高く心を悟りて俗に帰るべし

https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/6372826/  【「軽み」 高く心を悟りて俗に帰るべし】

https://note.com/mura660527/n/n22f1785049c5 【「おくのほそ道」で芭蕉を考えた】より

「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」

有名な一節で始まる『おくのほそ道』は、松尾芭蕉が門人曽良と一緒に奥羽北陸行脚した紀行である。

元禄2(1689)年3月、出発の際に詠んだ「行く春や鳥鳴き魚の目は涙」で見送りに来てくれた人たちに別れを告げ、4月日光では「あらたうと青葉若葉の日の光」と初夏の自然を色鮮やかに詠み込んだ。

白河関を越えて松島に至るや、あまりの絶景に心を奪われ、俳句を詠むことができなかった。

5月には平泉で「夏草や兵どもが夢のあと」、立石寺では「静かさや岩に染み入る蝉の声」、静寂と無常観を表現し、梅雨の最上川では「五月雨をあつめて早し最上川」の句を詠んだ。

芭蕉は、寛永21(1644)年、伊賀(三重県)上野の松尾与左衛門の次男として生まれた。

二十歳前に貞門の北村季吟に師事し、俳諧に励んだ。やがて江戸にくだり、談林俳諧に傾倒するようになる。

芭蕉の時代は、俳諧の中心は京都にあったが、江戸を拠点に活躍した芭蕉が人々に受け入れられたのは、芭蕉の「蕉風俳諧」が、当時の中心であった貞門、談林俳諧とは違った新しい俳諧だったからだ。

芭蕉は漢詩文調の作風から一転し、和歌伝統の風狂、風雅の理念を掲げ、俳句の芸術性を高めた。

風狂とは、世俗的な規範を乗り越え、風雅に耽溺するさまをいい、蕉風俳諧において理想的なありようだとされた。

また芭蕉は、俳諧連歌の美的理想を風雅の伝統に見定め、「さび」「しをり」「かるみ」「ほそみ」などの境地を紀行文などを通して、実践的に確立した。

なかでも「かるみ」は、芭蕉晩年の句風で、庶民生活のさまざまな場面をわかりやすい表現で軽妙に描写することを目指したものだが、あくまでも「高く心を悟りて俗に帰るべし」(『三冊子』)という「高悟帰俗」の精神が前提とされていた。

また、人間らしさも風雅に求めた。

たとえば、花の自然美を認められないことは野蛮人に等しい、という。

風雅に接しても喜ぶ思いがない、つまり「心の花」がないならば、それはもやは人ではなく鳥や獣である、と詠んだ。

芭蕉は、「不易流行」の思想も主張した。

永遠に変わらない「不易」と、一瞬たりとも同じではない「流行」。

この矛盾した二語をひとつにした「不易流行」とは、俳諧の普遍の本質は常に変化していくことにあるという文学としての通念と、風雅の伝統とは自然の境地を乗り越える厳しい鍛錬によって永続していくという行動理念を同胞し、蕉風俳諧の根幹となっている。

それが、冒頭の一節「月日は百代の過客にして……」にあらわれている。

芭蕉にとって、それは旅によって実現されるものであった。

芭蕉は、風雅を求めて旅に出て、旅上で死ぬことすら望んでいた。

「風雅に死なんとする身なり」(『幻住庵日記』)という言葉も残している。

芭蕉は元禄7(1694)年、旅先の大坂で没した。

「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」(『笈日記』)が生涯最後の作となった。

江戸時代の俳諧の基本は連句だった。

芭蕉によって連句の冒頭の発句(五七五)のみを鑑賞することも多くなったが、

それを俳句として完全に独立させたのが正岡子規であり、そのあとを継いだ高浜虚子である。

https://kyoiku.shinchi-town.jp/index.php?key=joklg4vnu-19 【松尾芭蕉の理念と教育

  ~「不易流行」と「高悟帰俗」~】 より

「不易流行」の言葉は、俳聖・松尾芭蕉が五ヶ月余りにわたる『おくのほそ道』の旅の動きの中で宇宙を静観した経験を礎として、人生至る所に青山ありとした旅を終えて後に「蕉風俳諧」の根本理念として提唱したものです。

この理念は、永久不変の芸術の姿としての「千歳不易」の『不易』と不易を追求して進展し流動する芸術の側面としての「一時流行」の『流行』が一句の中に統一されて存在することを理想としたことから誕生したものです。

