三柱鳥居の謎を追って

http://officeichirou.com/?page_id=2266  【シリーズ三柱鳥居・1】


http://blog.livedoor.jp/kaidanyawa/archives/54608604.html 【三柱鳥居の謎を追う・8】より

中山市朗です。

さてさて、三柱鳥居の謎について書いていますが、なんと8回目になりました。

そろそろ、決着を、ということで。もう、お分かりの方もおられましょう。

三柱鳥居のある、木嶋坐天照御魂神社は、秦氏の神を祀りながらも、鴨氏の神紋がある。

秦氏は鴨氏である。

そして、美濃の山奥、山の山頂に人知れず建っていた三柱鳥居。このあたりは秦氏が開墾し、鴨縣主が治めた地域である。

つまり、三柱鳥居は、鴨氏の神の象徴なのであります。

鴨氏といえば、その祖は賀茂建角身命を祖とする一族で、それは神武天皇東征のおり、高皇産霊(タカミスビ)尊によって遣わされ、皇軍を熊野から大和へと導いたという、八咫烏を思い出します。

その八咫烏こそは、賀茂建角身命であったというわけです。

京都下賀茂神社の祭神はこの賀茂建角身命で、御蔭神社の祭神でもあります。

この八咫烏は、太陽の化身です。そして、三本の脚があります。

熊野本宮によれば、三本の脚は、それぞれ天、地、人を現す、としています。

太陽の下に、神(天)と自然(地)と人が、血を分けた兄弟であることを示したものである、と。

太陽の光を上部の三角形の入り口から取り入れ、神、自然、人の柱より放出し、聖域を清浄化させる三柱鳥居こそは、八咫烏です。

八咫烏の秘密 三柱鳥居

美濃の山奥に建つ三柱鳥居は、景教の痕跡と言うよりは、八咫烏を象徴としたものである、と考えた方が自然でしょう。私の聞いた『怪談』には、地元の人は、山神として恐れていたと言います。そして、頂上の三柱鳥居は、山全体を神域として清浄化するような存在だったと思われるのです

そこには、三柱鳥居以外は何もなかった、というのです。

山頂に降り注ぐ太陽の光を、三柱鳥居がとりいれ、三面より拡散させ、山を浄化したのです。

いわば、ピラミッド・パワーのようなもの?

木嶋神社の三柱鳥居も、糺の池の水の中にあり、その水は浄化されたものとされました。その水は禊に使われ、牛祭りの摩多羅神も、ここで禊をしたのです。

蚕の社三柱鳥居

下賀茂神社の糺の森に、古代において三柱鳥居があったのかも知れませんね。

で、この前、飛鳥昭雄さんと対談したとき、飛鳥さんは「古代において、三柱鳥居はいっぱいあったが、事情があって消されたと思う」と言っていましたが、それは私も同感なんです

岐阜の山奥にあったものは、おそらく発見されずにたまたま残ったのではないでしょうか?

そして、木嶋神社にだけそれは残された。いや、江戸時代に再建されたといいますから、ある年月は無かった可能性もあります。そもそもその創建がわからないわけですけど。

とにかく、そういう一切がわからないのが、三柱鳥居なのです。

しかし、なぜ三柱鳥居は、消されたのかを、推測してみましょう。

これを探るのは、どうもタブーのようですので、言えるところまでですよ。

私は秦氏は鴨氏と言いました。ここにヒントがありそうです。

いや、そもそも木嶋坐天照御魂の天照御魂とは、最初に述べたように海部であり物部の神です。

『物部家譜』によると、木嶋神社の祭神は、もともと物部守屋だったという記述もあります。

木嶋神社は物部? とすると、物部の社に三柱鳥居があったということ?

しかし、あの一帯、太秦は確かに秦氏が開拓し、治水を行った場所で、秦氏の本拠地でもありました。

平安京造営の折り、秦氏はその土地を朝廷に譲った、といいます。

秦氏の土地に……?

となると、ですね。

海部は物部であり、それは秦氏であり、鴨氏である……?

