https://www.city.ichinoseki.iwate.jp/index.cfm/6,1623,75,html 【室根地域の偉人・先人たち】より
真山 梧洞 (まやま ごどう) (1854年~1927年)
江戸時代の終わり頃、東山下折壁村(現室根町折壁)に生まれました。真山家は代々仙台藩に仕えていましたが、元禄年間に事情があって、中新田(現宮城県加美町)から、領地が替えられ折壁の領主となり、この地を治めました。
梧洞は、真山家9代、図書徳輔の弟にあたります。兄徳輔は真山家最後の領主で、馬術に優れ、青山と呼び名のある南画家でもありました。梧洞は若い頃、水戸の師範学校で学びましたが、兄の影響もあってか、その頃から南画に興味を持ち学び始め、更に東京に出て南画の勉強に励み、南画家として生涯精魂を傾けました。名は栄三郎、雅号は柳湖(りゅうこ)または梧洞と称しました。
昆野 八郎右衛門 (こんの はちろうえもん) (生没年不詳)
江戸時代前期、長坂村(現東山町)の肝入りの子として生まれました。15歳の時、釘子村肝入り昆野茂左衛門の養子となり、28歳の時、徳田村(現藤沢町)の星惣五郎の娘と結婚しました。38歳の時に養父が病死したので、肝入役を命じられました。この頃、3、4年間凶作が続き、農民は大変苦しんでいましたが、それにもかかわらず税を重くされました。八郎右衛門は、農民の苦しみを見かね、度々税を軽くするよう願い上げましたが、聞き入れてもらえず、農民の中には餓死する人も出ました。仙台藩主の東照宮参拝の折り、かねて用意しておいた1通の訴状を差し出しました。八郎右衛門はその場で捕らえられ、七北田の仕置場で処刑されましたが、この直訴により、この地は穀納から金納に改められ税金も軽くなりました。
相沢 暁村 (あいざわ ぎょうそん) (1880年~1968年)
本業は医者で、刀剣や鐔(つば)の研究でも有名な人です。明治、大正、昭和の3代に渡って、岩手県内をはじめ、全国の俳壇にも名を知られた俳人です。本名は寧(やすし)といい、明治13年(1880年)に室根村折壁字屋中に生まれました。折壁小学校を卒業し、仙台の日進学舎で学び、その後仙台医専(現東北大医学部)に進学しました。医専在学中、奥羽百文会に入会、そこで俳句を学び、卒業後、郷里に帰り医院を開業、明治39年(1906年)に青森県法奥沢村村医として赴任しました。そこで、俳誌「高潮」の刊行を続け、「白雨会」を結成し句作に励みました。明治42年(1909年)には、浄法寺村村医となり、文芸誌「曠野」を創刊し、岩手文壇の主流となり、中央文壇とのパイプ役を務めました。明治43年(1910年)には、暁村主宰の排誌「銀河」を創刊し、翌年郷里に帰ってからも刊行を続けました。
菅野 真澄 (かんの ますみ) (1882年~1907年)
明治の末、大志を立てて、単身上京、国文学者佐々木信綱の書生となり、和歌の添作をしながら国文学の研究を行いました。後に才能を認められ、宮内省図書寮に出仕しながら、国学を研究、日本歌学史など多くの遺稿を残しましたが、激烈な勉学のため健康を害し肺患となり、在京僅か5年、26歳、道半ばにしてこの世を去りました。日本美術、心の花、思想天使、歴史地理などに短歌や論文を投稿、明治40年(1907年)には、日本歌学史、新葉和歌集評釈、日本初階の美術、鎌倉右大臣家集評釈の原稿が完成し、その才能が社会に認められかけたその矢先、くしくも異郷の地で、恩師、門弟の悲涙に見送られながらその短い生涯を終えました。
https://www.tokino-taiko.com/%E6%AD%B4%E5%8F%B2 【時の太鼓と田村藩(一関藩)の歴史】より
なぜ田村藩(一関藩)という小藩に時の太鼓の使用が認められたのか?それは、主に二つの要因があると考えられている
