https://minamiyoko3734.amebaownd.com/posts/56217115?categoryIds=7317888 【孝謙天皇】
https://note.com/naranotorisetu/n/nd1eb6e26164e 【空海様への道①和気清麻呂】より
東京国立博物館 トーハクで開催中の『神護寺展』
京都の山深い場所にある神護寺の寺宝が沢山紹介され、これらの宝物が集まり、残ったはひとえにこのお寺が空海さまの拠り所として名を馳せてきたことにあることがよく分かる素晴らしい展覧会でした。
その中でも特に印象的だったこと、ものが5つあります。
①神護寺の歴史の始まり「和気清麻呂」
②神護寺復興の立役者「文覚上人」
③神護寺の宝物 1.後白河法皇奉納の『一切経』
④神護寺の宝物 2.八幡神の画像と東大寺のつながり
⑤神護寺の宝物 3.仏像
⑥神護寺の宝物 4.高雄曼荼羅
これらについてお話しようと思います。
①和気清麻呂
神護寺はもともと、『高雄山寺』というお寺があった場所に作られました。この時代『心願寺」というお寺もあり、このお寺を受け継ぐお寺にもしたかったようです。そして名前を『神護国祚真言寺』(じんごこくそしんごんじ)略して『神護寺』となりました。
神護寺の前身寺であった『神願寺』は、読んで字のごとし、神様の願いによって作られたのです。その神様とは、「八幡神」日本の各地にある「八幡さん」のことです。
本拠地は大分県にある『宇佐八幡神宮』で、その御分霊があちこちにあります。
鎌倉にある『鶴岡八幡宮』
奈良県では『手向山八幡宮』が有名でして、あの百人一首にある「このたびは 幣もとりあへず 手向山 紅葉のにしき 神のまにまに」という歌は、奈良の手向山八幡宮を歌ったものです。八幡神が、寺院を造ってちょーだい!と願ったことから作られたお寺だというのです。
神様がお寺を造ってほしいって…と聞くと、我々は不思議な気がしますが、この頃『神様と仏教』が力を合わせることがおおいにありました。
そして、八幡神がこれを望んだことには理由があります。
奈良時代の終わり頃、天皇の跡継ぎをめぐって大きなピンチが訪れていたのでした。
大仏さんを造ったことで有名な聖武天皇という方がいますが、彼の跡をついだ皇太子は、女性だったのでした。即位後の名前を孝謙天皇といいます。
彼女は、日本で初めて、女子で立太子して天皇になるべく教育を受け、そのまま即位した唯一のひとです。しかし天皇になったものの、夫を迎えて子供を産めば、その子供は夫の血筋の天皇となっていまいます。そういうことから生涯結婚はせず、世継ぎも決められず、生涯を閉じることになりました。孝謙天皇も跡継ぎのことは、生涯に渡って懸念事項だったでしょう。
女帝は、自分を支えともに政治を司った「道鏡」という僧侶を天皇にすることを考えます。
そんな道鏡は、天皇と全然関係ないやん…と今の我々は思うのですが、孝謙天皇には、なにかしらそうしてもいい理由があったのかもしれません。
しかし、ことは国家の重大事ですので、この判断が正しいかどうか神様に判断を仰ぐことになりました。そう、宇佐八幡の神様に、道鏡を次の天皇にしてもいいか裁可を求めたのです。
結果、神様の答えは「否」でした。この神託を宇佐八幡神までお伺いにいって、その結論を持ち帰った人こそ、和気清麻呂なのです。
しかし、この結果を持ち帰ったことで、和気清麻呂は左遷され、名前を「和気穢麻呂」(わけのきたなまろ)と改名もさせられてしまいます。現在このことを「道鏡神託事件」なんて呼んでいます。この時、和気清麻呂は「道鏡を天皇にしてはならない」という神託とともに、「寺院を建立せよ」という神託も受けて帰ってきたのです。
