http://blog.livedoor.jp/fukunaga_kouji/archives/1001225175.html 【俳句は姿勢】より
以下、福永耕二(俳句・評論・随筆・紀行)174-180頁 : 安楽城出版より抜粋
俳句は姿勢
僕は評論というものを書くのが大の苦手である。もともと論理的な考え方が不得手なので、評論を書くには適さないのである。これまで作家論、作品論を十数篇は書いたと思うが、それを書くのも殆ど構成というものを立てたことがなく、行きあたりばったりに書いてゆくので、途中で難渋し原稿用紙と睨めっこしている時間の方が多いということになる。
ドストエフスキーが小説の出筆中、友人に宛てた手紙の中で、その小説の主人公がどういう結末を迎えるか自分でもまだわからぬと書いたり、最初主人公にするつもりでなかった人物が途中から主人公になりたがって困ると書いたりしているのは有名である。僕の評論もそれと同じで、書きはじめた時には結論がどんなことになるのか、皆目見当がついていないことの方が多い。講演となるともっとひどい。四月末、俳人協会主催の俳句講座の講師を引き受けさせられ「俳句の姿勢」という題で約九十分の話をした。用意らしい用意もせず講演に臨んだので、聴講した人もその支離滅裂ぶりしか記憶にないことだろう。僕自身何を話したのか、後で纏めてみようと思ったが、一切を忘れて思い出さないのである。それでも九十分近い話をしたことは確かで、高松市での講演の時は、水原秋櫻子、阿波野青畝、佐野まもるの三先生が選句されている時間の穴埋めにやはり九十分間の講演を頼まれながら、五十分話したらもう話すことがなくなってしまい、降壇してしまった。まったく腑甲斐ないことである。
しかし、正直なことを書けば、僕は俳句についてあまりにも整然とした筋の立った話をする人を俳人として信用しない。特に俳人の本質について大上段に振りかぶったような論調で書いたものなど感心しない。俳人にとって俳句という表現形態は、それほど取組みやすいものではなく、むしろ悪戦苦闘の中から少しずつ自得してゆくもので、その自得したと思うものさえ、するりするりと手の内から逃げ出してしまうものだ。だから、昨日真実と思ったことが今日は覆えされることもあり、とても人前で自信を以って自分の信念を述べるという気にはならない。自分がそうだから、他人が自信を以って論ずる内容にも、なにか信の置けぬ気がするのである。
高尚高遇な理論などより、一句の俳句に心打たれ、教えられることが多い。それも僕が俳人だからで、俳人はだいたいそういうものではあるまいか。自分の習熟している表現形式の機能に最も敏感なのである。俳句の内蔵するものを散文でいかに詳しく説明しても、いやむしろ詳しく説明すればするほど、それは句の内蔵する静謐さとは似ても似つかぬものとなってしまう。だから、結局俳句は十七音で完結しているものと覚悟する他はない。そう覚悟をするのが俳人というものであろう。他のどういう表現形態でも自分の感情思想をあらわすことはできないと諦めた時、俳句ははじめてその人の表現形態となりうる。その覚悟ができるまでは、俳句はその人にとって余技であり、将棋や囲碁、盆栽や手芸のような趣味の域を出るものではない。
俳句を、人生からの逃避、晩年の趣味と考えている人にとって、俳句は結局は逃避であり、趣味にすぎない。そういう人々をも俳人として数えれば、俳句人口は百万にも二百万にもなるだろう。そして、それを以て現代俳句の隆盛という虚像を描くこともできるだろう。しかし現実はどうか。
俳人と称する人々の大半は、歳時記片手に交通標語をひねる要領で俳句をひねる。自分の属している結社誌以外は覗いてみるということもしない。雑誌が届くと自分の俳句の載っている位置を確かめて喜んだり悲しんだりしている。句会で点を稼ぐことを唯一の楽しみとし、選者の特選にでもなれば手を拍って喜び、成績が悪いともう俳句なんかやめてしまおうと真剣に考える。これが大方の俳人と称する人々の現実であろう。
一方また、自分の成績を上げるためには選者の選に迎合し、その好みの言葉を綴り合わせて俳句をこしらえあげることを、何とも思っていない人々がいる。そうして念願の同人にでもなると、某誌同人と刷り込んだ名刺をやたらと人に配って歩き、早速先生と呼ばれたがる。そういう人の俳句がいかに上手に出来ていても、少しも感心する気にはなれない。
