メメントモリ

https://note.com/nakaima567/n/n8cf7044ef989?fbclid=IwY2xjawFV_kRleHRuA2FlbQIxMAABHT48xdKzPxEy1-ZvD0JhB4f84_5pMSCHf8OaFFx7cFkaHTzezVUHVy_SfQ_aem__DxrOi4XPWP_3NrgOIrhTQ 【あと半年で、この世界とお別れ【出口光】】より

2023年5月27日 07:00  人生が何も成せないまま終わってしまう

突然ですがあなたは何歳まで生きられると思いますか?38歳のとき、私は「 余命六か月 」と宣告されたことがありました。耳にできものができたので大学病院で診てもらいました。検査結果を聞きに行くと若い医者は慌てた様子で「今日、入院してください。化学療法をします」と。

「待ってください。病名はなんですか。会社で責任ある地位にあるので、簡単に決められません」「悪性黒色腫です。あなたは若いから周りが早い。一刻も早く治療が必要なんです」

その言葉を聞いたとき、目の前がクラクラしました。

「先生、化学療法しなかったら、どれくらい生きられるのですか?」「せいぜい半年でしょうか」。「え、人生が何も成せないまま終わってしまう。何のためのこれまで一生懸命生きてきたのか」と思いました。

でも不思議なことに、次の瞬間、私は化学療法もせず何の治療もしないことに決めていたのです。病院から妻に電話をして「化学療法しないと決めた」と言いました。

妻からは「大丈夫。子どもは私が育てるから」。気丈な言葉に、本当に癒されました。

そして私の世界が鮮やかに輝いて見えるようになりました。

「あと半年で、この世界とお別れだ」と思うと、全てが愛おしくなったのです。

嫌いな人も、これで会わないんだと思ったら嫌いじゃなくなったのです。

早食いだったのにご飯も味わって食べるようになりました。あと何回食べられるのだろうと思いました。パパと手を挙げて寄ってくる幼い娘をあと何回抱けるのだろうかとも思いました。

あと半年「自分がやるべきことをやろう」と決意しました。

その時は、自分が何をやるべきなのかはわかりませんでしたがただ良い世の中を創りたいと

思っていることだけは自分の中に見つめることができました。

それから、私の運命は思いもかけない方向に展開していきました。

サムライ時間に生きる

三年後には「氣脈をつないで良い世の中を創る」という「メキキの会」を同志とともに創り、

社長をしていた上場会社も辞めることになっていきました。

時間は悠久の過去から永劫の未来へと流れていきます。しかし私たちの人生は、有限ですよね。無限の「とき」の流れの中で人生の有限さを意識して次世代のために志を持って生きることはできます。

この生き方を「『サムライ時間』に生きる」と私は名づけました。このような生き方は、特別のものではありません。あなたも有限な時間を生きているのですから。

今日一日は、あなたもサムライ時間ですごしてみませんか。

あなたに問う「想像してください」

今日の12時に自分の人生が終わると思ってください。悩みがなくなり、世界が輝き始めます。

https://www.youtube.com/watch?v=b7mtAehv9Ro

https://kangempai.jp/seinenbu/haiku/2015/12hotta.html 【2015年12月 青年部俳句作品

メメント・モリ/堀田季何】より

メメント・モリ   堀田季何

一九三八年一一月九日深夜          水晶の夜映写機は砕けたか

クリスマス積木を積むは崩すため       石段のはては祭壇冬銀河

つばくろとなり葬列をさかのぼる       囀れりわが宍ししを喰ひちらかして

紋白蝶重し病者の鼻梁には          桜桃や目の昏さ似て異母姉妹

箱庭は橋落ちてをり岸に人          片陰にゐて処刑台より見らる

万緑を疾走す血の乾くまで


https://livingmontage.com/2022/09/28/series-terada-9th/ 【第9回「松風と素粒子――たましいと肉体の老いと死について」】より

1 詩人の老い方

 詩人の佐々木幹郎に『詩人の老いかた』という本がある。1986年に刊行されたエッセイ集だ(佐々木1986)。

 この本は、佐々木の第3エッセイ集だが、数多くの詩集や小説や評論集の批評を中心に編まれている。そのほとんどが、1970年代後半から80年代に書かれている。佐々木は1947年生まれだから、つまり、佐々木の二十代後半から三十前半にかけての文章が収められていることになる。

 とり上げられた詩人は、彼の同世代では吉増剛造、正津勉、藤井貞和、季村敏夫、岡田哲也、少し上では、谷川俊太郎、もっと上では、秋山駿、秋山清、田村隆一、谷川雁、吉本隆明、吉岡実などの名前が見える。小説家では同世代では中上健次、村上龍、村上春樹、津島佑子、川本三郎、富岡多恵子の作品がとり上げられている。より古い書き手としては、中原中也や与謝蕪村の名前も出てくるが、中心的に扱われているのは「同時代」の詩人や小説家の作品である。

