https://amanokakeru.hatenablog.jp/entry/20170817 【俳句と短歌の交響(1/12)】より
正岡子規(webから)
まえがき和歌や短歌の詞書が果たす役割について関心を持ったのがきっかけで、その変遷を調べたことがある。簡単に言えば、和歌の時代には、歌を詠む背景が詞書になった。ところが現代になって、詞書と短歌が響き合い、詩として一体化する流れが出て来た。その良い例が、短歌の詞書きに俳句をおくという形態である。
本論では、一体化の可能性をさぐる観点から、特に俳句と短歌のそれぞれの役割とコラボレーション、交響について具体的に検証したい。そのため、俳句と短歌あるいは詩といった複数の分野で作品を残した文人たちを取りあげる。
本歌取りにせよ詞書にせよ、両者を並べて鑑賞する際には、交響の具合を、省略・充実・転調・対比・反転・展開といった観点から吟味することが肝要である。作者の意図とは異なる解釈が出て来ても、交響をたのしめればそれで目的は達せられる。
改作について
初めに、作家自身の作品について、俳句から短歌へ、逆に短歌から俳句へ 改作した場合をとりあげる。もちろん、改作ではなく、同時に作ってみた例もあるはずである。句集と歌集に分けて別個に編集されると分らなくなるが、創作の実態として改作はあり得る。この場合、両者を敢て並べて見ることで、それぞれの役割・特徴を明らかにできる。
分りやすい例として、正岡子規の俳句と短歌はどのような関係にあったかを見てみたい。歌集と句集を調べて、同時期に作られた同じ事象を詠んだ作品を見比べてみる。
明治二十六年の作として。最上川を舟で下る時
草枕旅路かさねてもがみ河行くへもしらず秋立ちにけり
旅人や秋立つ船の最上川
明治三十年の作として。愚庵和尚から柿十五個もらった時。
御仏にそなへし柿ののこれるをわれにぞたびし十まりいつつ
御佛に供へあまりの柿十五
明治三十一年の作として。病中、鏡に対した時。
昔見し面影もあらず衰へて鏡の人のほろほろと泣く
写し見る鏡中の人吾寒し
いずれの場合も、短歌が俳句の内容をカバーしているので、交響という関係にはない。短歌では抒情性が、俳句では核心描写が、それぞれ際立っていることがよく分かる。
https://amanokakeru.hatenablog.jp/entry/20170818 【俳句と短歌の交響(2/12)】より
白秋の小田原山荘(webから)
北原白秋が句作に興味を持ち始めたのは、小田原山荘時代・大正十年の夏であった。短歌の俳句化を試みた。
日の盛り細くするどき萱の秀(ほ)の蜻蛉とまらむとして
翅(はね)かがやかす
萱の秀に蜻蛉とまらむとする輝きなる
歌の方は、芭蕉の句「蜻蛉やとりつきかねし草の上」を本歌としてできたものだが、白秋自身でも句を作ってみたのである。白秋の句は、切れがなくたどたどしい。「萱の秀に蜻蛉とまらむとして輝けり」と添削したくなる。
紫蘭咲いていささか紅き石の隈(くま)目に見えて涼し夏さりにけり
紫蘭咲いていささかは岩もあはれなり
俳句の方は「岩もあはれなり」に特徴がある。ただ、この表現からは、短歌の下句の情感は出てこない。
おのづから水のながれの寒竹の下ゆくときは聲たつるなり
寒竹の下ゆく水となりにけり
短歌の結句の擬人法が俳句では入っていないが、同等の情緒は感じられる。
冬の光しんかんたるに眞竹原閻魔大王の咳(しはぶき)のこゑ
澄みとほる青(あを)の眞竹に尾の触れて一聲啼くか藪原雉子(きぎす)
一聲は閻魔が咳か寒の雉子
短歌二首の内容を合せた形で俳句が作られているものの「眞竹」は入っていない。しかし独立した俳句としてなかなか面白い。
瓦斯の燈(ひ)に吹雪かがやくひとところ夜目(よめ)には見えて街遙かなる
瓦斯燈に吹雪かがやく街を見たり
短歌では、字数が多い分、作者の立ち位置がよくわかる。それを俳句では結句で表現した。これは成功している。
このように白秋は習作期を経て独自の定型句を作るに至る。いちいちは挙げないが口語俳句も作った。大正十三年四月以降は、自由律俳句を試みた。白秋の俳句に関わる活動は、昭和二年二月をもって終ったとされる。俳句に白秋独自の文学を打ちだそうという意欲はなかったようだ。
https://amanokakeru.hatenablog.jp/entry/20170819 【俳句と短歌の交響(3/12)】より
歌集『田園に死す』(ハルキ文庫)
寺山修司の場合、自作俳句から短歌に改作した例として、高校時代の俳句と歌集『田園に死す』の歌との関係を見てみよう。
旅の鶴鏡台売れば空のこる
