『人生は価値ある一瞬』「いのちの有限性の自覚」

http://maekitakaoru.blog100.fc2.com/blog-entry-4108.html【髙橋健文句集『中今』】より

 「好日」主宰で、千葉県俳句作家協会や俳人協会千葉県支部でお世話になっている髙橋健文さんから句集『中今』(2020年10月、東京四季出版刊)をいただきました。ありがとうございます。

 平成21年から令和元年まで11年間の作品312句を収録した第三句集とのことです。この間、仕事の定年を迎えられ、ご両親を亡くされ、また結社の主宰を継承されています。句集名の「中今」は、過去と未来の真ん中としての現在を指す言葉だそうです。独白調の調べで、定年を過ぎた自らを詠い、また、事故後も原発が残り、核兵器もなくならない社会の今を詠っているのがとても印象的でした。

  三陸に涅槃の月の上がりけり

 「涅槃」が季題で春。釈迦入滅の日は旧暦2月15日とされているので、いつも満月です。東日本大震災の起きた2011年3月11日は旧暦2月7日でしたが、だいたい重なる時期にあたります。三陸に涅槃の月が上がったというだけのことを言った俳句ですが、そこに地震や津波の犠牲になった人々を悼む気持ちが滲み出ています。釈迦を取り囲んで人々や動物達が嘆く涅槃図のように、三陸中で震災の追悼行事を修し、またひとり静かに供養をする人々がいます。そうした人々の気持ちも満月が明るく照らしているのです。大きな災いを大きな季題に託して詠っていて、堂々とした姿が見事です。

  片蔭の尽きて少年鑑別所         定年や金魚のゐない金魚鉢

  ものを食ひながら見てゐる夕焼かな    葱坊主屋久島行きの船が出る

  踝を蟻這ふ原発再稼働          緑蔭に鶏と人間農学部

  たちあふひ空に残りし端色        かき氷崩す木の間に波見えて

  しぐるるや滅紫の嵐山          米原の待合室のビールかな

  堂裏に玉葱吊す施餓鬼かな        ごろ寝するなら冬瓜にならふべし

  事件などなき町木の実落ちにけり     袖通すシャツのつめたき桜かな

  籐椅子を残して猫の居なくなる      ががんぼの脚ちちははの亡きこの世

  核による平和はうれん草ゆがく     而して至る中今桐の花

  三陸に涅槃の月の上がりけり      金魚鉢洗ふ金魚の死にし日に


https://peraichi.com/landing_pages/view/haiku/ 【今を生きる俳句 】より

私たちは、いま歴史的な出来事の只中にいて 今しか作れないものが、きっとある。

俳句は、たった17音で、「今」を切り取り、鮮やかなままに残すことができます。

作るときは、自分の「今」を見つめ、深く向き合う。

取り出された言葉は、その言葉以上の世界を、他の誰かに伝える。

形となった一人一人の「今」は、未来の大事な資産となる。

俳句で、いろいろな人たちと「今」を見つめ、「今」を残していきたいと思っています。

俳句ワークショップ #06(以下略)


facebook田中 宏明さん投句記事

よく考えるまでもなくこの人生ってやつはみんな最後は死んでしまう 僕は昔からそれがずっと納得がいかなかった なんだかあまりにも 乱暴な結末に思えたから

優しさも安らぎも 死から感じることは 出来なかった それでもいつか 必ず死ぬ日が来る

大災害で死のうが 病気で死のうが 等しく死は死だ 全てを残酷に 奪い去ってしまう

死ぬとはそういう事 皆さんもまぁ きっと同じように感じてるんではないでしょうか?

