即身成仏抄

http://aoshiro634.blog.fc2.com/blog-entry-1392.html 【太田殿女房御返事(即身成仏抄)第五章 即身成仏の法は法華経のみと明かす】より

        太田殿女房御返事(即身成仏抄)

      第五章 即身成仏の法は法華経のみと明かす

本文(一〇〇七㌻一六行~一〇〇八㌻五行) 

 即身成仏の手本たる法華経をば指(さし)をいて・あとかたもなき真言に即身成仏を立て剰(あまつさ)え唯の一字を・をかるる条・天下第一の僻見(びゃっけん)なり此れ偏(ひとえ)に修羅根性の法門なり、天台智者大師の文句(もんぐ)の九に寿量品の心を釈して云く「仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず」とかかれて候、此れこそ即身成仏の明文(みょうもん)にては候へ、不空三蔵此の釈を消さんが為に事を竜樹に依せて「唯真言の法の中にのみ即身成仏するが故に是の三摩地(さんまじ)の法を説く諸教の中に於て闕(か)いて書(しる)せず」とかかれて候なり、されば此の論の次下(つぎしも)に即身成仏をかかれて候が・あへて即身成仏にはあらず生身得忍(しょうしんとくにん)に似て候、此の人は即身成仏は・めづらしき法門とはきかれて候へども即身成仏の義はあへて・うかが(窺)わぬ人人なり、いかにも候へば二乗成仏・久遠実成を説き給う経にあるべき事なり、天台大師の「於諸教中秘之不伝(おしょきょうちゅうひしふでん)」の釈は千且(せんしゃ)千且恐恐。

通解

 即身成仏の手本である法華経をさしおいて、その片鱗すら明かしていない真言に即身成仏を立て、そればかりか、「唯」(ただ真言に限る)の一字を置いたことは、天下第一の誤った考えです。これは、ひとえに修羅根性から出た法門なのです。

 天台大師の法華文句の九の巻に法華経寿量品の真意を釈して「仏は三世において等しく三身を具えているが、(法華経以外の)諸教には、これを隠して伝えていない」と書かれています。これこそ法華経に即身成仏が説かれているという明らかな文です。不空三蔵はこの釈を打ち消すために、竜樹にことよせて「唯真言の法の中にのみ即身成仏できるが故にこの三摩地の法を説いた。他の諸教の中には書かれていない」と記したのです。

 したがって、この論の次に即身成仏のことを書いていますが、まったく即身成仏ではなく、華厳経等の菩薩の「生身得忍」に似たものにすぎません。

 この人(不空菩薩)は、即身成仏が尊い法門であるとは聞いていましたが、即身成仏の実義はまったくうかがい知ることのない人だったのです。まことに、即身成仏は、二乗の成仏と仏の久遠実成を説かれている経(法華経)だけにあるべきことなのです。天台大師の「諸教の中には隠して伝えていない」との釈がありますが、(法華経の即身成仏は)栴檀の香りのように他に抜きん出た勝れた法門なのです。

語訳

天台智者大師

(五三八年~五九七年)。中国・南北朝から隋代にかけての人。天台宗開祖(慧文、慧思に次ぐ第三祖でもあり、竜樹を開祖とするときは第四祖)。天台山に住んだので天台大師といい、智者大師とも尊称される。姓は陳氏。諱(いみな)は智顗(ちぎ)。字(あざな)は徳安。荊(けい)州華容県(湖南省)の人。父の陳起祖は梁の高官であったが、梁末の戦乱で流浪の身となった。その後、両親を失い、十八歳の時、湘州果願寺の法緒(ほうしょ)について出家し、慧曠(えこう)律師から方等・律蔵を学び、大賢山に入って法華三部経を修学した。陳の天嘉元年(五六〇年)光州の大蘇山に南岳大師慧思(えし)を訪れた。南岳は初めて天台と会った時、「昔日(しゃくにち)、霊山(りょうぜん)に同じく法華を聴く。宿縁の追う所、今復(また)来る」(隋天台智者大師別伝)と、その邂逅(かいこう)を喜んだ。南岳は天台に普賢道場を示し、四安楽行を説いた。大蘇山での厳しい修行の末、法華経薬王菩薩本事品第二十三の「其中諸仏(ごちゅうしょぶつ)、同時讃言(どうじさんごん)、善哉善哉(ぜんざいぜんざい)。善男子(ぜんなんし)。是真精進(ぜしんしょうじん)。是名真法供養如来(ぜみょうしんほうくようにょらい)」(『妙法蓮華経並開結』五八五㌻ 創価学会刊)の句に至って身心豁然(しんじんかつねん)、寂として定に入り、法華三昧を感得したといわれる。これを大蘇開悟(だいそかいご)といい、後に薬王菩薩の後身と称される所以となった。南岳から付属を受け「最後断種の人となるなかれ」との忠告を得て大蘇山を下り、三十二歳(あるいは三十一歳)の時、陳都金陵の瓦官寺に住んで法華経を講説した。宣帝の勅を受け、役人や大衆の前で八年間、法華経、大智度論、次第禅門を講じ名声を得たが、開悟する者が年々減少するのを嘆いて天台山に隠遁を決意した。太建七年(五七五年)天台山(浙江省)に入り、翌年仏隴峰(ぶつろうほう)に修禅寺を創建し、華頂峰で頭陀を行じた。至徳三年(五八五年)に陳主の再三の要請で金陵の光宅寺に入り仁王経等を講じ、禎明元年(五八七年)法華文句を講説した。開皇十一年(五九一年)隋の晋王であった楊広(のちの煬帝)に菩薩戒を授け、智者大師の号を受けた。その後、故郷の荊州に帰り、玉泉寺で法華玄義、摩訶止観を講じたが、間もなく晋王広の請いで揚州に下り、ついで天台山に再入し六十歳で没した。彼の講説は弟子の章安灌頂(かんじょう)によって筆記され、法華三大部などにまとめられた。