要約すれば、「変化を求めて流行するのが俳諧ですが、それはまた永遠性を備えたものでなければならない。」ということです。

しかし、俗人である我々が常にこの理念を意識して活動すると日常の行動に支障をきたしてしまいます。おそらく松尾芭蕉本人でさえ、そうであったろうと推察しています。そのことは、芭蕉の教えを説いた「三冊子」に『高悟帰俗(高く悟りて俗に帰るべし)』の言葉が記載されていることからも分かります。文学者としては、高邁な芸術精神としての「理念」を持つことが重要であることは明白です。しかし、その「理念」を盾や矢面とするなど攻守の手段とすると傲慢さが際立ち、様々な軋轢を生じることになります。

芭蕉は、心は常に「理念」の上に立ちながらも、具体的な作品においては通俗であり卑近である表現をとることが望ましいと思っていたのです。

 このことは、簡素なものの中に存在する閑寂で潤いのある美が自然に外に匂い出るような趣である「さび」・「わび」を提唱していた芭蕉。その域を超越した晩年に最終的に達した境地、日常的な題材を詠みながらも形式にとらわれないでさらりとした感じが出ている趣である『かるみ』と理解すると芭蕉の創作理念の真髄に近づくことができるようです。

 知識の量は多ければ多いほど良いのですが、そのことを上段に構えて振り下ろすのではなく、心身ともにゆったりとリラックスした姿勢から受け手が理解可能な表現技法をとることが大切です。言語による伝達は受け手が理解してこそ初めて成立するからです。

 さて、これらのことは文学にとどまらずに日常生活や教育活動にもあてはまります。教師は教材研究や授業構想を練る中で、常に心に響く授業を展開することを心掛けているはずです。私の教育活動を振り返る時、常に脳裏に浮かぶのは「教える側と教えられる側が教材を媒体としてICTを活用する等した『感動を共有できる授業の展開』こそ、知識を教授する分野の真の教育活動である」という経験に基づいた考えです。教科において感動を共有するためには、児童生徒が理解できる手段や方策を用いての授業展開がなされなければなりません。教えを受ける側をないがしろにする唯我独尊的な授業展開は、知識のみを教授しようとする教師の典型ですが、児童生徒の心に響くことはありません。

 難解と感じる一つの事象も、具体例を媒介として易しい言葉を用いて解説することで児童生徒を教師側の世界に誘うことが可能となります。ポイントはわかりやすい言葉で具体的事例を示してやることができるかにあります。具体的事例、それこそ生きている知識です。教える側が自ら体験したことで例示できれば、それに勝るものはありません。しかし、すべてが上手くはいきません。少なくとも教師は日常の研鑽を積む中で見たり聞いたりしたこと、そして、教育に有意義な内容はデータ保存しておく習慣を身に付けておくべきだと思います。そして、保存して安堵するだけでなく、児童生徒に対して臨場感あふれる言葉と語気、そして表情で伝えることが大切です。日本人として、日本語が通じない寂しさを味わうことは辛いことです。未来を担う児童生徒には「寂しさ」を味わうことのないように教育していきたいものです。

 松尾芭蕉は、旅という動きの中で創作活動を行いました。また、旅先での日々の心境などを日記形式で書き留めておきました。旅を終えた後は、それを紀行文としてまとめることも行いました。いわば、「動きの中で静」を「静の中で動」を実践したわけです。

江戸時代前期、元禄時代の芭蕉の理念や作品が、三百有余年の時空を超えた現代に継承されているのは文字として残存していたからです。創作活動は一人の人間が生きていた証しとなり後世に残ります。日々の感動を、文字として残すことに教育の大切な一面を感じ取るのは私のみでしょうか。

教育することへの使命感と責任を心に刻み付けて教育に携わっている方にお願いしたいことは、「人間には言語があり、感情があるということ。」をあらゆる場面で児童生徒は勿論のこと、多くの人々に伝達可能な言葉で語っていただきたいということです。

さて、平成13年度に「教育改革国民会議」の報告を受け、学校教育法と社会教育法が改訂され自然体験活動や社会奉仕活動の大切さが条項に盛り込まれました。その趣旨を踏まえ、翌年には活動の事業評価も加味することも念頭に立ち上げた〈子どもと大人が共通の体験活動等で感動したことや共感したことを話し合い、日本古来の5・7・5の17音(俳句形式)で謳い上げる「17字のふれあい」〉事業が、県教委の重点事業として14年間にわたり継承していることは、本県の教育の歴史に刻まれる素晴らしい業績であると感じております。相双教育事務所で編集した域内選考作品集(7,815組の応募から788組選出)が国立国会図書館に蔵書されたり、何組かの作品が千葉県のコーラスグループにより作曲がなされ愛唱されていることを聞き及んでいます。東日本大震災での津波や原発事故で被災なされた子どもと大人の作品もあり、復興の心の支えにもなっていることに安堵しております。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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