 同時代の詩と小説と評論を貪欲に収集し、それに対する批評を加えてゆく。同時代性にそれほどこだわらない詩人も作家もいる。しかし、佐々木はそういうたぐいの書き手ではない。同時代の空気をどうすくいとるのか、同時代の空気をどう言語化するのかを自分で自分に課す書き手である。そうして、そのようなコミットメントを通じて、むしろ、同時代の空気を自らも作って行こうともしていたようにも思われる。当時、時代の先端を行く表現者の一角に、佐々木は確実に位置していた。

 そんなエッセイ集の中に収められているのが、「詩人の老いかた」という一篇であり、その一篇は、それを含む「詩人の老いかた」という章のタイトルになり、そうして、その「詩人の老いかた」という章のタイトルは、この本一冊の題にまでなっている。

 しかし、「詩人の老いかた」というタイトルをどう考えればよいのだろうか。

 そもそも、そのフレーズは、それほど一般的でもないし、それほど人々の関心を引きそうにも見えない。たしかに、意表はつくが、あまり魅力的でもないし、それに何といっても、全く同時代的でもなければ、時代の先端を行くものでも全くない。同時代評論であるはずのこのエッセイ集に、佐々木は、どうして、全くそぐわないタイトルを付けたのかといぶかしく思われるほどだ。

 1980年代と言えば、高度成長期が一段落して、バブル期に入る直前であり、「老い」の問題が中心的課題であったとは思えない。むしろ、「老い」は見向きもされない時代であったのではなかろうか。そんな中、いったいどうして、「老い」なのか。

 「詩人の老いかた」という一篇を含む、その章には、「詩人の老いかた」のほかにどんなエッセイが収録されているのか。そこに収められているのは、「老人と海」、「腐敗の方法」、「自然詩人の必敗の地点」、「いかにいやらしく老いるか」、「子供とは何かという問い」、「桃の花見の話」、「詩と詩人への切なき思い」という7編である。なんとなくそれを示唆するタイトルもあるし、それを示唆しないタイトルもあるが、そのどれもが、「詩人の老いかた」に広い意味で関係したエッセイだ。

 「老人と海」は、ある詩人に誘われて出かけた三宅島での老人との出会い。「腐敗の方法」は田村隆一が「うまく腐敗してくれるだろうか」という老い方への問い。「自然詩人必敗の地点」は吉本隆明の、「いやにやらしく老いるか」は谷川雁の、「桃の花見の話」は秋山清の詩や詩人としての生き方を論じたエッセイである。もっとも古いものが1978年、最も新しいものが1986年に書かれている。

 佐々木は、1947年生まれだから、最も古いものが書かれたとき、彼は31才、そうして、その中で最も新しいものが書かれた時、彼は、39才。31才は老いどころか、青年期ともいえるだろうし、39才も老いとは無縁の壮年期の真っただ中と言える。そんな中、佐々木は、老いについて考えていた。いったいこれはどういうことなのか。

「わたしは自分が老人になったとき、どんな風に生きるのか、どんな風に死ぬのか夢想する悪い癖がある。」(佐々木1986: 360)

 佐々木はこう書いている。人は、何才くらいから老いを考えるのかわからないし、老いを考えるのに適切な年齢がそもそもあるのかわからない。だが、人間の終着点には、生命の終焉があるわけで、その生命の終着点に近づくのは順調にいけば老いであるわけであるから、老いはだれしもが考えてもよい事柄ではある。しかし、三十代での佐々木の老いへの関心はあまりに早すぎないか。

 とはいえ、このエッセイ集を読んでみると、ここでの「老い」とは実は、肉体的な「老い」とはあまり関係がなさそうだということがわかってくる。佐々木が問題にするのは、形而上学としての「老い」。いや、詩人にとっての実在の問題としての「老い」。そのように、佐々木が論じる背景には、詩人とは未完成なものであり、未完成とは、青年期にしか許されないことだという含意がある。

2 夭折と詩人

 詩人とは未完成を追い求める人であるとするならば、詩人とは夭折することが最も理想であるということになる。

 近代とは、その未完成の詩人の像を追い求めた時代だった。佐々木幹郎は、『詩人の老いかた』の中で、中原中也と立原道造の名を挙げている。中原中也は、1907(明治40)年に生まれ、1937年に死んだ。享年は31才である。詩集としては、『山羊の歌』があるだけで、その死後に『在りし日の歌』が出版されている。立原道造は、1914(大正3)年に生まれ、 1939(昭和14)年に24才で死んだ。詩集として『萱草に寄す』、『曉と夕の詩』を残した。