売郷奴いぼとり地獄横抱きに
売りにゆく柱時計がふいに鳴る横抱きにして枯野ゆくとき
青麦を大いなる歩で測りつつ他人の故郷売る男あり
いずれも短歌の方が具体的で深みが増している。俳句の方は詰め込み過ぎ。
心臓の汽笛まつすぐ北望し
鉛筆で指す海青し卒業歌
吸いさしの煙草で北を指すときの北暗ければ望郷ならず
二句の俳句から言葉の意味を抽出し短歌一首にまとめたもの。短歌が優れているので俳句は不要になる。
かくれんぼ三つかぞえて冬となる
かくれんぼの鬼とかれざるまま老いて誰をさがしにくる村祭
短歌は、俳句の内容を物語として抒情ゆたかに展開した形。
車輪繕う地のたんぽぽに頬つけて
村境の春や錆びたる捨て車輪ふるさとまとめて花いちもんめ
短歌の内容の後に俳句の内容がくる形だが、両者合せて一つの物語になるので、並べて示すことは有意義。
以上三人の文人の例から短歌と俳句の性格の違いがよく分かる。
https://amanokakeru.hatenablog.jp/entry/20170820 【俳句と短歌の交響(4/12)
山口誓子】より
本歌取り
山口誓子は、先人の研究成果を踏まえて丹念に芭蕉の俳句の本歌を調べている。源氏物語や古今和歌集との関係を詳しく説明している。西行との関係では、『山家集』と『芭蕉句集』とを読み比べている。西行歌を本歌取りした芭蕉句の例として、
年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけりさ夜の中山
西行
命なりわづかの笠の下涼ミ 芭蕉
すたか渡るいらごが崎をうたがひてなほきにかくる山帰りかな
西行
鷹一つ見付てうれしいらご崎 芭蕉
山ざとに誰を又こはよぶこ鳥ひとりのみこそ住まむと思ふに
西行
うき我をさびしがらせよかんこどり 芭蕉
くもりなきかがみの上にゐる塵を目にたててみる世と思はばや
西行
しら菊の目にたてて見る塵もなし 芭蕉
などを挙げている。
山口誓子は、西行の寂が芭蕉にどう受け継がれたかを検討した結果、西行には「寂」のみがあったのに、芭蕉には「寂」に「静」が加わり、「寂静」となった、という。西行の口ぶりをまねたと思われる芭蕉の句調に、「いざ落花」「いざともに」「いざさらば」「いざ行かむ」「いざ出む」「いでや」 など多数ある。
https://amanokakeru.hatenablog.jp/entry/20170821 【俳句と短歌の交響(5/12)】より
斎藤茂吉
斎藤茂吉は、芭蕉からも多くを学んだ。山口誓子の分析によると、芭蕉の影響を受けた茂吉は、芭蕉の「寂静」を受け継いだ。「寂」を、或る時は「さびし」と読み、或る時は「しづか」と読んだ。芭蕉句を本歌にしたと思われる短歌を、次にとりあげよう。
馬をさへながむる雪の朝哉 芭蕉
しんしんと雪ふるなかにたたずめる馬の眼はまたたきにけり
茂吉
雪と馬が共通の事物だが、芭蕉句は雪の朝に、茂吉歌では馬の眼に、それぞれ焦点が当たっている。
昼見れば首筋赤きほたる哉 芭蕉
蚕の部屋に放ちし蛍あかねさす昼なりしかば首すぢあかし
茂吉
歌では、上句で情景が追加されているだけで、焦点は句と同じ。
病雁の夜さむに落て旅ねかな 芭蕉
よひよひの露ひえまさるこの原に病雁おちてしばしだにゐよ
茂吉
本歌取りに関して、太田水穂との論争になった有名歌である。芭蕉句とは別に、楊誠斎の漢詩に倣ったという説もある。塚本邦雄は、この論争には加担せず、句と歌に使われている「落ちて」を問題視した。「病雁」が「落ちて」となると、死を連想し、旅寝では済まなくなる、というのだ。其角編「枯尾華」にあるように「おりて」がよい、とする。
きりぎりす忘音に啼く火燵哉 芭蕉
きりぎりす夜寒に秋のなるままによわるか声の遠ざかり行く
茂吉
芭蕉句には俳諧味があるが、茂吉歌では、その味の中心である炬燵を除いて情景を詳細に詠って、寂しさ・はかなさを強調した。
衰や歯に喰あてし海苔の砂 芭蕉
海のべの唐津のやどりしばしばも噛みあつる飯の砂のかなしさ
茂吉
句では、「衰や」とした嘆きを、歌では、結句で「かなしさ」と直に情感を表現した。また場所を特定した。
なお、茂吉の有名歌
あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり
茂吉
は、西行の歌
としたけてまた越ゆべしとおもひきや命なりけりさ夜の中山
西行
と、芭蕉句
此の道や行く人なしに秋の暮 芭蕉
とを引き継いだものと理解されている。
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