俳人と呼ばれている人々の多くは、言葉遊びを楽しんでいる俳句愛好者か、この俳句結社社員とでもいうべき人種で占められていて、明日の俳句の創造に携わろうとする作家的精神をその中に見出すことはむずかしい。自分の人生から途中下車して自慰行為として俳句を弄ぶ人にも、俳句によって世間的名利の夢を実現しようと思っている人にも、芸術の創造性は無縁である。創造性のない作品の製作は、大いなる消費を毎月の雑誌に展示する結果になる。俳句滅亡論の生ずる所似である。
俳句は姿勢だ、と僕は考える。俳句はそれを生きて行ずる人の姿勢である。俳句という表現形式を愛し、それを人生と等価のものにして生きようとする努力が俳句の歴史を貫いてきたと思っている。芭蕉しかり、子規しかり。波郷またしかり。「ついに無能無芸にしてこの一筋につながる」という言葉を、僕は芭蕉の謙辞だとは思わない。「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶におけるその、貫道するものは一なり」という表明には、おのれを生かす道を発見した者のゆるぎない自信と喜びが漲っている。無能無芸であったからこそこの道に精進したとも言えるが、俳句への精進の激しさがおのれを無能無芸の境に到り着かせたとも言えるのではないか。
芭蕉はその一生を通じて、新しい境地を求めて前進してやまない人であった。新しい詩境を得るためにはそれまでの連衆、門人をも捨て、安定した生活をも捨てて顕みない人であった。貞門から談林、談林から蕉風確立までの作風の変遷も、「虚栗」時代の詩型との格闘も、俳句を身を以って生きようとした人でなければ起こる筈もない変動曲折であった。現代俳句がなかなか芭蕉を越えられないのも、その姿勢においてである。現代の俳人には、俳句を行じて生きるだけの決断と勇気が欠けているのである。
子規の作品を僕はそれほど高く評価しないが、行年三十六歳ということを考えると作品の不熟さはむしろ当然のことで、それでも辞世の句が高い自己観照に達していることを偉としなければならない。せめて五、六十歳まで生きていたらと惜しまれる。子規の「俳諧大要」には一万句作らなければ俳句作家として認められないと書いてあるが、子規自身その一万句に達したかどうかおぼつかない。しかし、俳句革新の情熱に至ってはなさに超人的で、そのために寿命を縮めたのではないかと思われる。
僕は何も芭蕉のような生き方、家庭を持たず旅から旅へ遍歴するのが俳人の生き方だと思っているわけではない。また子規のように、寿命を縮めるほどの俳句への情熱がなければ俳人でないと思っているわけでもない。現代の規格化された生活の中では、芭蕉や子規のような生き方がむずかしいのは当然である。しかし、俳句を自分の生活の場から詠み起し、自分の生き方に対する考えや生活感情をその作品に色濃く投影させてゆくことは、そんなにむずかしいことではない。そうして表現されたものが人に高く評価されないときには、なぜ高く評価されないのか考えてみることが大切である。表現が整わず人に訴えないということもままあるが、多くの場合、表現されたものが表現するに価しないつまらない事柄であることが大半であろう。平凡人の平凡な感情や観察が、他人を感動させる筈のないことは自明である。他人を感動させるためには、他人を感動させるだけの自分の生き方があってその作品を支えていなければならない。
僕の知っている俳人にHという青年がいた。自然描写や田園の描写にすぐれた作者で、たちまち雑詠欄の上位に進出し、何度か巻頭にも推された。ある日、その友人から、Hが癌で入院しており、余命」いくばくもない状態だと知らされた。そこで驚いて雑誌を開いてみると、利根川の鮭漁を見に行ったらしい作品が並んでいる。友人が嘘を言ったのかと思っていたら、やがてHの訃報が届き、やはり数ヶ月入院して死んだということを知った。死後載った最後の作品も、全く病気ということを感じさせない吟行作品であった。
僕は今でもHにとって俳句は何だったのだろうと思う。そしてそれと対照的に思うのは昨年一月に亡くなった相馬遷子の病床作品の数々である。
梅雨深し余命は医書にあきらかに
冷え冷えとわがゐぬわが家思ふかな
