Facebook北原照久さん投稿記事
今日の言葉は『桃栗3年 柿8年 梅は酸い酸い13年 柚子は大馬鹿18年 りんごニコニコ25年』
1950年代に作られた桃太郎のおもちゃです。
おもしろいですね。これはそれぞれ個人差があるということです。慌てることはない、今はゆったりと根を張り、幹を太らせることに専念すればいい。時期が来れば実は実ります。だから途中でくさっちゃダメですよ。
Facebook生きる勇気を生む言葉Akiko Hasegawa さん投稿記事
はじめまして。
長男が不登校から5年。いまも中々前に進めず苦しい日々。私自身も苦しいです。いまは23歳です。言葉に救われています。よろしくお願いします
「桃栗三年柿八年 だるまは九年 俺は一生」(武者小路実篤)
https://serai.jp/hobby/190597 【「桃栗三年柿八年 だるまは九年 俺は一生」(武者小路実篤)【漱石と明治人のことば140】】より
漱石と明治人のことば
今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。
【今日のことば】
「桃栗三年柿八年 だるまは九年 俺は一生」--武者小路実篤
もし武者小路実篤に師と呼べるような存在がいたとしら、トルストイだろう。なぜなら彼を文学の道に導いたのは、思想家としてのトルストイだったのだから。それでも、トルストイの説く禁欲的人道主義に長くとどまってはいなかった。「思想の借り着は害がある」と思い至り、そこから一歩抜け出して自己を生かす道を模索したのである。
先輩作家としての夏目漱石や幸田露伴にも会い、彼らを尊敬していたが、一方では「自分より偉い人に会ったことはない」とも綴る。傲慢というわけではない。物事に取り組むときは自分自身が出発点であり、その意味では皆が対等と考えていた。
そんな武者小路実篤が絵筆を握るようになったのは、40歳のころ。もともと、文学のみならず芸術全般に意を注いだ白樺派の運動の中心メンバーであったから、以前から美術に対する深い興味は有していた。だが、ここでも誰かの作風に寄りかかるというような安易な道はとらない。セザンヌやゴッホらの絵画にふれ、その作品の素晴らしさを尊敬しても、それはそれ、自分は自分、人真似しようなどとは思いもしないのである。
元来がどちらかというと不器用な質。最初はうまく描けなかったものの、それでも構わず、黙々とていねいにつづけた。そうするうち、いつか「誠実無比」といわれる独得の画境を掴んでいく。
もっともよく知られているのは、野菜や花を率直かつ素朴なタッチで写生し、その脇に、以下のような簡潔にして意味深なさまざまなことばを書きつける、実篤ならではの文人画の世界であろう。
「君は君 我は我也 されど仲よき」「思い切って咲くもの万歳」
「どかんと坐れば動かない」「共に咲く喜び」
掲出のことばも、そうした自筆画に添えられたもののひとつ。桃や栗は実をつけるまで3年を要し、柿は8年かかるといわれる。達磨大師は9年もの間、壁に向かって坐禅を組みつづけ、ついに悟りを開いた(面壁九年)。自分自身は不器用だから、一生をかけて、じっくりと花を咲かせ実をみのらせていく、という意味であろう。
このことを象徴するような遺品が、東京・調布市の武者小路実篤記念館に残されている。彼が絵を描くに際し愛用していた硯である。中国製。「硯の中の硯」と賞揚される澄泥硯(ちょうでいけん)。中央に小さな穴があいている。なぜそんな穴があいたのか。
武者小路はこれを使って、さまざまな色合いの墨(色墨)をすり、来る日も来る日もせっせと絵を描きつづけた。80歳を過ぎても向上心は衰え知らず。本気でいつかピカソに追いつく気概。時には、使い残しの墨を洗い流すのももどかしく、くるりと硯を裏返し、その背面で別の色をすったりもした。