でも今少しだけ 静かな気持ちになって

改めて死を感じてみると この「死」という システムが無ければ 気づけないことが

あるとわかります それはみんな絶対に 一人で死ぬということ まぁ当たりまえですが^ ^

そして一人で 死ぬと考えただけで とてつもなく心細くなります

でも不思議です^ ^ 人生はいつも 一人だったのにね だってそうでしょ? 我々は誰かといる時も ずっと自分の思いの中に しかいれないし 相手と一つになるなんて 不可能です

ただただ自分でいることしか 出来ない世界 その分離感って本当にさみしいもんでしたよね

目の前に人がいるのにずっと一人でいなきゃいけないんだから だから人はいつも誰かと繋がりたいと思っている つまり一つになりたいと思っているわけです  あれ?^ ^

なんか変だな 我々はいつも 誰といても ずっと自分という世界 しか生きられなかったのに なぜ一つになりたいと望むのだろう?

そうなんです^ ^「自分」という感覚があるからこそ「相手」が創り出されるわけです

だから究極を言えばこの「自分」が消えないかぎりこの永遠の欠乏感も消えないんです

ここでゆっくり深呼吸して感じてみてください

死ぬということは自分が消えることでしょ?

それって実はずっと我々が望んでいた分離のない世界一つの源に帰るということと同じことなんです

だからあんなに 怖れていた死は 実は究極の安らぎだったと 誰もが死の中で 気づくでしょう

同時に個として 生きていたことがどんなに 大変で貴重だったのかも

だから安心してほしいんです この宇宙はどこまでも 優しい愛で創造されて いるということに^ ^ そして出来るなら 生きている間に 自分を超えた先にある 愛と安らぎの感覚を

体感してほしい そのための分かち合いが 僕の人生で一番の喜びです^ ^

ではとりあえず 今宵はよい夢を🌈✨ ワハハ😁 らぶ💓


http://smj.or.jp/posts/monthly25.html 【人間は死を抱いて生まれ 死をかかえて成長する

人間は死を抱いて生まれ 死をかかえて成長する】より

あるお坊さんが、「わしの死ぬところをみんなに見せるように」と遺言して亡くなったそうです。

「人間は死ぬのだ」ということを子や孫たちに実地に教育するためでした。

このお坊さんにかぎらず、おじいさん、おばあさんが「人間はこういうふうにして死ぬのだ」と自分の死ぬところを子や孫に体験させるのは、先に逝く者の最期の大事な務めだと私は思っています。

私の父は90歳で亡くなりました。その父の老いて亡くなる姿を目にして、私自身はどう老いていけばよいかなど、老いや死をより具体的に、より深く考えるようになったのです。

このように、生きているときを知っている祖父母や両親などが亡くなるのを目にすることは、子や孫たちにとって、自分のいのちの有限性を考えるいちばんの近道ではないかと思います。

ただ、自宅で看取られることが多かった昔と違い、最近は病院で亡くなるケースがほとんどで、時世とはいえ、祖父母や両親の死を間近に目にしなくなり、若い人がいのちの有限性を意識する機会が減っているのは残念です。

どんなに頑健で病気ひとつせずに生きてきた人でも、いずれは老い、死を迎えます。それは免れようがない真理で、人間はいつ死ぬかわからないから、今このひとときが、今日という一日が大事だとわかるわけです。

もし永遠に死なないとなれば、今日の価値や明日の価値など誰も考えないでしょう。

若い人にとっては、死など遠い遠い先のことに思われ、それを実感するのは難しいといえます。

その意味でも、祖父母や両親の死を目の当たりにしたり、自分が大事に育ててきたペットが死ぬという体験をすることは、いのちの有限性を自覚するのによいきっかけなのです。

死を平生のこととして意識できれば、今のひとときがいかにかけがえのないものであり、二度とない大切な時間であると感ずることができます。今の人生、今のいのちをより充実したものにしよう、よりよいものにしようとなるのでしょう。

年を取って先が短い人の今日一日も、この先の人生が何十年もありそうな若い人の今日一日も、同じように大切な24時間であり、大切な一日だということは、死をきっかけに考えられる非常に重要なテーマです。

