芭蕉の墓

芭蕉はなぜ木曽義仲の隣に眠ることを望んだのでしょう?

https://ogurasansou.jp.net/columns/arakaruta/2018/01/13/2486/  【『小倉百人一首』あらかるた【278】西行と芋を洗う女】 より

憧憬の旅人 西行

松尾芭蕉の『野ざらし紀行』にこのような句があります。○芋洗ふ女 西行ならば歌よまむ

「芋(いも)」は秋の季語ですが、俳諧はともかく、和歌では見たことがありません。

しかし川辺で芋を洗う女を見た芭蕉は、西行(八十六)ならばこんな日常の光景にも風情を感じたことだろうと、偉大な先人に思いを馳せたのです。

またこのような句も。○西行の草鞋もかゝれ 松の露

露に濡れた松。そこに西行の草鞋(わらじ)が懸かっていればよいのにと。

旅の途中で休息をとる西行が脱いだのか、履きつぶして捨てていったのかわかりませんが、

芭蕉の追慕の念は、松の木を見ただけでも西行を思い起こさせたようです。

芭蕉は西行に憧れて旅また旅の日々をかさねていました。

どこを旅しても、西行が脳裏から去ることはなかったのでしょう。

伊勢に参詣した際にはこう詠んでいます。○何の木の花とはしらず 匂哉

何の木の花かわからないが、よい匂いがしているなぁ。

それだけの句のようですが、じつはこの句、西行の次の歌を踏まえているといわれています。何事のおはしますをば知らねども かたじけなさに涙こぼるゝ(西行法師家集)

何がおありなのかは知らないけれどもったいない思いで涙がこぼれることです

大神宮御祭日に詠んだとされる歌です。

大神宮は伊勢の内宮(ないくう=皇大神宮)のことで天照大神を祀っているのは明白ですから、僧侶という立場を考えて「知らねども」と詠んだのかもしれません。

芭蕉は剃髪していたためか僧侶と見なされ、外宮(げくう)で足止めされたそうです。

しかし神域ならではの神々しさは感じられた…というのを「匂哉(においかな)」と表現したのでしょう。芭蕉は西行を追体験していたと考えられます。

とくとくの清水

『野ざらし紀行』によると、芭蕉は吉野に西行の庵室跡を訪れています。

西行は若き日にここに住み、山の桜を楽しんでいたと伝えられています。

吉野山 梢の花を見し日より 心は身にも添はずなりにき(山家集 春)

吉野山の桜の 枝先の花を見た日から私の心は身体から離れていってしまったよ

このころに西行が詠んだと言われていた、作者不詳の歌があります。

とくとくと落つる岩間の苔清水 くみほす程もなきすまひかな(吉野山独案内)

苔むす岩の間から滴り落ちるくらいの湧き水でさえ汲み干す必要がない質素な暮らしぶりだというのでしょう。

西行の家集にも勅撰集にもない歌ですが、芭蕉はこの清水を探しに行き「とくとくの清水は昔にかはらずと見えて今もとくとくと雫落ちける」と記しています。

○露とくとく こゝろみに浮世すゝがばや  ためしに浮世の汚れをすすいでみようかと。

もちろん水の清らかさゆえですが、浮世を捨てた西行という人物の清らかさに近づきたいという思いもあったことでしょう。


https://www.yoritomo-japan.com/nara-kyoto/gityuji-basho.html 【松尾芭蕉の墓~大津・義仲寺~】より

松尾芭蕉の墓

松尾芭蕉は江戸時代前期の俳人。各地を旅して多くの俳句や紀行文を残した。

最後の旅となったのは1694年(元禄7年)。

5月に江戸を発った芭蕉は、伊賀上野・湖南・京都・奈良などを巡りながら9月に大阪へ。

大坂で体調を崩した芭蕉は、10月12日、大坂御堂筋の旅宿「花屋仁左衛門」で亡くなった。「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」が最後となった句。