大幅に余命を削る菊の前
思ひいますさまじければすぐ返す
うそ寒く閉づる朝刊同病死
入院す霜のわが家を飽かず見て
死の床に死病を学ぶ師走かな
冬麗の微塵となりて去らんとす
これら死と対峙して詠みあげたすさまじい作品を毎月の「馬酔木」で読みながら、息苦しい思いに捉われたのは僕だけではなかっただろう。こんな状況の中にあってよく俳句が詠めるものだと思ったし、俳句とはなんと業の深い文芸だろうと思った。しかし、いまこれらの作品を句集『山河』で読み返すと、俳句を行じて生きることの厳しさを遷子が身を以って教えてくれているような気がする。相馬遷子は高原派の俳人として知られるが、決して自然諷詠に偏した作家ではなかった。佐久の人々を詠み、その生活を詠み、世相を批判し、戦争を憎んだ俳句を詠んでいる。俳句は遷子の生活を覆いつくし、全人的な人間性の発露となっていたことを肯わぬわけにはいかない。肉体は亡んでもその精神は、俳句の中にいまなお脈々と流れつづけているのである。
再びHのことに思いを戻すと、Hももう少し俳句の道に深入りしていたら、相馬先生のようにその生活に触れ、人生に触れた表現をなし得たのではなかろうかと、その夭折が惜しまれる。
最近、俳句の入門書、作法書などがつぎつぎに出版されている。そのどの本を読んでみても、俳句は誰でもが手軽に始められる文芸であること、入ってみて楽しみの多い文芸であることなど、気軽で無難な言葉が並んでいる。そのことに反対する気持ちは全くないが、一冊くらい、俳句がその作者に自己変革を迫る厳しい形式であること、気軽にはつづけられない文学であることを、自らの経験を通して解き明かす入門書や作法書があってもいいのではないかと思う。
僕は人に俳句をすすめたことがない。石田波郷も、その行き方を変えることになるから、むやみに人に俳句をすすめないと言っていたそうだが、やはり俳句を作ることの幸福と不幸を充分に味わった人の言葉だと思う。
もちろん、人からすすめられて気軽に始めるような人は、また気軽にやめてしまうのであろうが、十年二十年とその人生と何の関わりもないところで俳句を作っている人を見ると、これでいいのかと気の毒な思いさえしてくる。たとえ人からすすめられてというような消極的な態度で俳句を作りはじめても、どこかで一度、自己表現の道としてこの詩型を選び直すということがなければ、その人は真の俳句作家と言えないのではあるまいか。
僕が俳句を作りはじめたのも十六歳の時、先輩にすすめられたのがきっかけであったが、その当初、俳句は隠居文学であるという世間の偏見にずいぶん肩身の狭い思いをした。まだ桑原武夫の「第二芸術論」の波紋の消えやらぬ時代でもあった。だから、自分が俳句を作ることの理由根拠を自分なりに探すことに懸命だった。俳句を軽蔑するために俳句を作っていると思われるような一時期もあった。詩や短歌へ転じようとした時期もあった。そして結局俳句一筋の道を選んだのだが、それは偶然が支配する運命であるかのように長い間思い込んできた。しかし、今思うに、それは運命であっても決して偶然であったとは思われない。人生経験に乏しい地方の一高校生に、詩を構築するほどの思想感情があったわけでもなく、短歌に表白するだけの心理的屈折があったわけでもない。視覚体操を僅か十七音の定型に鋳込むことによって表現が完結するその無思想性が、僕をこの詩型に惹きつけた正体であったのだと思う。その頃読んだ一頁一句組の「石田波郷句集」の一句をとりまく余白に、魅力を感じたと書いたことがあるが、いうなればそれも、口下手で饒舌を好まぬ僕の生理的な親近感とその無思想性が原因だったと考えてよい。もし僕が都会の早熟な高校生だったとしたら、既成のさまざまな思想に毒されて、俳句など作る気にはならなかっただろうと思う。
生理的な弱点もそれを培っているうちに生きてゆく上での武器に変ずる。左効きが投手としての武器となるようなもので、口下手には口下手なりの表現が生ずる。無思想な人間がその無思想を貫いて生きようとするとき、それはまた独自の思想ともなりうる。その頃の僕を励ましたものに、小林秀雄の『私の人生感』の中の次の一節があった。