説明しましょう。

http://blog.livedoor.jp/kaidanyawa/archives/54610840.html 【三柱鳥居の謎を追って・9 】 より

中山市朗です。海部は物部であり、秦氏であり鴨氏でもある。う~ん、わからん。

まあ、海部は海洋族。倭人です。倭人は九州、出雲、朝鮮半島などを行き来したわけです。

今の国境線で考えると、韓国の人と激論になりますが、二千年も前の話です。今とは国の概念もその環境も人の生き方も違います。

この海人が日本列島に住み着き、やがて内陸部に入って開拓をしていく。

もともと、列島に住んでいた、いわゆる縄文人たちの土地を奪うための争いもあったでしょうし、譲渡された場合もあったでしょう。彼らは武器を持ち、戦い方を知っていましたから、平和に生きていた縄文人たちは駆逐されていきます。国譲りの神話も、実態は血なまぐさい歴史があったとみるべきかもしれません。

もちろん、攻められる前に献上物を差出し、和平交渉に臨んだ国の長もいたでしょう。

そうやって、ある者が河内に入り、天皇の祖となる大王に会い、最初は戦うが途中で従うべき天神だと悟って、大王に仕え、その大王の祭祀と軍を掌握していく。これが天皇となるわけで、このことは『書記』に記されるものです。

思うに、おそらく、天皇も元をたどると同じ海人で、河内でそのことをお互い知った、と思うわけです。

太古のことは文字にもなっていない、したがって記録が無い。

記録が無ければ歴史学も成り立たないわけでして、実に曖昧模糊としていまして、これはもう想像をたくましくするしかないのですが……。

ところで、この海部、物部というのは、族名ではないのです。

籠神社の先代宮司・海部穀定氏が記された『元初の最高神と大和朝廷の元始』には、「海部といえば海に関係があり、山部といえば山に関係があり、物部といえば軍門兵器に関係があるが、それはその職掌による姓(かばね)であって……」

つまり、海部、物部という一族がいたわけではない。朝廷に命じられ、丹後や河内、尾張といった国を治める国造氏が賜った姓であり、海部直(あまべのあたい)という姓は応神天皇の御代に賜ったものである、としています。

だから、物部といっても血族上の系統は、実はいろいろあるわけです。

だから、ただ物部という姓ではあるが、饒早日命とはまったく別系統、というのもいたわけです。海部もそうだというわけです。海部の人ぜんぶが、同じ祖先であるわけがない。ただし、丹後国の海部直(あまべのあたい)氏は、本来、神別氏姓に属している、とします。海部も直も、朝廷からもらった姓です。その系統上にあるのが、今の籠神社の宮司一族である、というわけです。

神別氏姓とは、天津神か国津神の子孫である、ということで、海部氏直氏は、天津神の子孫であるとします。

この神の子孫は祝部(はふりべ)といって、神に奉仕することになります。

伊勢の斎姫の発祥も、この海部直氏の血を引く女子からで、丹後の竹野神社を調べると、そういうことが出てきます。

この神別氏姓に属する、ということは、天皇家と同じ系譜に属する、ことを意味します。

だから、海部直から分かれた物部連(もののべのむらじ)は、神別氏姓の血統にあると認められたから、天皇の祭祀権を独占できたのです。

この、神別氏姓の血統があって、はじめて神と人とをつなぐ巫(かんなぎ)となり、神と交流することができるわけです。蘇我氏には、そういう血はなかったんです

私が、聖徳太子には物部、いや、海部直の、神別氏姓の血が流れているとみるのは、そこです。

だから、物部の祖である饒早日命は、海部直氏の血を引くものであり、すなわち彦火明命の系統である。

天照國照彦火明櫛玉饒早日命、という名は、それを現すわけです。

京都太秦の三柱鳥居のある神社、木嶋神社の祭神が、それでありました。

そうなると、私の手元にある『物部家譜』にある、木嶋神社の祭神は、物部守屋也り、という記述に合点がいきます。しかし、太秦という名は、秦氏のものであり、京都山背は、秦氏が開墾した土地であり、平安京造営以前は大勢の秦氏が住む、本拠地であった、のも事実。

物部と秦氏は、いかなる関係にあったのでしょう。

その前に、秦氏とはなんぞや、という問題をもう一度見てみましょう。

『日本書紀』によれば、応神天皇の御代に、弓月君が百済から百二十県の民を率いてやって来て、帰化したとあります。

さらに、雄略天皇の御代にも、大量にやってきます。数万人の規模で何度かやってきているわけです。

弥生時代の日本列島の人口が十万人に満たなかった、といいますから、これ、そうとうな数です。

今、ドイツで難民の受け入れがどうのこうのと問題になっているようですが、比率で言うとそれどころやない数です。なぜ、この時点で、秦国にならなかったのか不思議なくらいです。

