金子兜太小論

https://ameblo.jp/minamiyoko3734/entry-12868553347.html  【 ① 金子兜太の俳句(その一~その十五)】

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Facebook俳句大学 俳句学部投稿記事 2014年7月8日 ·  金子兜太小論   —戦後俳句の現象学的展開—

                        五島高資

 昭和三十一年、金子兜太は俳句創作理念としていわゆる「造型」の詩法を提唱し、実作面でも現代俳句協会賞を受賞している。弱冠三十七歳、日本銀行神戸支店在任中のことである。翌三十二年には、朝日新聞阪神版俳句欄の選者に就任する。まさに「社会性俳句」あるいは「前衛俳句」の旗手として他の追随を許さない旺盛なる創作活動が展開された時期である。

 昭和三十三年、兜太は日本銀行長崎支店へ転勤となる。ちょうどこの年、長崎にて〈彎曲し火傷し爆心地のマラソン〉の句が詠まれることになる。実はこのあたりに兜太の作風における一つの大きな転換点があったと私は見ている。

 「四十歳の声を聞く前後から体調が変化しやすくなり、体力の低下を感じはじめた。(中略)作品もだんだん脂気が抜けて、漂白されてゆくように思えた。それがはじめは不安だった」(『蜿蜿』後記)と、兜太は独白している。しかし、この肉体の衰えを自然の摂理と諒解し、むしろ、逸る精神をこそ肉体に順応させることによって兜太は「自然(じねん)」という生き方を見据えるようになる。ここで〈湾曲し〉の句に立ち帰れば、まだ被爆の傷痕の残る長崎という都市の悲痛を火傷の疼痛という体感的共有感覚を以て自然に受け止めているのである。逸る心を抑えて自らのペースを保ちながら忍耐強く駆け抜けるマラソンランナーの姿に兜太は自らの在り方を重ね合わせていたのかもしれない。それは、数年前に詠まれた〈原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ〉などには見られない詩境の大きな展開と言って良いだろう。

 昭和三十四年、兜太は長崎で四十歳を迎えることになる。この頃、兜太は、野母半島、雲仙、唐津、五島、阿蘇、平戸、天草など、土俗的風土が色濃く残る九州の土地土地を巡り歩いている。実はこの異郷遊歴において兜太が確認したのは、自らの詩境を裏打ちすべき体感的共有感覚が肉体と時空を貫いて「風土」に溯るということだったのではないかと思うのである。

 昭和三十五年、兜太は東京へ戻ることになるが、そこにおける「風土」の崩壊に兜太は改めて愕然とする。まさにわずかに土が残る自宅の〈果樹園がシャツ一枚の俺の孤島〉と感じられたのである。そして、ますます「風土」への憧憬は強まっていくことになる。

  白い影はるばる田をゆく消えぬために  兜太

  朝はじまる海へ突込む鴎の死      兜太

  銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく   兜太

 昭和三十六年『俳句』に掲載された「造型俳句六章」における「造型」の方法であった。そのなかで、兜太は、花鳥諷詠や山口誓子の写生構成を諷詠的傾向、中村草田男らの人間探求を象徴的傾向、富沢赤黄男らに見られる現実を主体の内に求める傾向を主体的傾向と分類している。そして、諷詠的傾向ではあくまで対象物を自らの外に置くことによりその在り様を描写するという主客二元論的な観念に捕らわれ易く、また象徴的傾向と主体的傾向では主体へ執着することにより芸術的真理からかえって遠ざかってしまう傾向を指摘している。つまり、それらはみな、私があって、その周りに世界もまた無条件に存在しているという安易な主客二元論に陥っているというのである。

 昭和三十七年、現代俳句協会分裂の翌年、金子兜太は「海程」を創刊した。戦後十数年経って早くも俳壇において守旧ムードや伝統回帰が漂いはじめていたことに対する危機感が「海程」といういわゆる前衛派の砦を築かせる原動力となったらしい。