「最近、文壇で、第二芸術論といふ議論が盛んであった。俳句という古い詩の形式を否定する、その表向きの議論が、どんなに大胆なものであろうと、さして興味あるものではないが、議論の動機は、論者のそれと気附かぬ現代人の気質の深い処から出て来てゐるのではあるまいかと考えると、あゝいふ文壇的な空騒ぎの裏側が見えます。現代人の気質は、沈黙を恐れてゐる、現代人の饒舌は、恐らくこの恐れを真の動機としてゐる、と。俳句ぐらゐ寡黙な詩型はない、と言ふより、芭蕉は、詩人にとって表現するとは黙する事だというパラドックスを体得した最大の詩人である。・・・・・・」
この一文は、僕に俳句の形態が散文の代表する現代文学に対する一つの批判として存在しうることを示唆し、俳句に対して抱いていた一種の劣等意識を払拭してくれるものであった。僕は「馬酔木」に「沈黙の詩型」と題する評論を書き、この詩型への傾斜を一層深め得たように思った。
だが、当時の僕の作品は、まだ青春期の感傷に色濃くそまっていたので、その感傷性を脱するために悪戦苦闘しなければならなかった。青年波郷が一日に百句ずつ写生句を作り師五十崎故郷の閲を受けたという逸話に倣い、僕も自然風物の写生に専念するようになった。しかし、その写生というのはあくまで主観による写生であり、「客観写生」の徒であったことはない。
風景や事物を主観をまじえず凝視し言葉に写しとるというのは、言語表現の技術的な訓練とはなっても、自己表現を通して自己の人間的完成をめざす文学の方法ではありえない。「客観写生」を唱えた高浜虚子自身の代表句とされるものを読んでみても、その底にしたたかな虚子の主観が存することを見れば、その唱導したものが俳句大衆を手なずけるための方便にすぎなかったことがわかる。「客観写生」のお題目は近代俳句の量的な隆盛を招いたが、俳人の文学的自覚を喪失させる結果ともなった。
傑れた主観が純粋客観に近いものであることは確かである。特に俳句のような短い詩型に盛られる主観は、形式そのものの抵抗を受けて鍛練され洗練され、次第に普遍性を獲得するようになる。それは多くの現代俳人の作風の変遷の中に見られるもので、僕が能村登四郎、桂信子、野沢節子、鷲谷七菜子論などの中で見てきたところでもある。作家の主観が強ければ強いほど俳句の形式と折れ合うことはむずかしいが、それを克服して成った作品は重い沈黙をその裡に孕んでいる。その沈黙が読む者の心を強く打つのである。しかしそこに至るまでには長い間の形式との孤独な闘いが必要である。そういう孤独を経験しないで、人に教えられたり、お題目に頼って、傑れた作品が生まれる筈もあるまい。
十三年前、僕は上京し、多くの俳人を身近に見てきたが、その中で最も感動したのは師水原秋櫻子の俳句への熱情と、それを支える日常生活の潔さだった。八十歳を越えて大病を患ったが、その絶対安静のベッドの中でもなお俳句を案じつづけ、病が癒えると病気の前よりも過重な文筆活動を自分に課している。
餘生なほ為すことあらむ冬苺 秋櫻子
の「餘生」を題とする第十九句集を十月刊行し、さらに来年、第二十句集を編もうとする意欲には壮年を凌ぐものがる。秋櫻子から言葉で教えられたことはただ一度、『鳥語』の序文で、今後もっと美しく明るい俳句を、とその方向を示されたことがあるだけである。おそらく僕の俳句にやや陰気で偏狭な性格の反映していることを看取してのことであっただろう。美しく明るい俳句をめざすことは、つまりは美しく明るい生活をめざすことであろう。僕ら凡庸な人間にできることは、日々の感情を潔くし、自然を愛し、他人に対しては善意を附くし、そして何よりも感動して生きることである。その生活が少しでも立派なものになれば、それは俳句にも反映しない筈はない。
俳句が姿勢であるという所似である。 (昭和五十二年十月「沖」)
濃い黒字は入力者が要点を認識するために入れたもので、原本にはないものです。
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「俳句は姿勢」を読んで考えたこと。
(広く皆様からの投稿をお待ちしています。)
その1
福永耕二氏の俳句に対する情熱が詰まった文章だ。
「俳句は姿勢だ、と僕は考える。俳句はそれを生きて行ずる人の姿勢である。…」俳句を作ることを軽率には勧められない。それは、その人を左右するくらいのものだからだ。俳句で表現する覚悟ができているか。誰しも、きっかけがあって俳句を始めるわけだが、生半可ではだめだと肝に銘じた。