 『詩人の老いかた』の中で佐々木が挙げているわけではないが、そのほかにも、近代の夭折詩人としては、日本では、石川啄木(26才で死去)や、北村透谷(26才で死去)、村山槐多(23才で死去)などの名前があげられるだろう。ヨーロッパでいえば、アルチュール・ランボー(37才で死去)か。どの死も、老いを迎えるどころか、中年期、壮年期も迎える前の死である。夭折である。

 だが、しかし、一方、彼らの作品は、それが現在でも広く読まれていることからもわかるように、作品として完成していた。つまり、詩人としては、彼らは完成していたのである。夭折という語の中にある、未完成というニュアンスからすると、彼らの死は夭折ではなかったということになる。とはいえ、しかし、彼らの作品は、彼らのその年代での死という事実とともに読まれている。とするならば、その死は、未完成の死ではなかったことになるが、その死が夭折であったがゆえに、詩人を完成させたともいえる逆説的なものであったことになる。

 佐々木は、1976年に中原中也の恋人であった長谷川泰子を主人公にした映画「眠れ蜜」を作り、1988年に中原中也の評伝を書き、1994年に山口市に開館した中原中也記念館の開館に携わり、2000年から2004年に『新編中原中也全集』の編纂に編纂委員として携わり、そうして、1996年から現在まで、中原中也賞の選考委員を務めている。佐々木の生涯は、まるで、中原中也という存在に取りつかれているようだ。

 中原中也は先ほども書いたように、夭折詩人の代表格。もしかしたら、佐々木が三十代のころに盛んに老い方の問題が気になったのは、30才を超えて生き続けて、詩は書けるのかという問題に直面していたことによるものでもあったのかもしれない。

 ここに見られるのは、形而上的な老いと形而下の老いの相克である。その相克は、たましいと肉体の問題でもあり、それは、死そのものの問題ともかかわる。たましいは老いるのかという問題は、肉体は死ぬがたましいは死なないという発想とも表裏一体ともいえるが、それを詩人という具体的な存在の生きた姿からとらえようとしていたところに佐々木の詩人としての面目の躍如たるところがある。

3 たましいは老いるのかーーテセウスの船のパラドックス

 たましいが老いるのかどうかという問題は、たましいとは何かという定義にかかわる。仮に、たましいは老いないというならば、それは、たましいは物質ではないから老いないということを言っていることになる。これを、逆に言えば、物質は老いるということになるが、しかし、物質が老いないということもあるだろう。常に更新をしている物質は老いない。常に更新している物質とは、生命体であるが、生命体が常に更新し続けるならば、それは老いることはない。

 一方、たましいには、形も物質もないので、たましいは、老いというものがないともいえる。たしかに、形もなく存在もないものには、そもそも、老い、つまり古びる、ということが起きるはずがないようにも思える。

 とはいえ、しかし、たましいには老いと言うものがあるようにもみえる。子どものみずみずしい精神というのはたしかにあるように思えるし、大人の成熟した精神というものもある。老人の枯れた精神というものもある。だとしたら、たましいにも老いというのは確実に存在するといえる。

 もし、それが、身体と関係しているのならば、それは、子どもの体を持つ人には子どものみずみずしい魂があり、大人の成熟した体を持つ人には、大人の成熟したたましいがあり、枯れた老人の体を持つ人には、枯れた、老いたたましいがあるということになる。そうなると、それは、たましいと肉体が連動しているということになるかもしれない。

 たましいと肉体が完全に分離していると考えると、たましいは、それ自体としての独自性を持っているようにもみえるが、しかし、一方で、たましいと肉体とは、やはりつながっているようにも思われる。そうなると、そこには、何らかの相関関係があると考えた方がよいのかもしれない。

 このたましいと身体の関係とは、目に見えるものと目に見えないものとの関係である。あるいは、物質に存在する、目に見えるという側面と、物質に存在する、目に見えない面の関係ともいえる。物質には、目に見える側面がある。それは物理的側面だが、同時に、その物理的側面と同時に物質には目に見えない側面がある。それは、性質や、特性や名前や特徴やといったものである。そこに、たとえば、誰かがいたとして、その誰かがなんという名前かは、どこにも見えない。そこに何かがあるとして、その何かが重いのか軽いのかはどこにも見えない。目に見えない側面とは、アイデンティティともいえるし、形而上的性質ともいえる。

 古代ギリシア人が考えたといわれる「テセウスの船のパラドックス」というパラドックスがある。プルタルコスが『英雄伝』の中で紹介している。それは、海洋民族のギリシア人らしく、船という譬えを用いて、目に見える側面と目に見えない側面の関係性を考えようとしたパラドックスだ。