 兜太は俳句の本質を五七調の最短定型と捉え、当時、主流を占めていた花鳥諷詠において俳句に不可欠と考えられてきた季語や厳密な五七五三句体に捕われない本来の俳句の在り方を本格的に追求することになる。そのことは、花鳥諷詠がややもすると瑣末写生に陥っていたこれまでの俳句の在り方を徹底的に問いただし、且つ新しい現代俳句の開拓に着手するという戦後俳句における壮大な実験でもあった。もちろん、それ以前に荻原井泉水らによる新傾向俳句の音律論的理論付けが行われたりもしたが、俳句と自我の関わりという根本的な問題に立ちかえっての俳句革新は、金子兜太の出現を待たなくてはならなかった。

 そこで造型の方法においては、主客の間に「創る自分」と兜太が呼ぶ新しい自我が導入されることにより、主客という二項対立的観念を超えて芸術的真理としての「物自体」に迫ろうと試みる。そのためには外在する物象について一旦それらを括弧の内に入れて判断を保留するという現象学的エポケーが必要であり、そこから新しい物象世界が再定立されなくてはならない。しかし、エポケーされた「物自体」としての世界は「原初的世界」であるが故に、そこから再構築される世界はややもすると独り善がりになりがちである。

  粉屋が哭く山を駈けおりてきた俺に  兜太

 この句が作られた当時、小西甚一は、「わからなさ」にもいろいろあって、右の句は、良い句にならない種類の「わからなさ」であり、そのわからない理由は、現代詩における「独り合点」の技法が俳句に持ち込まれたからだと批評した。つまり小西の批判はまさに〈粉屋が哭く〉の句における自我中心的一面に向けられていた。一方、原子公平は、〈粉屋が哭く〉の句の魅力は異質な運動感覚の同化作用にあるとし、他者にも共有可能な詩的感覚の存在を認めている。つまり、小西説における自我とは個別的自我であり、それはあくまで小西氏という個別的自我から見た金子氏の個別的自我に過ぎない。それはまさに主客二元論的見解である。一方、原子説による自我とは間主体的自我であり、それは原子氏という間主体的自我から見た金子氏の間主体的自我なのである。ここに、二つの相交わらない自我論的テクストを垣間みることができる。もっともそれぞれの論説はそれぞれのテクストにおいて間違ってはいない。しかし、あくまで私の独断ではあるが、自我の深化という意味ではどうしても後者の立場を支持しなければならない。

 さて原子氏は〈粉屋が哭く〉の句における「粉屋が哭く」「山を駈けおりる」という二つの言表を他我の現象として捉えたが、さらにその他我もまた自我と同じく、自我と比類的に自己の原初的世界を持ち、却って自我をそこにあらしめているとも言える。つまり個別的自我とは区別されるこうした自我と他我の相互交流の場において認められる自我こそが間主体的自我なのである。このように間主体的還元においては、自我と他我との相互作用により現実性が獲得されるものであるが故に、必然的に社会・文化・歴史などに深く関ってくることになる。かつて社会性俳句と称された金子兜太らの一群の俳句もまた何か特別な俳句というわけではなく、俳句における自我の探求という欲望から必然的に産み出されたものということができる。

 金子兜太による間主体的自我の導入という新たな方法によって、近代俳句を束縛していた「仮の主体」から脱して現実を直視できるようになったと言ってよいだろう。それはまさに俳句における現象学的展開であた。しかし、この間主体性はまだ相互性の立場におけるものであって総体性の立場におけるものではない。そして、それは完全な統一性を獲得したわけではなく、従って万人に対して共通の世界を構成しうるとは言えない。この点が小西氏による「独り合点」という批判に繋がってくるのだと思う。そこで間主体性における自我と他我という二項対立的観念をも超越し、自我と他我が純粋に相互滲潤するという超越論的還元によって間主体的自我は超越論的主体にまで高められなければならない。この超越論的還元によってこそ言葉は観念という「死(タナトス)の世界」から「生(エロス)の世界」へと生まれ変わるのである。