俳句は姿勢と語る氏は、あまりにも早くあの世に旅立った。残念でならない。
<山下雅司・記>
その2
遠い昔から日本人は歌(詩)で話をしていました。ですから、日本人の文学は応答の歌(詩)ではじまったと言えるかもしれません。それは祈って心を聞くように、歌を送り、送り主の歌(詩)の心を汲んで返歌(返事の詩)を送っていました。歌(詩)にはいろんな型がありますが、最初の「5・7・5の音数の言葉」で出来た詩を上の句と呼び、上の句に「7・7の音数の言葉」をつなげて下の句と呼びました。上の句の心を汲んで下の句で返歌をすることもありました。一音一文字を連ねて出来ている日本語の調べならではのことですけれど、江戸時代になって、この心のやりとりがゲーム化しました。最初の人が作った詩の世界から、いろんな世界を展開してゆき、つぎつぎに詩の世界を作ってゆくゲームです。ゲームには一定の決まりがありました。発句という最初の「5・7・5の文字数の句(詩)」には季節を表す言葉を入れるなどです。『連句』と呼ばれたこのゲームはやがて『俳諧』となり、江戸時代は一般教養として普及していました。また、古くは『万葉集』など、日本人は誰もが詩人になれる素質を持っているのかもしれません。ですから、日本人全員が俳句を作ったとしても、むしろ自然なことかもしれません。ただ、誰もが踊れるフォークダンスや盆踊りの中から、優れたバレリーナや舞踏家が現れるように、季節を表す言葉を入れた最初の「5・7・5の文字数の言葉」の発句(詩)の内容に心を極め、文学的高さを訴えることで、命を明かそうとしている人々や作品(自己表現を通して自己の人間的完成をめざす文学の方法)が存在していることを覚え、育ててゆくことは大切に思えます。なぜならそれは決して孤高の虎ではなく、沈黙の深淵から得た真珠の美しさをもって、人々の心に感動の応答を呼び起こし潤してくれる文学といえるからです。それは、祈りの心を交わしあって来た日本人の歌(詩)という素養の広い平野に支えられてきた、高く聳える富士山なのでしょう。裾野は広く厚い方が、富士山の気高さが輝くように、出来るだけ多くの角度から、福永耕二を通しての俳句という山の高さと美しさと応答して行きたいと思います。そして、いつしか自ら
も作句するための感動の内面を整え、光をはなつ、俳句作家の新星となることを期待し、福永耕二を学び
応答してゆきたいと思います。美しい俳句(詩)は美しい生き方と感動から生まれるのですね。
沈黙せよ。そうすれば、私はあなたに知恵を教えるであろう。(ヨブ記33:33)
The beautiful haiku (poetry) comes out of beautiful way of life.
The beautiful haiku (poetry) comes out of beautiful way of life and impression.
(Job 33:33 of the Bible) <盱 記>
https://note.com/imaoemiko/n/nb763e475c14e 【俳句も仕事も生活も、すべて「生きる姿勢」につながっていく ~俳人 仲栄司さんに聴く】より
※過去のインタビュー記事3つのまとめです
「俳句は生きる姿勢」
俳人、福永耕二。彼は、42年の短い生涯を俳句ととともに駆け抜けた。冒頭の言葉「生きる姿勢」は、その人生を描いた書「墓碑はるかなり」の中に、彼の俳句観を象徴する言葉として繰り返し登場する。
この本を読み、俳句を人生と等価と捉える福永耕二の俳句観、そして、その覚悟を自らの人生に貫いた純粋な魂に、まず衝撃を受けた。と同時に、そこには、時を超えて運命のように彼の人生と出会い、この物語を紡いでいった著者、仲栄司さん自身の俳句観、生き方が重なり、響き合うのを感じずにはいられなかった。
今回、その仲栄司さんにお話を聞ことができました。
俳人 仲栄司(なかえいじ)さん
-「田」俳句会、同人(2005年入会)- 句集『ダリの時計』(2008年)- 評論『墓碑はるかなり』(2018年)- 俳人協会会員
ここまでの道のり
ーー 栄司さん自身は、どのようなきっかけで俳句を始めたのですか?
