とが混血したマカイエンサ。江戸時代に長崎から数多く潜入したプロテスタントで血統不明のオランダ人。外観を偽装して日本に渡来した彼らは、隠れ家として最適な山窩(第1種)を選び、その家系に潜入したと思われる。その根拠はまたも上田伝承で、『周蔵手記』に「吉松はこれもただの百姓とは訳が違い、ましてこの上田なる家柄は早くからオランダ取引をするような、商売も毛唐好みのことをして、その家の血も毛頭が入って居る由。何でも曾祖父ぐらいが円山応挙という画師でもあった由」とあるのが、それを証拠立てている。

 アヤタチ・上田家はオランダ取引する家柄で、出口鬼三郎の祖父・吉松の高祖父にあたる円山応挙(上田主水)にはオランダ人の血が入っていた。これを要するに、イスラエル支族アマベから始まる山窩(第1種)には朝鮮山窩をはじめ諸民族(多くは一神教系)が潜入した結果、重畳的に層をなして今日に至ったと見るのが至当ではないか。

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