 のちに兜太は俳諧を「情(ふたりごころ)を伝える工夫のさまざま」であるとし、自己の内に閉じこもる「心(ひとりごころ)」に対する他者に開かれた「ふたりごごろ」に注目するようになる。このことはまさに個別的自我や間主体的自我から超越論的自我への志向を示すものである。フッサールの超越論的還元においては、その総体性を保証するものを類比的統覚という漠然とした概念で捉えているのに対して、兜太はその超越論的還元の保証を「風土は肉体である」という体感的共有感覚に求めている。

  人体冷えて東北白い花盛り        兜太

 「わたし」はエポケーによって「人体」という「物自体」と同列に置かれるている。また東北地方を連想させるリンゴの花や辛夷の花などの具体的な言葉はなく、むしろそれらの要素が抽出されたものとして「白い花」が提示されている。「物自体」として冷える「わたし」=「人体」と「白い花」との絶妙な共鳴の根底にはまさにそれを保証する東北の風土が横たわっているのである。この共有感覚が「ふたりごころ」として私のこころに響いてくる。その時、俳句はエクリチュールを超えて、タナトスからエロスへの還元として詩的昇華を獲得するのである。 

          初出 : 『現代俳句』1997年9月号(一部改訂)


https://akomix.blog.fc2.com/blog-entry-497.html 【「生きもの感覚」と未来 (追悼金子兜太先生)】より

「生きもの感覚」と未来  小松敦 (海程多摩17集エッセイ草稿)

 梅咲いて庭中に青鮫が来ている 兜太

 〈ふと「今」を生きる人間にとって、他界は「未来」にあると閃きました。その未来は、わたしたちが予知できない手つかずの領域なはずです、本来は。だが、ちょっと待てよ、と青鮫を通して思えてきたのです。結局、わたしたちが想像している未来は、過去の経験や感情を通して思い描かれた、「時」の写し絵ではないのか。さらに言うなら、その過去とは、時の試練を経てもなお風化せず、わたしたちの心の奥底で静かにしぶとく棲息し続けてきた記憶です。『他界』199頁〉

 どうだろう。兜太のいのちは「他界」に行った。しかしその「他界」はどこにあるかと言うと、わたしたちの記憶にあるのだ。

 〈過去、現在、未来の「時」の同化。これこそいのちに段差のないアニミズムの世界ではないか。『他界』202頁〉

 兜太も私たちもそして世界も時も超えて一体のものであるということ。兜太の言葉で言えば「生きもの感覚」。この「生きもの感覚」こそ、私にとって兜太から学んだ、いや生涯学び続けるべきと教えられた最も大きなものである。

 兜太の「生きもの感覚」は、俳句の素材のことを言っているのではない。何を俳句に書くのかではなく、どう俳句を書くのか、という態度に必要な感覚である。「社会性は態度の問題」としてどんな思想も肉体化し日常をすすめる態度になってはじめて俳句になると述べていたのと同様に、俳句をつくる者の生き方そのものを指す。

 涙なし蝶かんかんと触れ合いて 兜太

 花げしのふはつくやうな前歯哉 一茶

 兜太の「生きもの感覚」では、人間も生き物として、蟻や蝶と同じ、老いた前歯と芥子の花、手を擦る蝿と自分は同じとする。その対象は所謂自然に限らない。社会も土の上に生きる人間が作り出したものであって、ほかの生きものと同列にあり、分けて考えるものではない。

 ちなみに、兜太は「生きもの感覚」のことを近接した既成概念「アニミズム」とも称しているが、これは自説を説明するのに便利だったからアニミズムと言っているのであって、タイラーの定義や原始信仰を指しているものではなくむしろ〈アニミズムを生む人間の生な感覚『荒凡夫一茶』177頁〉のことを指す。