2000年に、駐在先のフィリピンから帰国しました。常夏の国から戻り、日本の春夏秋冬はいいなと思った。それから、もともと書くことは好きで、エッセイなどは書いていました。それに比べると、俳句は短い。だから簡単だろう。それで、やってみようと思ったんです。しかし、それはとんでもない間違いで、実際は果てしなく奥の深い文芸でした。
そこから5年くらい、一人で作っていました。本を読んで学んだり、賞に応募したりはしていましたが、「人に見せるなんて」という気持ちもあり句会には参加していませんでした。出張も多く、仕事が忙しかったですし。でも、そのうち「このまま続けても変わらない」と思うようになって。それから、どの本を読んでも「俳句をやるなら句会だ」と書いてあった。
そこで意を決し、2005年、結社に飛び込みました。やるなら、何のしがらみもない、まっさらな場所で、と。それで「田」(主宰 水田光雄氏)を選んだんです。その後、「田」同人、柘植史子さんの第60回「角川俳句賞」授賞式のパーティー(2015年1月)で出会った峯尾文世さんからのお誘いでソフィア俳句会に、またそこで出会った根来久美子さんからのお誘いで上智句会(主宰 大輪靖宏氏)に、参加するようになりました。
シンガポール駐在中(2015年9月~2018年9月)も、句会にはメールで参加しつづけました。その間、上智句会では、大輪先生はもちろんのこと、幹事の山本ふぢなさんや根来久美子さんが常にご連絡をくださるなど、皆様にはとてもお世話になりました。俳句を通じて、本当に良い方々との出会いがあり、それにはとても感謝をしています。その刺激や支えがあって、ここまで続けてこられました。
俳句は「着眼」
ーー 栄司さんにとって、良い俳句とはどんなものですか?
私の考えでは、俳句はこの3つの工程で成り立ちます。
1.着眼:何に感じ、着目するか
2.表現:着目したものを、どう表現するか
3.リズム:表現を、どのように五七五の調べに乗せるか
良い俳句は、この3つが揃ったものと言えるでしょう。ただ、この中で、最も重要なのは「着眼」ではないかと私は考えています。
「着眼」とは、目の付け所。それがすべての出発点で、そこに、その人の個性が宿ります。そして、その人の俳句の個性を形作っていくものです。その人の生き方が詰まっている、と言っても過言ではないかもしれません。もちろん、表現やリズムも大切ですが、最近は特に「着眼」が優れたものを良い俳句だと評価する傾向が、自分自身の中で強くなってきたと思います。
ーー 俳句は「着眼」が大事で、そこに、その人の「生きる姿勢」が表れると。優れた着眼は、どのように養うことができるのでしょうか?
まずは、「物事は多面体である」と捉えることが大事だと思います。ある角度から見れば赤くても、裏からみたら青いかもしれない。上から見たら、下から見たら、また別の色かもしれない。形も、匂いも、全く違うかもしれない。一つの物事には、様々な色があり、形があり、匂いなどがある。一面だけを捉えて決めつけない、ということです。
その時に大事にしたいのが、「違和感」です。みんなはこう言っている、マスコミもこう言っている、でも「待てよ」と思う気持ち。人とは違う、自分の感覚です。それにこだわり、追求して、掘り下げていくこと。
そのためには、様々な経験をして、多くの引き出しを持つことだと思います。多様な人たちと関わり、多様なものや考え方に触れ、その感度を高めていくこと。だから「生き方」と結びつくんですね。どういう生き方をしているかで「着眼」は変わってくる。
ーー 良い俳句をつくるには、良い着眼を持つような生き方をすること。そういうことでしょうか。
そうですね。それが、作者としてできることです。でも、それではまだ半分です。
俳句の場合、もう半分は読者に委ねるわけですね。読者が自分の世界に落とし込み、そこに新しい世界を広げる。作者が思ってもいなかった鑑賞をすることも珍しくありません。
福永耕二も、随想「カミュの死」(昭和35年5月号「馬酔木」掲載)の中で、「作家はその作品の中に永遠に生き続けており、読む度毎に、僕らはその中で生きている作家の魂と邂逅する」と言っています。
そういう意味では、俳句が新しい読者と出会い続ける以上、「俳句は永遠に未完成の作品」と言えるかもしれません。これ、話していていま気がつきました(笑)
俳句とイノベーション
ーー 現在、俳句以外には、どのような活動をされていますか?
昨年、大手企業を定年退職して、今は、準公務員という立場で、新しい仕事をしています。加えて、「熱帯と創作」という、東南アジアにおける日本の文人を中心とした作品鑑賞の連載も執筆しています。あと、10月からは障がい者の就労を支援する企業の顧問も務める予定です。それから、友人と新しく「安心して失敗できる場づくり」を始めようかという話もしています。
ーー ずいぶん様々な活動をされているのですね。それらと俳句には、何か接点はありますか?