こうして表からも裏からも少しずつ磨耗した結果、ついに硯の中央に穴があくに至ったという。肯定的にして一徹なる心の、凄まじさを思うべし。
https://www.nikkei.com/article/DGXNASDB10001_Q3A011C1000000/?df=2 【「桃栗三年、柿八年」に続くのは「ユズ9年」?】より
会社の帰り、自宅最寄り駅の商店街を歩いていたら、果物屋で柿を売っていた。秋の味覚の一つだ。そこでふと浮かんだのが「桃栗三年、柿八年」ということわざ。以前、この続きのフレーズがあるという話を聞いたが、どんな内容だったか。そもそも桃や栗は3年で実を結ぶものなのか、疑問がわいてきた。
■ユズ・ウメ・ナシ・ビワ…いろいろな果物が登場
秋の味覚の一つ、柿が出回ってきた
「桃栗三年、柿八年」を辞書で引いてみると、「芽生えの時から、桃と栗とは三年、柿は八年たてば実を結ぶ意。どんなものにも相応の年数があるということ」(広辞苑第6版)とあった。何かに取り組んだとき、すぐに結果を求めたがる人に対して、まずは地道な努力が大切と、言い聞かせる場合に使われることが多い。
この言葉に続くフレーズがあるということを以前聞いた覚えがあるのだが、辞書には載っていなかった。そこで何冊かのことわざ辞典やインターネットで調べてみると、確かにあった。だが果物はいろいろ、年数もまちまちだった。
実をつけた栗の木
まずはユズだ。「ユズは9年でなりさがる」「ユズは遅くて13年」「ユズの馬鹿めは18年」――などがあった。なりさがるの部分には「なり盛る」や「なりかかる」など複数の表現があった。次いでウメ。「ウメは酸いとて13年」「ウメはすいすい16年」など。そしてナシ。「ナシの大馬鹿13年」「ナシの馬鹿めは18年」。このほかビワもあった。「ビワは9年でなりかかる」などだ。
果物の組み合わせとしては、ユズとウメの「ユズは9年でなりさがる。ウメは酸いとて13年」というものと、ユズの部分をビワに置き換えた「ビワは9年でなりさがる。ウメは……」というのが目立った。さらに最後に、ナシをもってくるケースも多い。
最大公約数的にまとめてみると、「桃栗三年、柿八年。ユズは9年でなりさがる。(ウメは酸いとて13年。)ナシの大馬鹿18年」というフレーズになろうか。
■「時をかける少女」ではウメがない
登場する果物や年数の違いはおそらく地域によるのだろう。また、ウメの部分をカッコでくくったのは、それがないフレーズも多かったからだ。これは、映画の挿入歌の影響が大きそうだ。
1983年公開の映画「時をかける少女」(原田知世主演)の挿入歌に、桃栗三年、柿八年に続けて、「ユズは9年でなりさがる、ナシの馬鹿めが18年」という歌詞があるのだ。ネットで調べた時、これを紹介しているケースがかなりあった。
いずれにしても、桃栗三年、柿八年に続くフレーズが、果物や年数の違いはあるにせよ、広く伝えられていることが分かった。
桃栗三年、柿八年に続く主なフレーズ
ユズは9年でなりかねる
ユズは9年でなりさがる ナシの馬鹿めは18年
ユズは9年の花盛り
ユズは9年の花盛り ウメは酸いとて13年
ユズは遅くて13年
ユズの大馬鹿18年
ウメは酸いとて13年
ウメは酸い酸い13年(18年)
ウメは酸い酸い13年 ユズは大馬鹿18年
ウメは酸い酸い13年 ナシはゆるゆる15年
ビワは9年でなりかねる
ビワは9年でなりかねる ウメは酸い酸い13年
ビワは9年でなりかかる ユズの大馬鹿18年
ナシの馬鹿めは18年
リンゴにこにこ25年
■江戸時代にことわざとして普及?