生身得忍(しょうしんとくにん)

 華厳経などに説かれる、現実の身のままで無生法忍(むしょうほうにん)という悟りの極果を得ること。生身とは父母から生じた肉体を指し、忍とは忍可・認知の意。無生法忍とは三法忍の第三で、一切のものが不生不滅であると悟ること、すなわち涅槃の法理に安住し心が動じない位のこと。

千且(せんしゃ)千且

 御真筆には「千旦千旦」と記されている。千旦(せんたん)は栴檀のことで、栴檀は種々の悪臭を除き去るといわれる。ここでは真言の邪義を悪臭にたとえ、栴檀が悪臭を除き去るのと同じく、法華経が真言の邪義を破折し、唯一の成仏の教えであることを現す意で仰せられたと考えられる。

講義

 真言法の中にのみ即身成仏が説かれているとする不空の邪説を破折し、法華経のみに即身成仏の実義があることを明かされている。

 経文の根拠もなしに即身成仏を立て、しかも唯真言に限るとした不空の説は、即身成仏の法である法華経を否定したもので、天下第一の僻見(びゃっけん)であり、誤りであると指摘され、これは修羅根性の法門である、とされている。

 修羅根性とは、猜疑(さいぎ)の心や嫉妬(しっと)の心が強く、常に他に勝ることを望み、他と争うことを好む心をいい、不空が即身成仏を説いた法華経を差し置いて、真言のみが即身成仏の法であるとした根底にあるのは、嫉妬と勝他の念以外の何ものでもない、と指摘されたのである。

 そして、天台大師の法華文句巻九に、寿量品の如来秘密の句を釈して、「仏三世に於いて等しく三身有り諸教の中に於いて之を秘して伝えず」と述べている文を引かれている。仏は過去・現在・未来の三世にわたって、常に報身・法身・応身の三身を具えているが、法華経以外の諸教には、これを秘して説いていない、との意である。

 法身・報身・応身の三身は爾前の諸経にも説かれているが、この三身を一身に具えた仏が久遠常住であることを明かされたのは法華経のみである。しかし、法華経でも迹門における釈尊は、三身を具えているといっても始成正覚の仏なので三世常住の仏ではない。如来寿量品第十六で久遠実成が明かされ、久遠の昔から三世にわたって三身を具足する仏の本地が明かされたのである。

 三世常住に三身を具えた仏こそ真の仏なので、この文句の文こそ、真の即身成仏を明かした明文である、とされているのである。

 不空は、この天台の文が念頭にあり、これに対抗するために、竜樹の著作にかこつけて、唯、真言の法の中だけに即身成仏ができるから、三昧の行法を説いているので、その他の諸経にはまったく即身成仏の義は欠けていて説かれていない、と書いたのである、と指摘されている。不空は、真言の諸経には即身成仏の明文がないため、竜樹の著作という権威を借りて、真言にのみ即身成仏の法が説かれているという偽りの文言を作り、人をたぶらかしたのである。

 さらに、菩提心論のその後の部分で即身成仏について述べているが、それは真の即身成仏ではなく、せいぜい華厳経などの菩薩の生身得忍に近いものにすぎない、と指摘されている。生身得忍とは、現実のこの身(生身)のままで無生法忍といって一切の諸法は不生不滅であるという真理を悟って心が安住する位をいい、不退の位に入った華厳経の菩薩の境地をいう。しかし、生身得忍に似ているとされているのは、生身得忍ですらないということにもなり、即身成仏どころか菩薩の悟りを得られるにすぎないことを示しているのである。

 なお、菩提心論の即身成仏の文とは「今、真言の行人(ぎょうにん)、既に人法の二執を破り、能(よ)く真実を正見する智と雖(いえど)も、或は無始の間隔(けんきゃく)を為し、未だ能く如来の一切智智に於いて証せず、妙道を欲求し、次第に修持(しゅじ)し、凡より仏位に入るは、即この三摩地の者で、能く諸仏の自性(じしょう)に達し、諸仏の法身を悟り、法界体性(たいしょう)の智を証し、大毘廬遮那仏と成る」とある文と思われる。

 そして、不空は即身成仏は珍しく尊い法門であるとは学んでいたようだが、即身成仏の実義は究めていなかった人であり、その理由は、即身成仏の実義は二乗作仏・久遠実成を説かれた法華経に限られるからである、と破折されている。

 そして、前に挙げられた「諸教の中に於いて之を秘して伝えず」との天台大師の法華文句の釈こそ、香り高く尊いものである、とされているのである。

 なお、妙一女御返事には、弘法大師が即身成仏はただ真言に限る文証として引いた経文を挙げ、「此等の経文は大日経金剛頂経の文なり、然(しか)りと雖(いえど)も経文は或(あるい)は大日如来の成正覚(じょうしょうかく)の文・或は真言の行者の現身(げんしん)に五通を得るの文・或は十回向(じゅうえこう)の菩薩の現身に歓喜地(かんぎじ)を証得する文にして猶(なお)生身得忍に非ず何(いか)に況(いわん)や即身成仏をや、但し菩提心論は一には経に非ず論を本とせば背上向下(はいじょうこうげ)の科(とが)・依法不依人の仏説に相違す」(一二五六㌻)と述べられている。

 また「いかにも純円一実の経にあらずば即身成仏は・あるまじき道理あり、大日経・金剛頂経等の真言経には其の人なし・又経文を見るに兼(けん)・但(たん)・対(たい)・帯(たい)の旨分明(ふんみょう)なり、二乗成仏なし久遠実成あとをけづる」(一二五七㌻)とも述べられている。

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