その後和気清麻呂は失脚しますので、長らく寺院建立は果たせなかったのですが、孝謙天皇の跡を継いだ光仁天皇の息子・桓武天皇の時代になってやっとお寺を建てることができたのでした。この心願寺とは別に、和気清麻呂の一族が造ったのが『高雄山寺』です。
この高雄山寺には、和気清麻呂のお墓もあるので、和気の一族の氏寺みたいな感じだったのかなあと想像できます。昔から清らかでふつうの人はあまり行かない清浄な場所だったのでしょう。中国から帰ってきた空海様は、この高雄山寺に入るのです。そして潅頂という密教の大事な儀式もここで行いました。このふたつの寺院が合併してできたのが『神護寺』なのです。
空海様にとって始まりのお寺であり、日本の密教の出発点と言える場所が、ここだったのです。
https://note.com/naranotorisetu/n/n453a247a8d5e 【空海様への道② 天が示した奇跡のふたり モンちゃんと頼朝さん】より
②神護寺復興の立役者 天が示した奇跡のふたり モンちゃんと頼朝さん
文覚上人&源頼朝の回です。
運命・宿命!? 出会うしかないふたり
運命というものがあるならば…出会いというものが宿命付けられているならば。
鎌倉時代に生を受け、時代を変えるために奔走したこのふたりこそ運命に結ばれた『神護寺復興』という星の元に生まれたとしか言いようがありません。
その二人の名は文覚上人。そして源頼朝です。
四重苦☠神護寺
空海様の拠点として出発し、密教の聖地として名を馳せた神護寺ですが、時代の中で大変なご苦労をされた時代もありました。特に院政期、度重なる火災で伽藍は消失。寺宝は流出。僧侶はいなくなる。御本尊雨ざらし。という四重苦にさらされたときも!そんな中ある僧侶が初めて神護寺にやってきます。彼の名は文覚上人。彼はのちにこう呼ばれます。『モンちゃん』
…いえいえ、『高雄の聖』です。高雄とは神護寺のある場所を指しますので、彼の功績がよく分かる言葉です。彼はもともと武士でした。
北面武士といい、宮中にて上皇の身辺を警護する任務にありました。院御所の北面(北側の部屋)の下に近衛として詰めたことからこの名があります。
それをやめて僧侶になったのは、ある悲劇の恋がありました。モンちゃんは、自分のいとこにあたる男性の妻に懸想します。女性にしてみればいい迷惑。夫のある身で言い寄られてもどうしようもなし。しかしモンちゃんは、思いを遂げさせてくれないと、女性の母親に危害をを加えるなどととんでもないことを言い出したのです。
「夫の髪を洗い、酔い潰して寝かせます。あなたはそこを討って下さい」
言われたとおり彼は恋敵を討つのですが、自分が切った相手は恋した女性でした。
なんと彼女は夫を救うために、そして自分の操を守るために自分の髪を濡らして夫のように見せかけ、モンちゃんを騙して自分を殺させたのです。モンちゃんは北面武士をやめ、出家して僧侶になりました。こうして「文覚上人」が誕生したのです。
そんな彼は、空海さまをとてもリスペクトしていたので真言宗の僧侶となり、空海様の聖地でもある神護寺を訪れたのでした。
ただその頃の神護寺は酷く荒れており、復興を志します。しかしそのやり方がまずかった。
かつての職場、宮中の後白河法皇の所に行って「神護寺復興のための荘園を与えてくれ。与えてくれるまでここを動かん」と騒ぎを起こしたのでひっ捕らえられて流罪になってしまったのです!人間爆弾みたいな人ですが、彼にとって幸運だったのは、その流罪地が伊豆だったことでした。当時伊豆にはあの源頼朝も流されていたのです。
