http://sazanami217.blog.fc2.com/blog-entry-732.html 【「亀卜」の大嘗祭と神社】より
皇位継承に伴う11月の大嘗祭(だいじょうさい)の中心儀式である「大嘗宮の儀」。
(「1990年、第125代天皇明仁の大嘗祭」・ウィキペディアより)
神々に供える米を育てる地方を決める「斎田点定の儀」が13日午前、皇居・宮中三殿の神殿前で行われ、カメの甲羅を使った古来の占い「亀卜(きぼく)」が行われました。
その結果、「悠紀地方」に栃木県、「主基地方」に京都府がそれぞれ選ばれたそうです。
「亀卜」なんて古代の儀式が、いまだに宮中には残っているんだと驚いた方も多かったと思います。
しかし、2019年02月08日の西日本新聞には、こんなニュース記事がありました。
対馬・雷神社で亀の甲占い 経済は「上々」天候は「並」 [長崎県]
対馬市厳原町豆酘(つつ)の雷(いかづち)神社で7日、亀の甲羅に火を当て、ひび割れで1年間の吉凶を占う「亀卜(きぼく)神事」(国選択無形民俗文化財)があった。
古代中国から約1500年前に伝わり、対馬では藩政時代に農作物の作柄などを占って藩主に報告。藩を治める上で重要な役割を果たしていた。文化庁によると、皇室を除くと、全国で対馬だけに残るという。
今年も占いは土脇隆博さん(38)が務めた。火鉢の炭火であぶった桜の木をウミガメの甲羅片に当て、ひらめいたことを墨書した。地区の1年は「吉」。島の農業は「平年作」、水産業は「良」、経済は「上々」、天候は「並」と出た。
神社神道の故郷でもある対馬には、まだ毎年「亀卜神事」を行うお社があるのですね。
このニュースがあった、対馬市厳原町豆酘(つつ)の雷神社は、集落の端にあり、谷川を渡った狭い敷地に鎮座。
車を駐車するスペースも見当たらず、普段は地域密着型で観光客がくるようなお社ではないように見受けられます。
しかし古く嶽之神と呼ばれていたこのお社は、、明治4年(1871)の廃藩まで、「サンゾーロー祭」という公式な亀トが行われていたのです。
これはその由緒です。
雷神社 (旧村社) 御祭神 雷大臣命
由緒 雷大臣命は神功皇后新羅を征し給ふ時、御軍に従ひ勲功あり、凱還の後、対馬県主となり豆酘に館をかまえ、韓邦の入貢を掌り祝官をして祭祀の礼を教え太古の亀卜の術を伝ふ。由りてその古跡に祠を建て亀卜の神として祭り、毎年旧正月三日に卜部氏天下国家の吉凶を卜する処の社なり。
また『対州神社誌』には、
「嶽之大明神。神体は則ち岩也。社無し。由緒不知。殿様の御占並びに郡中の焼占を正月三日に仕る。」
とあり、社祠はなく磐座を祭祀していたことが判ります。
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では「亀ト」とは何か?
ところで、亀トとはどのような祭儀だったのか、改めて調べます。
ウィキペディアにはこう書かれていました。
亀卜(きぼく)は、カメの甲羅を使う卜占の一種。カメの甲羅に熱を加えて、生じたヒビの形状を観て占う。
占いに使う亀の甲羅は、腹甲を乾燥させ薄く加工したものを用いる。甲羅に溝や穴を開けた部分に燃やした箒(サクラなどの木片)を押し付け、ヒビが入った状態から吉凶や方角を占う。甲羅を直接加熱することはない。
起源は、古代中国。殷の時代に盛んに行われていた。日本には奈良時代に伝来。宮中関連の卜占は、それまでに行われていたニホンジカの肩甲骨を使った太占からに亀卜へと代わった。
当時の支配層は、対馬国、壱岐国、伊豆国の卜部を神祇官の管轄下に組織し、亀卜の実施と技術の伝承を行なわせた。卜部の技は、秘事かつ口伝であったため、材料(カメの種類や甲羅の部位など)や技術に係る未解明な部分も多い。
亀卜は、21世紀の現代でも宮中行事や各地の神社の儀式で行われている。宮中行事では、大嘗祭で使用するイネの採取地の方角(悠紀と主基の国)を決定する際に用いられる。2019年(令和元年)5月13日に皇居の宮中三殿で「斎田点定の儀」が行われた。2018年に行われた準備作業では、東京都小笠原村でアオウミガメの甲羅が調達されている。
亀卜は非公開。宮内庁によると、東京都小笠原村で捕獲され、長さ約24センチ、幅約15センチ、厚さ約1ミリに加工したアオウミガメの甲羅を桜の木をくべた火にかざす占いを実施した。ひびの割れ方から都道府県を決めたとされるが、宮内庁はどのような亀裂によって判断したか、詳しい方法を明らかにしていない。平成への代替わりでは、米の産地は秋田、大分両県だった。
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次に、亀卜発祥の地とされ、名前もよく似た雷命神社を紹介します。
対馬市厳原町阿連字久奈、のどかな平野部にあるお社です。
対馬には珍しい、ゆったりと流れる阿連川沿いを歩きます。
なぜか、鳥居の両脇に軍艦の砲弾が置かれていました。
日露戦争の戦利品なのだそうです。東郷平八郎率いる連合艦隊が対馬沖で迎撃し、ロシア艦隊を壊滅させたときのロシア戦艦の砲弾で、さすが国境の島と納得。
鳥居を潜って進むと、左上に古式の祭壇が目立ちます。
なんとも対馬らしい平石積みです。
何を祭ってあるのかはわかりません。
さらに進むと、大きな木の幹の上に、社殿がありました。
周囲には、ところどころに磐座かと思われる岩石も目立ちます。
背後の山には、古い信仰遺跡が隠れていそうです。
祭神は雷大臣命で、神功皇后の審神者(サニワ)を勤めた中臣烏賊使主です。
『新撰姓氏録』に天児屋根命十四世孫とあり、このお社が亀卜発祥の地とされます。
さらにこの地には、「オヒデリ様」という太陽信仰も古くから伝わっており、神事としての亀卜は現在行われていませんが、日本の神社信仰の起源のひとつともいうべき、特別な聖地であったようです。
大宝律令(701)では「卜部」が置かれ、壱岐から5人、対馬から10人、伊豆から5人で構成されました。
やはり対馬は、こういった占いの主流という存在だったようです。
今なお続く、大嘗祭の「亀卜」を改めて思い返す時、対馬が神道の源流たる不思議な地域であることを、再度認識させられます。
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