彼らは百済から来たことになっていますが、どうも朝鮮半島の人達ではない。聖徳太子の時代、隋の使者が記した『隋書・倭国伝』に、その秦氏のことに触れていて、「竹斯国(ちくし=筑紫?)に居たり、また東して秦王国に至る。その人華夏(中国)に同じ、以って夷洲(野蛮な国)となすも、疑わしくは、明らかにする能わざるなり」

この秦王国というのは、おそらく秦氏が住んだ国であり、筑紫の東とあるだけで、どこにあるのかもわからないんですが、隋の使者は、その生活ぶりが中華と同じだ、とするわけですから、中国大陸から朝鮮半島を経由してやってきた民であろう、と。

自分たちは、秦始皇帝の末裔で、秦国にいたから秦氏と名乗ったというのですが、これも、そういう人たちもいただろうし、そうでない人もいただろうと。中国大陸はよく戦乱が勃発し、農民たちは田畑を荒らされ、夫人にこき使われ、時には殺され、強姦されと、大量の難民が流出したことは想像できます。その人たちが、海を隔てた島国に疎開したわけです。ただ、彼らは、秦始皇帝の末裔だとするからには、朝廷とはりあって権力争いをやってもよさそうなものですが、そういう形跡がない。だまって朝廷に服従し、それを喜んでいる風でもあります。

おそらく、秦氏も純粋な中華人というわけでもなさそうです。


http://blog.livedoor.jp/kaidanyawa/archives/54615704.html 【三柱鳥居の謎を追って・10】 より

中山市朗です。

え~、久しぶりに、三柱鳥居の謎についての記事を書きます。

なんでしたっけ。そうそう、秦氏は鴨氏である。鴨氏は物部であり、海部である……。

日本の古代史を研究していくと、ここに当たり、わからなくなります。

しかし、三柱鳥居のある京都太秦・木嶋坐天照御魂神社をみると、秦氏、賀茂氏、物部氏、海部氏が全部出てきたわけです。

秦氏の土地である太秦。ちゃんと秦という文字が入っています。

木嶋神社の拝殿にあった提灯の紋章が、賀茂氏の双葉葵であったことと、元糺の池の存在が、下賀茂神社との深い関係を示唆していること。

『物部家譜』によると、木嶋神社の祭神は物部守屋であること。

そして、天照御魂という祭神は、丹後の籠神社の祭神である、天照國照彦火明櫛玉饒早日命のことであり、これは、饒早日は物部の祖神、彦火明は海部の祖神のことであり、端的に言えば、木嶋神社の祭神は、海部氏の祖神であること。

その、海部氏と賀茂氏は、葵祭りと藤祭りが同日に執り行われることで、つながっている。

物部は海部氏から出た、いわば分家である。

つまり、四氏は、三柱鳥居のある木嶋神社で、このようにつながっているわけです。

う~ん。

ということで、まず秦氏を見ていきましょう。

秦氏は、謎の渡来人とされ、ユダヤ人の末裔で景教徒ではなかったか、という研究もあることはご存じのことでしょう。

秦氏の渡来伝承は『古事記』『日本書紀』『姓氏録』によると、まず応神天皇の頃にあったと記されます。

考古学的な見地も含めて考えると、だいたい五世紀初頭に朝鮮半島の動乱と天災から逃れた人たちが、大量に日本列島に移住していたことが判明していて、これが秦氏の伝承の裏付けと考えられます。

問題はその数であります。

『姓氏録』によりますと、応神天皇14年、融通王が百二十七県(あがた)の百姓を連れて帰化、とあり、さらに何度かにわたって、朝鮮半島からわたってきた大勢の人たちがいたことを示しています。

思うに、4世紀後半に北九州、今の筑紫のあたり、続いて5世紀初頭に畿内に入ったようです。

現在の大阪府寝屋川市にも太秦という場所があり、現地の研究員や郷土史研究家の方の話を聞くと、京都山背の太秦はもともとこちらの太秦から発祥したもので、5世紀のものとみられる渡来人たちのものとみられる船や土器などが大量に出土していることからも証言できるということです。