 海とどまりわれら流れてゆきしかな 兜太

 あらゆる命や物事が対等でひと繋がりであるという世界感覚は、望ましい原始の記憶として人間の本能の中に刻まれていることを兜太は秩父の産土で実感してこれを「原郷」と呼び、原郷指向と定住しながら世間を生きていく苦労のからみあいに漂泊する人間の生きざまを「定住漂泊」と呼んだ。兜太が邂逅した煩悩具足の自由人「荒凡夫」一茶は、実に「定住漂泊」をバランスよく生きた。まさにその秘訣こそ「生きもの感覚」なのである。

 〈詩は存在感の純粋衝動である〉、〈存在感の純粋衝動は、もっともうぶな感官―その意味でもっとも人間的な心的機能―の働きを必要とする。言うなれば、肉体そのままの、うぶな衝動こそ、もっとも鋭い反応である〉、〈詩は肉体である『今日の俳句』264頁〉

 肉体が感受する世界を「創る自分」が俳句の言葉にする。兜太が「造型俳句」の方法論を述べ『今日の俳句』で「詩は肉体である」と言った時からして既に、いや実はそれ以前からずっと兜太は「生きもの感覚」を体現してきた。約一世紀も俳句を続けているからその中で兜太の語る言葉には変遷もあるが、後年、熊谷に引っ越して産土を感じ、これまでの自分を貫く生き物感覚を確信したのだ。

 人体冷えて東北白い花盛り 兜太

 私にとって、俳句を読んで気持ちが動くとき、自分の肉体に潜む無自覚な世界の記憶が蘇生され、つながり合い、動き出す、そのざわめきに驚く。北国生まれの私の中に東北の早春の空は薄く明るく、頬に冷たい大気の匂い、大人たちの笑顔には、未だ白い息の訛りが響く。私の「生きもの感覚」がざわめく。この時、「生きもの感覚」の世界とはまさに兜太が『他界』で言う通り、記憶の連鎖ではあるまいか。読む時も書く時も、言葉以前の記憶が手を取り合い立ち騒ぐその「質感」に震える時、「生きもの感覚」が私の中に無意識な記憶の連鎖反応を起動する。

 湾曲し火傷し爆心地のマラソン 兜太

 その俳句の言葉は誰かにとっては意味を結ばないかもしれない。あるいは人それぞれの意味を結ぶ。それらの言葉が読者の断片的な記憶表象を喚起し、新たな記憶回路をリンクする時、「いいなあ」といった質感や「わかる」といった好意を感じる。言葉を通じて刺激を受けた記憶回路の興奮は、途中経過が意識されることなく理解に至るという。直感的にわかった、悟った、ひらめいた、というのと一緒だ。その「いいなあ」という質感は、まぎれもなく読者が自分で導いた「リアリティ」である。「生きもの感覚」は、だれもが既に持ち合わせている大切なものなのだ。それはまた、岡本太郎が言う「感性」にも似ている。〈感性をみがくという言葉はおかしいと思うんだ。感性というものは、誰にでも、瞬間的にわき起こるものだ。〉〈自分自身をいろいろな条件にぶっつけることによって、はじめて自分全体の中に燃え上がり、広がるものが感性だよ。『強く生きる言葉』24頁〉

 俳句を読む時とは逆につくる時、「生きもの感覚」は対象を(相手を)思いやり、それと交わり向かうこころ=「ふたりごころ」で繋がりあおうとする。それは〈自分自身をいろいろな条件にぶっつける〉ことかもしれない。そうして私たちは「生きもの感覚」を以って、時空を超えて繋がり合い、そこに「衆の詩」が出現する。

 水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る 兜太

 最後に、「生きもの感覚」は、世界の調和と共存を志向する。それは端的に「平和」に直結する叡智である。兜太がトラック島から帰還以来、生涯をかけて、いや他界してなお我々の記憶を通じて、実現を志す未来である。 了



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