遺骸は、遺言により近江国義仲寺の木曽義仲の墓の隣に葬られた。

芭蕉は、義仲に対して特別な思いがあったのだという。

無名庵 義仲寺の無名庵は、近江国を訪れた芭蕉が宿舎とした庵。

翁堂 義仲寺の翁堂には、松尾芭蕉像が安置されている。

石山寺芭蕉庵(石山寺) 近江国滞在中は、観音霊場の石山寺にも度々訪れていたのだという。

木曽義仲の墓

木曽義仲は信濃の武将。

1154年(久寿元年)、武蔵国比企郡の大蔵館で誕生したと伝えられる。

河内源氏の源義賢の次男。源頼朝・源義経とは従兄弟。幼名は駒王丸。

誕生の翌年、父の義賢が源義平に討たれると、駒王丸は畠山重能・斎藤実盛らの計らいで信濃国木曽へ逃れ、乳母夫の中原兼遠のもとで育てられた。

1166年(仁安元年)、13歳で元服し、木曽次郎源義仲と名乗った。

『平家物語』によると、中原兼遠とともに上洛し、石清水八幡宮を参拝して元服したのだという。

1180年(治承4年)4月、以仁王の平家打倒の令旨が発せられると、8月には頼朝が挙兵、義仲も9月に挙兵した。

1183年(寿永2年)5月11日、倶利伽羅峠の夜戦で平家軍を潰滅させて勢いに乗った義仲は、7月25日、平家一門を都落ちさせた。

7月28日に入京するが、次第に後白河法皇と対立するようになる。

後白河法皇に見放され、源頼朝の上洛を恐れる義仲は、11月19日、後白河法皇の法住寺殿を焼き討ち。

12月には頼朝追討の院宣を強要、翌年1月には征東大将軍に任命される。

これに対し鎌倉の頼朝は、弟の範頼と義経に義仲追討を命じ、1月20日、範頼が瀬田から、義経が宇治から京を攻撃したことで義仲は惨敗。

わずかな兵で京を脱出するが、範頼の大軍に攻められ、近江国粟津で討死した。

義仲の首は六条河原に晒された後、家臣の手で葬られたのだという。

義仲寺は、義仲の愛妾・巴御前が墓所の近くに草庵を結んで供養したことにはじまると伝えられる。

~義仲の嫡男義高の誅殺~

義仲は、嫡男義高を鎌倉へ人質として預けていたが、頼朝は義仲を討つと義高も誅殺している。

鎌倉の常楽寺裏山にある木曽塚は木曽義高の墓と伝えられ、狭山市の清水八幡宮は木曽義高を祀っている。

https://oshiete.goo.ne.jp/qa/3317359.html?order=desc&isShow=open 【教えて!goo 】

芭蕉はどうして木曽義仲の墓の隣に葬られるのを望んだのですか?

松尾芭蕉の墓は、木曽義仲の墓の隣にあります。

これは本人の希望だそうですが、芭蕉はどうして木曽義仲の墓の隣に葬られることを望んだのでしょうか?時代も生き方も全く違う両者ですので不思議です。

また木曽義仲はさほど尊敬されている人物でもありません。よろしくお願いします。

No.1ベストアンサー

心の問題ですので、推測の域は、出ませんが。

・自分にないものを持っている人間に憧れを持った・・度胸とか、強さとか。

・全く逆ですが、世事から、孤立してしまったところに自分が重ねあった。

・「夏草や~」滅びの美学というか、滅んだものに、愛惜を感じた。

・すごく、成功した人物・・・家康(隣りに墓は、ムリですが)秀吉の隣りというのは、芭蕉にそぐわない感じがします。

すいません。もっといいお答えを待ってください。

No.2ベストアンサー

「芭蕉(安東次男、中公文庫)」に書いてあることを勝手に要約すると、

斉藤実盛を打たせた木曽義仲の荒々しさや都の風に染まらなかった短い生涯に、俳諧師という生き方の厳しさや孤独、未完の情を重ねて、義仲の人生に深く共感していたらしい.....のだそうです。

 むざんやな甲の下のきりぎりす

 この「きりぎりす」に義仲のあわれを表現した、と安東さんは書いています。乱暴に言い換えますが、義仲に共感した理由は、「選ばれし者の孤独」ってことじゃないでしょうか。


https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000185109 【レファレンス事例詳細(Detail of reference example)】より

松尾芭蕉は源(木曽)義仲に感銘を受け、自分の墓を琵琶湖のほとりにある義仲の墓の隣に建てるよう遺言した、と何かの本で読んだことがあるが、どういうところに感銘を受けたのか知りたい。

回答(Answer)

関連する記述のあった以下の資料を紹介した。

『芭蕉の俤』(平泉澄著 日本書院 1952)

 p65-86「第三 木曽」は、木曽義仲に対する芭蕉の心情について論じた章。

「芭蕉は、元禄二年の秋、奥の細道の長き旅の終りに、越前の燧が城を望み見て、曾て木曾が破竹の勢を以て京を進撃した昔を回想し、(この句は奥の細道には入れられなかったが、別の句集(「荊口句帖」のこと)に見えている。)義仲の 寝覚の山か 月悲しとよんだ。この句には木曾を悲劇の主人公として、之に同情を惜しまない心持があらはれている。」とあり。