好きなことをすぐやろうとするのですが、最近はもっと家族のことを考えて行動をと反省しています(笑)
接点という点では、最近、新しい仕事で「1分間スピーチ」ということで話す機会があったので、「俳句とイノベーション」という話をしました。
そもそも、イノベーションとは何か。最初は、何か新しいことを発明することだと思っていました。しかし、どうも違うようだと。調べてみると、一般的には「新たな価値の基軸を打ち立てること」と言われているとわかりました。「価値の軸を変える、ずらす」とも言えるかもしれません。
そのとき、これは俳句だ!と思いました。先ほど、俳句で最も重要なのは「着眼」だと言いました。着眼、つまり、何に感じて着目するか。これが俳句の出発点で、個性になっていくものです。そして、優れた「着眼」とは、人とは違うものの見方、感じ方があること。つまり、これまでの価値の軸をずらしたり、新たな軸を打ち立てたりしていることなのです。
ーー イノベーティブな着眼が良い俳句をつくる、ということですね。
それと、もう1つ。イノベーションを起こすときに大事なのは、「変えてはいけないものは何か」を見極めることだと。
これは、俳句に当てはめると「有季定型」です。有季、すなわち、季語を入れることと、定型、すなわち、五・七・五で詠むこと。この2つです。これを逸脱すると、俳句ではなくなります。俳句という定型詩を選んだ以上、「有季定型」は変えてはいけないものです。
変えてはいけない「有季定型」という詩形の中で、人と違う着眼によって新しい軸を打ち立てる。こう考えると、俳句にはイノベーションが重要。というか、良い句には、常に小さなイノベーションが起こっている、と私は思うのです。
ーー それを特に感じる作品はありますか?
たとえば、私の好きな俳句の一つがこれです。
ぎりぎりの裸でゐるときも貴族 櫂未知子
この句の季語は「裸」、夏の季語です。句またがり(文節が、五・七・五になっていないこと。この句は、五・九・三)ですが、きちっと十七音にまとまっている。つまり、「有季定型」の形を守っています。
同時にこの句は、「裸」という言葉が持っている本来のイメージ、たとえば、淫ら、とか、はしたない、という価値の軸を、「貴族」と言い切ることで見事にずらしている、いや、新しい価値の軸を打ち出しています。
ここに着眼のポイントがあり、発見があるのです。この句からは、はしたなさとはほど遠い、人間の気品を感じるのではないでしょうか。「ぎりぎりの裸」にもかかわらず。
「ぎりぎりの裸でゐるときも貴族」。こういうイノベーションを感じる句を、私は詠んでいきたいと思っています。
ーーいま日本中が起こそうともがいている「イノベーション」が、この短い詩の中で起こっているというのは面白いですね。小さな実験室みたいです。
俳句もビジネスの世界も、一緒だと思うんです。なぜなら、経済活動自体は本来、広い意味で文化と不可分だから。
俳句でもビジネスでも、イノベーションを起こすには、相手や自然を尊重し、多様性を受け入れ、自分の常識を疑い、違和感にこだわり、失敗する。そういうことが大切だと思っています。同じなんだと思います。
ーー 失敗する、も大切ですね。
イノベーションに、失敗は必要です。そのためには、安心して失敗できる「場」が大事だと考えています。
仕事でいうと、それは職場です。だから「たくさん失敗しろ」と私は思っています。失敗すると、弱い人の気持ちがわかるようになる。それが価値の軸を増やすし、想像力を高めるからです。イノベーションには、それが必要なんだと思います。それでいま、若い人たちが安心して失敗できる場をつくっていきたいと考えているんです。
俳句でいうと、それに当たるのが句会です。俳句では、たくさん作ってたくさん捨てろ、と言われます。私も、たくさん作って、たくさん捨てています。いろいろ試して、たくさん失敗する。そして、また挑戦する。みんな、それを繰り返しているのです。
失敗がイノベーションを生む。それは、俳句も、仕事も、同じなんだと思います。
いまここで、共有している時間
ーー 新しいお仕事の傍ら、執筆活動もされているのですね。
俳句は私自身の表現の一つですが、そこで言えることは限られます。それから、読み手に委ねる部分も大きい。だから、自分が伝えたい、主張したい、ということは文章で書きます。
いまは、「熱帯と創作」(東南アジアにおける日本の文人を中心とした作品鑑賞)の連載を書いています。この中で、東南アジアと日本人との関りを見ていくと、やはり戦争は避けて通れない、ということを実感します。そして、戦争についてもっと知らなければいけないとも感じています。