平均寿命は80年だとか言われますが、それはすべて統計の話で、自分がどうなるかはまた別の話です。

一応のめやすとなっても、そのとおりに生きられる保証は何もありません。やりたいこと、なすべきことがあるのなら、それに向かって少しずつでも歩き出しましょう。いのちが有限であるなか、ほんとうに大切なことを探して生きるようにしたいものです。

〈『人生は価値ある一瞬』「いのちの有限性の自覚」〉


facebook船木 威徳さん投稿記事【 なぜ永遠に生きたくはないのか? 】

「そこで、主は、『私の霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢(よわい)は、120年にしよう』と仰せられた。」(旧約聖書 創世記6章3節 (新改訳))

ギネスブックには、世界でもっとも長生きした人物として、フランス人女性のジャンヌ・

ルイーズ・カルマンさんが記載されています。122歳で亡くなったとされます(その後、疑義を呈する専門家もあった)が、それ以後も、これまで「~在住の~さんが、~歳で死亡」と

いう記事を見ていると、ほとんどが110歳くらいになっているので、やはり、長生きしても

せいぜい110-120歳くらいなのでしょう。

旧約聖書が成立したのは紀元前4-5世紀とされているので、当時の人類の平均寿命を考えても、聖書が、単純に人間の経験則だけで記されたわけではないようです。

ちなみに、聖書の記録によるなら、神がここで「人の齢は、120年にしよう」とされたのは人類の祖先とされるノアが箱舟で生き延びる「前」のことです。

さらに、創世記よりもはるか後に書かれた、つまりほとんどの人類を滅ぼしたとされる

大洪水以降に編纂された、旧約聖書の「詩篇」には、こうあります。

「私たちの齢(よわい)は70年。健やかであっても80年。しかも、その誇りとするところは

労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。」(旧約聖書 詩篇 90篇10節 (新改訳))

ノアの大洪水の前には、空に、地球を覆う厚い水の層があったが、それが雨となってなくなってしまったために宇宙空間から降り注ぐ有害な波(放射線)が吸収されなくなって、人類の寿命が短くなった・・・とする歴史家などもいます。もちろん、本当のところはわかりません。

つまり、せいぜいがんばっても人間の寿命はいまの、80年ちょっとがいいところ、だということなのかも知れません。

それでも、私は、かなり前から、相当数の「90歳以上で亡くなった人たちの最期」を診てきて、確信していることがあります。

それは、人間は、特に日本人は、もっともっと長生きしうるということです。

たくさんの患者さんの終末期を診てきた経験を踏まえ、現代の栄養学や慣行医療の限界、

矛盾点について学んだこと、さらには、実際に元氣に、90歳以上まで生きた専門家、

医師たちの著述や記録、私が長く学んでいる量子学的な知識や最近の知見をもとに、

「日本人」向けの、「元氣で長寿」サポートを行うための方法論をまとめつつあります。

そのために学んだ、非常に興味深い1冊が「ライフスパン 老いなき世界という米国の現職大学教授の著書です。内容は、著者が専門としている遺伝学の話など、難解なところもあるのですが、私が興味を感じたのは、世界最先端の研究者の「長寿」観、のようなもの。

この著者(デビッド A. シンクレア博士)が、あらゆる年齢層の聴衆を前に、「どれくらい

長く生きたいか?」と尋ねたそうです。結果は

・80歳まで生きたら充分と回答~1/3

・120歳まで生きたいと回答~1/3

・150歳まで生きたいと回答~1/4

だったそうです。ですが、「永遠に生きたい」と答えた人はほとんどいなかったと。

博士は、人は「死」そのものを恐れているというよりも、「人間性」を失うことを恐れている

のだと結論づけています。詳しく尋ねると、ほとんどの人は、健康・元氣な状態なしにただ長い時間を生きながらえたいわけではなく(むしろ、健康な状態なしに生だけを引き延ばそうとすることは、断じて許しがたい「罪」だと指摘しています)、病に苦しむのを少なくして、たくさんの愛に満ちた人生を送れれば、それでよいと考えているのだと。