・田村建顕公が幕府からの厚い信頼を得たこと
・武家社会における田村氏の格の高さ
この二点について詳しく紐解いていく
田村建顕公の来歴
田村建顕(1656~1708年)
1656年、田村宗良の次男として誕生。幼名は千勝。父・宗良は仙台藩 の支藩である岩沼藩3万石の当主。1664年に元服して宗永と名乗り、同年、4代将軍徳川家綱に御目見。
1670年 従五位下・右京大夫叙任。
1678年 父の死去により家督を相続。 1681年 岩沼から一関に移封。 宗永は学問に秀でていたため、5代将軍徳川綱吉に重用され、1691年 奥詰衆に取り立てられて譜代格となる
1692年に奏者番を拝命。 同年大晦日、建顕に改名。
1693年には城主格となる。1708年に死去。享年53歳。
外様大名から譜代格奏者番へ異例の出世
田村右京大夫建顕(たむらうきょうだゆうたてあき)は、奥州一ノ関藩三万石 初代藩主。
田村家は、坂上田村麻呂の末裔の名門として奥州に豪族として存在し、戦国の動乱期に、伊達家に取り込まれてしまう。
建顕の父の代に、岩沼三万石を分知され、建顕の時に一ノ関に転封となる。
仙台藩の支藩であり当然外様大名の部類に入るが、建顕は学問が秀で和歌も嗜むなど、相当優秀な藩主だったとされる。
そんなこともあり、学問大好きの5代将軍綱吉に重用され異例の譜代格となり奏者番を拝命される。
もしかしたら、能好きでもある綱吉のこと、能に「田村」という坂上田村麿が主人公の演目があるが、田村右京大夫はその末裔であり名家だったということも、出世の要因の一つだったのかもしれない
田村建顕公の幕府における功績
田村建顕公は学問に秀でており、藩士には学問を奨励し、和歌にも堪能。
5代将軍徳川綱吉の時代に幕府から重用され、1691年には奥詰衆に取り立てられて譜代格となり、1692年に奏者番を拝命し長らく務めた。
奏者番として、歴史的に有名な事件にも関わる。 忠臣蔵で有名な赤穂事件の際、刃傷沙汰を起こした浅野長矩の身柄を幕 府の指示のもと預かり、江戸の一関藩邸において切腹を執行。
出典:Tokyo Museum Collection
田村家の武家としての格の高さ
田村氏は、坂上田村麻呂の末裔ともいわれ、 陸奥国の田村郡を支配していた(三春田村家)。
伊達政宗に娘を嫁がせ(正妻の愛姫)、伊達家庇護を受けていたが豊臣 秀吉の奥州仕置により改易された。
後に仙台藩伊達家の内分分家大名として 再興され、明治以降は子爵となり華族に列せられた。
伊達藩の支藩とはいえ、坂上田村麻呂を始祖とする田村氏は武家に とっては由緒ある家柄だった。
田村藩と伊達藩
譜代大名格の田村家
田村家から嫁入りした伊達政宗の正妻愛姫の遺言により、伊達家2代当主伊達忠宗の三男が田村宗良を名乗り再興された近世田村家。
伊達 62万石から3万石の領地を分与された内分分家大名であったが、幕府 に対して直接公役を果たす譜代大名格とされ、参勤交代等の義務もあり、常に藩の財政は苦しかった。
田村家は多くの当主が幕府の勅使饗応役を勤め、評価された。
特に7 代当主田村邦顕は文政11年(1828年)、わずか14歳で饗応役をやり遂げ、公家の広橋胤定から絶賛された。
しかし石高は本藩(伊達藩)から分知された支藩ではあったが、お互いの子息に継承させるなどの、相互に頼りあう深い関係にあった。
一関藩と蘭学
一関藩は蘭学において優れた人材を数多く輩出した。
2代目建部清庵を始めとして、大槻玄沢、佐々木中沢らがおり、東北で初めての人体解剖は一関藩医・菊池崇徳らによって行われた。
また藩政後期においては関流和算が浸透し、読み書き算盤が武士だけ ではなく農民の間にも普及した。