大スポンサー 源頼朝
源頼朝の知遇を得たことで、そのあと赦されたモンちゃんは、神護寺復興に邁進します。
最初は断られた後白河法皇からのご寄進もいただけて、神護寺は経済基盤を得ることができたのでした。
『伝源頼朝像』は、社会科の教科書で「頼朝の肖像はこれだ!」とされてきたものです。
これが神護寺に所蔵されているのです。あくまで「伝」なので、もしかしたら頼朝さんじゃないかもですけど、それにしたって素晴らしい肖像画です。
人間を描いている点でとてもリアルなんですけど、人間の生々しい俗っぽい雰囲気が感じられず、すごくすっきりとして輝くような人物です。
僧侶モンちゃんの肖像画の方が、僧侶のわりにこれまでの人生の荒っぽさを感じさせるような、人としての苦悩や体温、野心ようなものが漂っているのに比べ、伝頼朝像は、理性的な眼差しや秀でた顔のラインからは何かしら光が放たれているようです。
まるで神様を描いたかのように神々しいかんじ。
前章でも述べたように、この絵は頼朝さんかどうかはわからず…頼朝さんでないなら、なぜ僧侶でも神でもない人を描いたのか…そしてそれがなぜ神護寺にあるのか…
しかしこれが頼朝さんなら、モンちゃんとともに神護寺復興の中心人物として、頼朝さんを称賛するために肖像画が作られたとするなら頷けることです。
モンちゃんは伊豆に流された頼朝さんを前にして、平家打倒の挙兵を勧めたという人物でもあります。
どこまでもマグマのようなモンちゃんと、モンちゃんというエンジンによって動く頼朝さん。
ふたりの運命の出逢いが、神護寺の復興に欠かせないものでした。
https://note.com/naranotorisetu/n/na0d8afd1e76c 【空海様への道③心臓を捧げよ…! 神護寺に奉納された一切経】より
鎌倉時代の調査兵団長 エルヴィン・スミス…後白河法皇
神護寺は空海様の拠点だった場所として、おおいに人々の尊崇を集めたわけですが、時代に翻弄され一時はかなり衰退します。そんな中現れたモンちゃん&頼朝タッグにより復興を遂げます。そして、続々と帰依する人々が、宝物をご寄進なさるのです。後白河法皇もそのひとりでした。後白河法皇は、日本の歴史の中で「院政」というのが流行る時代の天皇です。
院政とは、現役である天皇に変わって政治を司ることを言います。後白河法皇も、天皇を退いて上皇となったのち30年以上院政を行いました。後白河法皇は、とても熱心に仏教を信仰し、特に千手観音さまを崇拝していました。京都の三十三間堂は、千体もの千手観音さまがいらっしゃいますが、ここを造営したのは後白河法皇です。
一切経 その名の通り「一切合切」この世のお教すべて
自身の信仰心を形に表すために何ができるのか…一生懸命お参りしたり、お金やお花を捧げたり、色々ありますけど、「経典を書き写す」ことも大きな功徳があるとされました。
お経を書く!といっても色んな経典がありますので、どれを書いたらいいのか…となりますよね。そこで登場するのが『一切経』です。これはもう「一切合切」!!この世にあるお経すべてのことです。その数一セット5400巻近く。それを全部紙に書くとなるとおよそ9万枚の紙が必要!!とんでもない大事業になるわけですが、ここからさらに「紙に凝ってみよう」と考えた誰かが居たわけです…当時ふつうの紙でも高級品だった時代に、紺色に染めた「紺紙」(こんし)を用意して、そこに金泥でお経を書いたのです。とんでもなくゴージャス!