では、このことわざはいつごろからあるのだろうか。調べてみると、江戸時代後期の随筆家(雑学者)の山崎美成が書いた随筆「三養雑記」の中に、「桃栗三年、柿八年」という一節があった。
それによると、「ことわざに桃栗三年、柿八年。柚は九年になりかかるという」とあり、当時の人は「桃三、栗四、柑六、橘七、柚八」と言っていて、これは「為憲の口遊(くちずさみ)」からきているとあった。為憲というのは、平安時代中期の文学者で美濃守や遠江守なども歴任した源為憲のこと。「口遊」は彼が貴族のために著した教養書で、ほかにも「世俗諺文」という教養書を編んでいる。
また、1670年ごろの歌舞伎役者を紹介した本には「桃栗三年、柿八年。人の命は五十年。夢の浮世にささのであそべ(酒飲んで遊べ)」とあるという。
ここから推測するに、桃や栗が3年で、柿は8年で実を結ぶということは古くから知られており、そこから、何事も成就するには相応の時間がかかるということわざが生まれ、江戸時代までには一般に広まっていた、といえるのではないか。
小説「二十四の瞳」で知られる作家の壺井栄は、色紙にサインを求められると、「桃栗三年 柿八年 柚の大馬鹿十八年」という言葉を好んで書いていた。小豆島(香川県)にある壺井栄文学碑にはこの言葉が刻まれている。ユズの大馬鹿とあるが、これは辛抱強く年月を重ねて実を結ぶユズの実直さをめでる言葉なのだという。
■収穫時期は本当だった
最後に、桃栗三年、柿八年というが、本当に3年あるいは8年かければ果物として収穫できるのだろうか。これについては、JAグループ福岡のホームページに答えがあった。
それによると、実がなるまでに桃や栗は約3年かかり、柿は6~7年だから、ことわざはほぼ合っているという。もっともユズやウメはいわれているほど長くはかからないそうだ。
実際に家庭で食べた柿や栗の種を庭に埋めて育てても、同じものが収穫できるとは限らない。販売されている品種を作るには、挿し木や接ぎ木をして育てていく必要があるという。
(川鍋直彦)
https://note.com/minmaru2011/n/n3aaf37f395f2 【春の美しさ】より
ようかんと桃 2025年2月28日
人生の道のりが少し変わると好きな季節も変わってきます 昔は春がどうしても苦手でした
緊張の季節 別れの季節 出会いの季節という 何かの節目に対応することが苦手でした
風も強く 気温の変動も激しく心の気分も安定しないような春は まるで私の敵のようでした
少しだけ上手くいっているはずです 生まれてから25年間の中で 初めて今が幸せだと心の底から感じることができました それと同時に春が好きになったのです
春の訪れは 春の香り 春の香りは 花の匂い 良い風にのって 甘い梅の香りが漂ってきました うれしい気持ちです こうやって春の訪れを感じるのです 鳥も梅の木に止まって 春の喜びを感じているのです 鳥の声がよく聞こえるようになりました とっても喜んでいます
私もとっても嬉しいです 春の色 薄ピンク レモン色 色も春の訪れを感じています
私も感じています 春の優しい色と花と鳥を 地球は春に向かって 私たちを歓迎してくれています
Facebook草場一壽 (Kazuhisa Kusaba OFFICIAL)さん投稿記事
ネコヤナギ
春の予感は?と聞かれたら・・・いろいろ思い浮かぶ中で、「ネコヤナギ」でしょうか。「ツクシ」もありですが、予感というより、春の到来でしょうか。と言っても、感性豊かな国に暮らして季節の先取りが得意ですから、予感は「春」そのものでもありますが。
ネコヤナギは小川のほとりに見かけます。昔は見慣れた風景でしたが、外を駆け回っていたからですね。いまは探しに出かけないと見つかりませんが、子どもの頃の記憶は鮮やかなものです。
歳を重ねて、記憶があいまいになってなお残るものは、心に刻まれたものでしょう。老齢になって「家に帰る」といまはない実家を求めて彷徨うということを聞きますが、愛された経験がそこにあるからだと思います。
懐かしく、いまいちど会いたいという思い。それが正直な行動となるのですね。
友人がさみしくなると、夢でおかあさんと会えますようにと眠るそうです。すると、けっこうな確立で、「おかあさんが応えてくれる」と言います。自分の思いが叶うと言うより、おかあさんが応えてくれる・・・そこで、対話が出来るのでしょう。
信仰のある人は、見つからなかった方(神)が、本当はすぐそばにおられた・・・というようなことを言われます。たとえば、こんなお話です。
ある男が夢を見ました。自分の人生を振り返る夢でした。彼は主とともに浜辺に立ち、空に映し出されるさまざまなシーンを眺めているのでした。いつでもどんなシーンでも、浜辺には2組の足跡が残されていました。それは、主と自分の足跡です。
ところが、男が、人生で最も辛く悲しいときの場面にはただ1組の足跡しか浜辺に残されていませんでした。
「あなたは決して私を見捨てないと言ったのに、なぜ一番苦しかったときに、私を見放したのですか?」
主は答えて
「いとしい我が子よ。私は一度としてお前を見放したりはしなかった。お前が一番辛く、苦しみの中にいたとき、私はお前を抱いて歩いていたのだよ」。
ネコヤナギから話が逸れてしましましたが、小さな思い出にも大切なことがいっぱい詰まっているのですね。
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