これは和算家千葉胤秀が一関の中農 出身であり、算術師範となって農民に和算を普及させたためである。
財政難の中で文化が発達した理由として、初代から学を好む藩主が続いたことと、小藩であるがゆえに学者、医者の影響力がより大きかっ たことが挙げられる。
一関藩と大槻三賢人
一関藩氏大槻家の玄沢、磐渓、文彦はの江戸から明治にかけて大きな 功績を残し、大槻三賢人と称えられる。
大槻玄沢(1757~1827)
一関藩医玄梁の長男。建部清庵の門弟となり、その後、 杉田玄白に蘭方医学を、前野良沢にオランダ語を学び、26歳で蘭学の入門書「蘭 学階梯」を著す。後に長崎でオランダ語を研究し、わが国初の蘭学塾「芝蘭堂」 を開く。「解体新書」の改訳、「重訂解体新書」の完成など医学の進歩に貢献。
大槻磐渓(1801~1878)
大槻玄沢の二男で、早くから開国を唱えた和魂洋才の 儒学者。仙台藩の藩校・養賢堂の学頭に任じられ、戊辰戦争時には藩政を左右す る思想的影響力を持ったが戦争後は戦争責任を問われ投獄された(後に赦免)。
大槻文彦(1847~1928)
大槻磐渓の三男として江戸で生まれる。明治8年、 29歳の若さで文部省から辞書の編さんを命じられ、16年の歳月をかけて、わが 国最初の辞書「言海」を完成させた。「言海」は、大正末期までに400版余りを 重ねており、日本辞書史上不朽の名著として名を残している。昭和になってから は「大言海」に再編された。
https://4travel.jp/travelogue/11052453 【一関旅行記】より
一関八幡神社(いちのせきはちまんじんじゃ、岩手県一関市字釣山)は旧名館山と称した釣山に戦陣を構えた征夷大将軍坂上田村麻呂や源頼義・義家親子がそれぞれ大勝祈願をした由緒ある神社として知られています。
<br /><br />中世では坂上田村麻呂の後裔と称する三春城主田村清顕(たむら・きよあき、生誕不詳~1586)が四方から攻撃を受け所領安泰を図るべく、一人娘の愛(めが)姫を伊達政宗の正室として送り伊達家の後ろ盾を得ますが秀吉による奥州仕置きにより改易となります。<br /><br />
愛姫は息子である二代藩主忠宗(ただむね、1600~1658)に実家田村家の再興を遺し86歳で亡くなりますが、忠宗はその遺言に従い田村家を再興させ三男を田村宗良(たむら・むねよし、1637~1678)とし、3万石を以て岩沼藩を分地し伊達家の分家大名として遇します。
<br /><br />延宝6年(1678)父宗良の死去によって家督を相続した建顕(たつあき、1656~1708)は3年後の延宝9年(1681)には岩沼から一関に転封、釣山麓に陣屋を構え明治維新に至るまで一関支配を続けます。
<br /><br /><br />一関八幡神社ホームページにある由緒によれば次の記載があります。
<br /><br />「一関八幡神社 相殿 田村神社 由緒<br /><br />
当神社は延暦年間(782~806)坂上田村麻呂が東夷平定の際館山(元釣山公園)に陣営を敷き、諏訪の大神(長野諏訪神社)に勝利を祈願したのが紀元とされ、その後、康平四年(1061)源頼義、源頼家が安倍貞任征伐【前九年の役】の折り、田村麻呂と同じく館山に陣を敷いた際、合戦の祈願のため伊勢の神官、京都の石清水八幡宮へ、中原大夫清房を奉幣使として使わせたところ両宮の大御神のご神託を賜り、この地域の八方に八幡宮を勧請した内のその第一社です。天正二年(1574)相殿に八雲神社、文禄(1593)諏訪神社を再奉し寛文二年(1662)藩主伊達宗勝により現在の地へ遷座され以来現在の地に奉斎されています。