寝屋川は、当時海沿いにありましたから、渡来人たちがここに居住地を作るには適していました。

ここを前進基地として、大和川の治水や墳墓の建造、田畑の開墾、大路などのインフラ工事、後には四天王寺の建造などにあたったのでしょう。

現に、応神、仁徳天皇の頃になると、秦氏の到来とともに『書紀』の記事に、治水や土地開発に関する事が多くなり、前方後円墳も巨大化します。

このことから、秦氏は大陸から人と技術が大量にやってきたことがわかり、秦氏は技術集団である、とされるわけです。

ある調査によりますと、縄文、弥生、そして奈良時代初期と、日本列島の人口は爆発的に増え続けたそうで、縄文末期の日本列島における人口は7万6000人ほどだったのが、奈良時代初期には450万~600万人になったといい、これは出生率、出産数、平均寿命の延命だけでは不可能な数字で、少なくとも150万人もの渡来人がやってきたと考えるべきだ、というものがあります。

そうなるとこれ、今のEUが抱えている難民問題以上の問題が噴出したと考えてもよろしいのではないかと。

いきなり、言語、風習、宗教、文化の違う人たちが大量にやってきたのですから。

その全部が秦氏であったとは思えないのですが、かなり組織的に、あるいは一挙にやってきた集団が秦氏であったと考えられます。

彼らがなぜ秦氏と称したかは、いろいろ説もありますが、彼らの主張に従えば、紀元前2世紀には秦の始皇帝に仕えた秦国の遺民である、ということだそうです。

秦始皇帝の遺民。これは自分たちの出自を高めようとする詭弁だとしても、彼らは朝鮮半島というよりは、中国本土からの移民であったとは考えられます。

秦始皇帝の遺民。もしそうだとすると、このころはまだ国家の体すら成していない倭国ですから、彼らはその気になれば、朝廷に攻め入り、自分たちのための第二の秦国を建設しても不思議ではありませんが、そうはならなかった。彼らは倭国の朝廷に従属し、朝廷のためにその技術を使い、インフラ工事を行い、やがて巨大化する大和朝廷に大きく貢献するわけです。

そうなれば、秦氏の正体がわかります。

そう、彼らの大部分は人夫であり、農夫であり、職人であったわけです。その中には、養蚕をする者、寺院の建築に携わる者、酒造をするもの、製鉄に関わる者、芸能に関わる者などがいたわけです。つまりは大陸から流れてきた、いろいろな職や技術をもった労働者たち、一般人だったわけです。もちろん、秦氏の長(おさ)は朝廷の側近として従え、財政を取り仕切るようになりますし、自分たちの神を崇める司祭のような人もいました。その神は、後の日本の神道、神々に大きな影響を与えることになるのですが、しかし、秦氏の大部分は、一般の開拓民なのです。秦氏がみな同じ祖であるということでもなく、秦という民族がいたわけでもありません。流民たちの長が、自分たちを秦氏と名乗ったのでした。

朝廷を打倒して自分たちの国を作るより、朝廷に従属し、奉仕する道を選ぶことが、彼らの生きる道でした。

ただ、彼らは朝廷から発注された様々な用途に対し、それに応え、代わりに経済的見返りをもらっていたというわけです。

彼らは、奈良時代には今の京都となる山背の地を開墾し、治水をして人が住める集落をつくりましたが、平安京造営にあたって彼らはその土地を朝廷に寄進したとあります。

なんのことはない。これ、立ち退きを命じられた、ということだと思うのですよ。

もちろん、秦氏の長、幹部たちは平安京造営にあたり、大きな役職を与えられました。

そう、この秦氏は今でいう、大手建築会社、ゼネコンのような存在だと思っていいでしょう。

そんな中、彼らは朝廷や中臣氏たちと婚姻関係を結び、あるいは莫大な報酬をらったのです。

秦氏は地位が欲しい、貴族たちはその財力が欲しい、このことが婚姻のもとになったと思われます。

秦氏は、歴史の裏に隠れ、日本の歴史に裏で関わったと言われますが、中臣は、天神である神の降りる血統であり、秦氏の血統にはそれは望めなかったのです。古代の社会においてこの血統は絶対であり、秦氏は歴史の表には出られない事情があったのです。

大部分の秦氏は、一般の労働者、人夫、人足であったわけです。

しかし、そうであったとしても、彼らのアイデンティティは守ったはずです。

そのアイデンティティとは、宗教です。彼らの神です。

そこに、賀茂氏が登場します。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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