『芭蕉の文学』(宮西一積著 桜楓社 1973) 芭蕉の心情を考察した記述あり。

『芭蕉ハンドブック』(尾形仂編 三省堂 2002)

 p192「芭蕉語録辞典」に「木曾義仲」の項あり

 「(前略)芭蕉は、元禄三・四年(一六九〇~九一)しばしば木曾塚(義仲寺)に逗留、その塚の隣に遺骸を埋葬することを遺言するなど、義仲に対し特別な感懐を寄せるところがあった。発句でも「義仲の寝覚めの山か月悲し」(『荊口句帖』)、「木曾の情雪や生えぬく春の草」(『芭蕉庵小文庫』)の二句に読まれている」とあり。

『校本芭蕉全集 1』(松尾芭蕉著 角川書店 1962)

 p211「義仲の 寝覚めの山か 月悲し」の句について安部喜三男の解釈あり。

『校本芭蕉全集 2』(松尾芭蕉著 角川書店 1963)

 p114芭蕉の句「木曾の情雪や生えぬく春の草」について荻野淸と大谷篤藏の解釈あり。

『霜山徳爾著作集 6 多愁多恨亦悠悠』(霜山徳爾著 学樹書院 2000)p158に関連記述あり。

回答プロセス(Answering process)

芭蕉が義仲に感銘を受けた以外の理由の記述があった資料

1 遺言の内容について

『校本芭蕉全集 9』(松尾芭蕉著 角川書店 1967)

 p316「芭蕉遺語集」に、「芭蕉翁行状記」からの引用で「偖(サテ)からは木曾塚に送るべし。爰(ここ)は東西のちまた(巷)、さゞ波きよき渚なれば、生前の契深かりし所也。懐しき友達のたづねよらんも便(たより)わづらはしからじ」とあり。

『注解芭蕉翁終焉記 「芭蕉翁終焉記」を読む』(今泉準一著 うぶすな書院 2002)

 p211-212「(義仲寺は)生前の契り深い所(幻住菴を出てから、義仲寺内の菴に一時滞在)であり、また友の訪ねる便もよい、と其角の文によれば、「たはぶれ」に語ったのを、乙州は「敬して約束たがはじ」とうけ負った、とあるが、これも半ばはたわぶれであったかも知れない。ところでこれが本当にそうなってしまった。」「もし乙州へのこの言がなかったら、弟子たちは芭蕉をどこへ葬るか、大変なもめごとになったろう。」とあり。

2 その他記述のあった資料

『芭蕉最後の一句 生命の流れに還る 筑摩選書』(魚住孝至著 筑摩書房 2011)

 p279-280「義仲寺の芭蕉塚」の項に義仲への思いや門人の集まりやすい地であることのほか、「京都よりもはるかに古い近江京で、人麻呂以来の「楽浪(さざなみ)や」の歌なども思い起こしながら、「行春を近江の人とおしみける」と懐かしんだ地である。」とあり。

『注解芭蕉翁終焉記 「芭蕉翁終焉記」を読む』

 p83「このようにして、大津・膳所・粟津の義仲寺よりの琵琶湖の景、さらにはすぐ前の文の堅田等、湖南における風景等、を「心の物にして」「遊べること年あり」と述べているが、「心のものにして」は、風景を眺め味わい、十分にわが心のものとして、ぐらいの意。」とあり、これが芭蕉に湖南の景を詠んだ名句・名文の多くあることの理由とする記述あり。

『郷土史事典滋賀県』(徳永真一郎編 昌平社 1982)

 p141「芭蕉はその後たびたび無名庵を本拠として膳所・大津の門人宅に遊んでいるが、これは湖南の風光がとくに彼の趣向に適したのと、湖南の門人が俳諧に特別熱心で、彼を敬愛したためである。」とあり。

『図説近江古寺紀行』(木村至宏著 河出書房新社 1995)

 p10「近江のすぐれた風光、恵まれた門人、義仲の生涯に心を寄せていた芭蕉は、(中略)遺言を残した。」とあり。

『滋賀県百科事典』(大和書房 1984)

 p196「義仲寺」の項

 「1689年(元禄2)12月、松尾芭蕉が滞在し、1691年(元禄4)には、この地を愛する芭蕉のために「粟津草庵(のちの無名庵)」がたてられ」とあり。

事前調査事項

(Preliminary research) 

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