<br /><br />元禄七年(1694)初代田村藩主、田村建顕は一関に赴任した際、この地に坂上田村麻呂を慕う人々が多いことから伊勢へ伊藤惣助を代拝参宮へ使わした折、土山(滋賀県甲賀市)に鎮座する田村社の御分霊を田村神社として当社の相殿へ併せ祀り以来藩主田村氏の崇敬神社また一関(現市街地)の総鎮守としてお祀りされています。また現在千畳敷(釣山公園)へ鎮座している田村神社は、大正時代に田村家江戸屋敷邸内へ祀られていた御社を遷座したものです。明治四年郷社、明治八年村社、昭和五年再び郷社に列します。
<br /><br />昭和四六年十二月、社殿が全焼し貴重な文化財(田村建顕公、射的奉納弓矢、算額等)を焼失してしまいましたが、当寺オイルショックの不況下、氏子崇敬者の篤い奉賛により昭和四八年現在の御社殿が再建されました。」<br /><br />
陸中一関 坂上田村麻呂の後裔と称する田村氏は秀吉による改易後伊達藩の分家岩沼藩を復興し転封先の一関に田村社御分霊を勧請した『八幡神社』散歩
一関八幡神社(いちのせきはちまんじんじゃ、岩手県一関市字釣山)は旧名館山と称した釣山に戦陣を構えた征夷大将軍坂上田村麻呂や源頼義・義家親子がそれぞれ大勝祈願をした由緒ある神社として知られています。
中世では坂上田村麻呂の後裔と称する三春城主田村清顕(たむら・きよあき、生誕不詳~1586)が四方から攻撃を受け所領安泰を図るべく、一人娘の愛(めが)姫を伊達政宗の正室として送り伊達家の後ろ盾を得ますが秀吉による奥州仕置きにより改易となります。
愛姫は息子である二代藩主忠宗(ただむね、1600~1658)に実家田村家の再興を遺し86歳で亡くなりますが、忠宗はその遺言に従い田村家を再興させ三男を田村宗良(たむら・むねよし、1637~1678)とし、3万石を以て岩沼藩を分地し伊達家の分家大名として遇します。
延宝6年(1678)父宗良の死去によって家督を相続した建顕(たつあき、1656~1708)は3年後の延宝9年(1681)には岩沼から一関に転封、釣山麓に陣屋を構え明治維新に至るまで一関支配を続けます。
一関八幡神社ホームページにある由緒によれば次の記載があります。
「一関八幡神社 相殿 田村神社 由緒
当神社は延暦年間(782~806)坂上田村麻呂が東夷平定の際館山(元釣山公園)に陣営を敷き、諏訪の大神(長野諏訪神社)に勝利を祈願したのが紀元とされ、その後、康平四年(1061)源頼義、源頼家が安倍貞任征伐【前九年の役】の折り、田村麻呂と同じく館山に陣を敷いた際、合戦の祈願のため伊勢の神官、京都の石清水八幡宮へ、中原大夫清房を奉幣使として使わせたところ両宮の大御神のご神託を賜り、この地域の八方に八幡宮を勧請した内のその第一社です。天正二年(1574)相殿に八雲神社、文禄(1593)諏訪神社を再奉し寛文二年(1662)藩主伊達宗勝により現在の地へ遷座され以来現在の地に奉斎されています。
元禄七年(1694)初代田村藩主、田村建顕は一関に赴任した際、この地に坂上田村麻呂を慕う人々が多いことから伊勢へ伊藤惣助を代拝参宮へ使わした折、土山(滋賀県甲賀市)に鎮座する田村社の御分霊を田村神社として当社の相殿へ併せ祀り以来藩主田村氏の崇敬神社また一関(現市街地)の総鎮守としてお祀りされています。また現在千畳敷(釣山公園)へ鎮座している田村神社は、大正時代に田村家江戸屋敷邸内へ祀られていた御社を遷座したものです。明治四年郷社、明治八年村社、昭和五年再び郷社に列します。
昭和四六年十二月、社殿が全焼し貴重な文化財(田村建顕公、射的奉納弓矢、算額等)を焼失してしまいましたが、当寺オイルショックの不況下、氏子崇敬者の篤い奉賛により昭和四八年現在の御社殿が再建されました。」
(略)
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