まず思うのは、「戦争はこうだ」とひと塊で語るものではない、ということ。そこには、一人一人の人間、一つ一つの人生がある。もちろん、俯瞰することは大事です。でも、ミクロの視点も忘れてはいけない。そして私は、そういう見方をしていきたいと思っています。
それから、「なんであんな明らかに勝ち目のない戦争に突っ込んでいったんだ」なんて、今だから言えること。戦時下にいない、安全地帯にいる人間が、後から非難するのは簡単なんです。でも、当時はそうじゃなかった。そうできない理由があった。どうしてそうなったのだろう。そう考えることが大事だと思っています。
そこから、「結果とプロセス」ということを最近よく考えます。これまで私たちは、結果ばかりを重視しすぎてきたんじゃないか。もっとプロセスに目を向けるべきなんじゃないかと。
ーー とても共感します。仕事でも「結果」のためにプロセスがあるわけではなくて、「プロセス」そのものが価値だと感じることは、よくあります。
生活の中でも、「共有している時間」を大事にしたい、と考えるようになりました。つまりプロセスなんですけど、「プロセス」という言葉がしっくりこないので「共有している時間」と置き換えたいと思います。「共有している時間」というのは、人と共有している時間であり、また、自然と共有している一人の時間でもあります。
昨年、父が亡くなってから、そのことを強く思うようになりました。父の死後、母と二人で上高地へ行ったんです。これまで旅行に出ると「あれを見よう」とか「あそこに行かないと」とか、目的に走っていました。でもその時は、どこに行く、何を見る、ではなくて「母と共有しているこの時間」を大事にしたい、と思ったんです。そんな思いで旅行したのは、初めてでした。
ーー 素敵な視点ですね。そして俳句も、作品(結果)だけでなく、それを創作する時間(プロセス)が尊いのではないか、と思うことがあります。
そうですね。俳句も、「共有している時間」の積み重ね、それが大事なのかなと感じます。句集を出すこと、賞を取ることは、もちろん素晴らしいです。だけど、それがすべてではない。一緒に句会をしている時間、あるいは、一人で苦労して作っている時間、つまり自然と共有している時間。その「共有している時間」こそが価値なんじゃないかと。そう感じます。
これは、仕事にも言えます。特に私たちの世代は、欧米型経営の影響を強く受けたので、数字至上、結果がすべて。でも最近「違うんじゃないかな」と思い始めました。
数字が達成できない。だからダメだと言うことは簡単です。でも、悩んで努力して、その結果だった。とすれば、どうしてそうなったのか、プロセスの方を考えることが大事なんじゃないか。現場を知らない人が、結果の数字だけを見て何か言うなんて、簡単なんです。
安全地帯にいれば、何とでも言える。でもそこではない、現場にいる人は違うんです。だからそこに降りていって、一緒に考える。そして時間を共有するのです。それが仕事だと思ったし、少なくとも自分はそうしたいと思いました。
仕事も、生活も、俳句も、すべて根底でつながっていくんですね。「生きる姿勢」に。
お話を終えて
インタビューの間、栄司さんは、くるくると思考を巡らせながら、どこからか次々とやってくるひらめきを、目を輝かせて話してくださいました。「俳句は生きる姿勢」。そこから始まった話は、俳句の枠を超えて、イノベーションに、ビジネスに、歴史に、生活にと達し、また俳句に立ち戻っていく。その循環に、俳句の底知れない奥深さを改めて実感させられました。
栄司さんの句は、時に雄大でダイナミック、時に繊細でロマンチック。格好よくて、美しい。濃密で、透明。その世界観が私は前からとても好きで、それが話を聞きたいと思ったもう一つの理由でした。
そして、このインタビューを通じて、それを生み出すのは、柔軟でオープンで前向き。感覚を信じ、とことん探求し、変化を拒まない。生きることに純粋。そんな姿勢なのだと感じました。
最後に、栄司さんのいくつかの作品の中に、改めて作者の「生きる姿勢」を受け取りながら、今回の旅を終えたいと思います。
灼熱のカクテルに稿進みけり 商売にならぬ話や藤寝椅子
掛け合うて光まみれの水遊び 海に揺れ揺られて海月透きとほる
流灯の川曲がるまで込み合へる 大いなる海の時間とゐる海鼠
北窓塞ぎ定年を迎へ撃つ 花の辺に命おきゆく冬の蜂
(上智句会集「すわえ」第15~18号より)
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