私も、永遠に生きたいなどとはまったく感じません。だからといって、元氣で、人間性が

保たれた状態で、自身の判断能力や、生活能力が保たれているとするならば、さらには、豊かな愛に満たされた状況が続いているとするなら、いつまで生きていたい

という質問にもなかなか答えは出ません。

「じゃあ、なぜ、そんな理想的な状況」で私たちは永遠に生きたいと想わないのか?

https://m.amebaownd.com/#/sites/285805/posts/editor/56112597  【金星の見送る街や寒茜 五島高資】

これは、おそらくひとことで理由が出ないもの、あるいは、それが、人間の人間たる存在理由

につながる神秘なのではないかと感じます。

私が看取った患者さんで、想い出深い100歳のおじいさん、おばあさんがいます。

おじいさんは、しかも「独り暮らし」で、ほとんど最期まで、自力で風呂を沸かして、風呂に一人で入っていました。

おばあさんは、施設にいましたが、エアコンを入れろ、窓を開けろ、新聞を持ってこい(日付も確認していました)、などと、「担当すると一番忙しい」入居者に認定されていました。

その患者さんたちに、私も興味があって、これまでの生活歴や思想、感情に関していろいろ尋ねたものです。ですが、ふたりとも、

・長生きしたくてしたわけではないが、早く死にたいとはまったく考えていないこと。

・睡眠は大事に感じていること。

・食事にはこだわりはまったくないこと。

・家族や孫の話題はうれしいこと。

・いろいろ質問はしてくれけれど、自身の病気にはまったくというくらい興味がないこと。

で、共通しているな、と感じたものの、結局、長寿の秘訣らしいものは、私には突き止められませんでした。

一方で、ご家族(子供さん、お孫さん)たちの話が、ある意味で興味深いものでした。

それは、(患者さんが)どんな人だったか、どんな生きかたをしてきたか、という質問の答えです。

ほかにも90代後半まで生きた方のご家族も口をそろえて言っていたのは、「自分の考えは曲げない、一度自分でやると言ったら、聞かなかった」というもの。

現時点での私の考えとしてはこうです。 その人が、どうしても実行したいと考え実行できればできるほど、つまり自分だけの考えに沿った人生が続けば続くほど、結果として長生きになるのだけれど、そもそも「実行したい」と考えるのは元氣だからこそ、「できる」こと。そして、恐らく「実行したい」という考えは、永遠に生まれるものではなく、その考えすら出てこなくなる日がどこかで来るのだろう、ということです。それが、人間の一生なのかも知れません。

「こうしよう、ああしたい」という想いや考えが生まれてくるというのは、素晴らしいことです。私は、それらは決して、体内の化学物質や物理法則だけで説明がつくといった簡単なものではなくて、人間の根源的な能力のなせるわざでしょう。もしかすると、それらは「ほとんど」が、眼に見えない力、人智を超えた存在の力添えがあるのかもしれません。

少なくとも、私は、多くの人が神仏と表現する存在がなくては、私たちは一瞬も生きては

おれないと考えています。そして、人間が、この世に作りだしたもの、化学物質や、音、臭い、情報や思想などのなかの「変なもの」「不快なもの」といったおよそ私たちが「不自然」に感じるものが、

私たちから、「私の想い、感じかた、考え」を損ない、あるいはあきらめさせ、果てには、

「こうしたい」という活力に基づく人間性まで奪ってしまっているのではないかと、想えて

ならないのです。「でも、あきらめることはない。」なぜなら、取り戻せるものがたくさん

残っているから。そして、その未来に一番近くあるのが日本人なのだと、私は新年早々、そう強く感じています。

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「世界というものはすばらしい。それは無限の宝を宿している。人はまだよくこの無限の宝を見つけることが出来ない。無限の宝というものは、何よりも、お前自身の中にある。汝自身の中にある、世界の無限の宝を開拓せよ」。そういう世界肯定の思想が密教の思想にあると私は思う。」(梅原猛「空海の思想について」より抜粋)

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(ふなきたけのり・百姓医者 2025/01/08)

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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