そんなすごいお経さんですから、ちゃんとした包みが必要になります。それが『経帙』です。
巻物を包むための、豪華版「巻きす」みたいなものです。
正倉院からの伝統を受け継ぐ『経帙』
経帙の歴史は古く、法隆寺に伝わった飛鳥時代~奈良時代のものが残っています。
そしてそれは奈良時代、壮麗な仕立てに進化します。日本の古代の工芸品の宝庫・正倉院にはその奈良時代に作られた経帙が現存しており、神護寺の経帙はその流れを伝統や技法を受け継ぐものなのです。そこに刻まれた模様はとても華麗で、くるくると巻いて太巻き状にするというのに、惜しみなく凝ったデザイン。使われている素材の色、グラデーション、装飾性・光沢のある絹糸…どこをどう見ても豪華すぎる。
神護寺の経帙は数多く残されているため、さまざまなパターンを見ることができるのも魅力のひとつです。さらにその裏もスペシャル。内側ですから、経典があたる大事な部分ではありますが、巻いてしまうと見えません。しかしそこに素晴らしい文様を織りだした綾でもって造っているのです。この文様がまた上品で繊細。日本の模様にはすべて意味があります。
それぞれが、伝統的な形でもって作られ、さらに染色も考え抜かれた貴重なものです。
心臓を捧げよ! 真の仏弟子の忠誠心の力
ただびとがひとりで、一切経を写経しようとしたら、人生の大半を使ってもなし得ないでしょう。しかし天下の後白河法皇なら話は別です。
それでも、自分が持てる限りの財力・人脈を駆使しないと、こんな豪華な一切経、そしてその経帙はできません。
彼が権勢をふるったのは、彼なりに実現した政治や世の中があったからでしょうが、そんな法皇が自身の信仰に全力を注いだ…持っている力をすべて注いだ…そう、仏教に心臓を捧げた結果が、この一切経なのです。とんでもない品です。
https://note.com/naranotorisetu/n/n820e146f8e5f 【快慶の傑作! 八幡神の神像に会いに行こう】より
東京国立博物館、トーハクで開催されていた『神護寺展』
空海様に関係するものが沢山出ている❤と聞いてうきうきと訪れたのですが、びっくりするものがありました。それは、八幡神の画像。八幡神とは、全国に4万4千を超すお社があるという(ウィキ調べ)八幡宮のことです。奈良にも八幡さんは沢山あります。
その中でも、東大寺の守護神である「手向山八幡宮」は、創建当時から東大寺をお守りしてきたという由緒ある場所で、大分県の宇佐八幡宮から神様がやってこられました。神さまがお越しになった時にくぐられた門『転害門』は今も国宝として残っています。
この手向山八幡宮の御神体は「神像」でした。
しかも、僧侶の姿を取っているという『僧形八幡神』なのです。
さらにこのお像は、あの運慶快慶でおなじみの仏師、快慶によって作られました。
運慶と快慶って、兄弟弟子なんです。運慶は、慶派と呼ばれた仏師集団の棟梁の息子。
快慶は師匠を同じくする兄弟弟子です。ふたりはともに慶派工房の中心的存在でしたから、技量もそれぞれに卓越したものをもっていました。そして同じ鎌倉時代の風を受けて育ったふたり。作風はとても良く似ています。でも、明らかに違うのです。
個人的に快慶の作る仏像は、とても端正できりりとした、正統派な美があるなあと思っているのですが、皆様いかがでしょうか。
そして、この快慶が作った八幡神の神像は、『神護寺展』にて出陳されていた「八幡神の画像」を元に作っていたのです。
ずっと、参考にした画があるとは聞いていたのですが、それが出ていて驚きました。そして狂喜乱舞しました。
こ、これか~!! さらに驚愕したのが「は、八幡神の神像とそっくり…」もちろん、この画を参考に作ったのですから、似てるのです。似せているのです。
でも、画と立体像って違うではないですか。同じにしようと思っても、できないのでは?
それがもう完璧に完璧なのです。そして、神像としての威厳やオーラは、快慶の像の方が勝ってやいないか…あらためて快慶という仏師の優れた技術に感動しました。
八幡神の神像は、鎌倉時代らしい「写実的」な像です。骨格は壮健な男子という感じで広く胸を張り、威厳を醸し出しつつも、ゆったりと組まれた足。頬は張りがあって弾力が見え、いきいきとしたツヤがあります。目尻や口元にもシワが刻まれているものの、赤く朱がさした唇は生気がみなぎり、まるで生きているようです。神像ですから、生身の人間のように作ってはいけない。でも姿は人の形である。この人の形をとりながら「神威」を醸し出す像を作るなんて、ちょっと想像を絶する凄さです。この快慶作の八幡神の神像が10月に公開されます。
この日は、大仏殿の復興に尽力した公慶上人の功績を偲ぶ法会があり、公慶上人のお坐像も公開されます。これらを拝観に行くツアーをやりますので、ぜひご一緒に東大寺へお参りしませんか。
0コメント