 ギリシア神話ではアテネを創建したことになっている英雄のテセウスが帆船を所有していた。その帆船は、常に修理されており、例えば、甲板の板一枚、竜骨の部分一個など、少しずつ少しずつ古びた材が取り除かれ、新しい材に入れ替えられている。少しずつ入れ替わっているので、ひとは、修理という名の入れ替えが行われているのに気づかない。だが、しかし、修理が続いているうちに、いつの間にか、船を構成する材が、初めに建造された際の材からすっかり入れ替わることになる。初めの材は全くなくなり、すべてが新しい材だけになっていたとする。そうなったとき、それは、もとの船と同じだと言えるのか、それとも別の船であるのか。これが、テセウスの船のパラドックスだ。

 自己同一性とは何かという問題がそこにはある。ギリシア人は、海洋民族らしく、船の事例を挙げたが、たとえば、日本人ならば、伊勢神宮の例を挙げるかもしれない。伊勢神宮の社殿は、20年ごとにそっくりそのまま新しい材に入れ替えられる。古いそれも、新しいそれも、どちらも伊勢神宮の社殿であると考えられているのだが、しかし、それは本当に伊勢神宮なのだろうかという問題である。

 もちろん、神社とは、カミそのものではなくて、たんなるカミの入る「うつわ」というか、カミがそこを足場にしてこの世に存在しうる場所であるのだから、伊勢神宮が、同一か同一でないかということはあまり問題ではないかもしれない。重要なのはカミであって、その仮の宿りである社殿ではないともいえる。しかし、とはいえ、目に見えるものとしては、社殿しかないのだから、それはそれなりに重要でもある。それに、それが重要だからこそ、そうして、常に新しいものを作るという行為が行われているはずだ。そこでは、物事の同一性がとわれている。カミの宿る場所の同一性である。この物事の同一性の問題とは、アイデンティティの問題だが、それは、目に見えるものの上に乗っかった目に見えないものの問題でもある。

 テセウスの船は、「物」であって、いきものではない。だかから、テセウスの船のパラドックスは、物の問題である。しかし、それは、同時に、いきものの問題でもある。いきものは常に新陳代謝しているので、同じものはない。しかし、同時に、そのいきものは、あるアイデンティティを保持しているので、同じものが存在しているともいえる。

 そこには同じ問題があり、それは、ある存在物があったとして、その存在物の目に見えるものとしての側面と、目に見えない側面の関係性をどう考えるのかという問題である。

 老いとはそのような問題の中で、どのように位置づけられるのだろうか。いきものの場合も、テセウス号のようにすべてのパーツは常に入れ替わっている。もしかしたら、すべてがそっくりと入れ替っているともいえるかもしれない。

 それに、個体としては、老いはあるが、種としては老いはないともいえる。いきものが次の世代になるとき、そこでは、全く新しい個体が生まれている。

 個体の中での入れ替わりは、「テセウスの船」型の存続の仕方、世代間の入れ替わりは、「伊勢神宮」型の存続の仕方と言えるかもしれない。そのどちらにも共通するのが、ものと、目に見えないものの永続の問題である。

4 言語と自己回帰性

 たましいと肉体の関係とは、言い換えると、物質の世界と精神の世界の関係をどう考えるかという問題である。これを、一つと考えるのか、それとも、二つと考えるのか。あるいは、一つと考えても、その一つの中を、物質側の原理が優先するものとして考えるのか、精神側の原理が優先するものとして考えるのかという問題である。

 思想・哲学の専門用語を用いると、それは、一元論と二元論の問題である。一元論は英語で言うと「モニズムmonism」、二元論は英語で言うとデュアリズム「dualism」だ。モニズムのモノmonoとは、モノトーンのモノ、であり、モノローグのモノであり、モノポリーのモノである。「独」「単」というような意味を持つラテン語が語源となっている。

 モニズムかデュアリズムかという議論とは、世界は一つの世界であるのか、それとも世界は二つの世界であるのかを問題にする議論である。あるいは、それは、世界を貫く原理は一つであるのか、世界を貫く原理は二つであるのか、という問題であるとも言い換えられる。

 その際、何を二つと考えるのかが問題になるが、その二つが、物質と精神で象徴される何かである。世界は、世界は砂糖と塩に分けられるとか、世界は明と暗に分けられるとかいう分け方も当然あり得ようが、一元論か二元論かと言う場合には、そのような分け方は問題にならない。一元論、二元論というときの分け方は限定されている。

 それが、物質と精神という分け方だが、それは、主観と客観とも言い換えられるし、あるいは、心と物とも言い換えられる。あるいは、それはたましいと肉体とも言い換えられるだろうし、心と身体ともいえるだろうし、目に見えるものと目に見えないものとも言い換えられる。そこでは、人間が内面に持つ世界、すなわち人間の自己が自己の内部で持つ世界と、その人間の内的世界の外側に広がっているように見える外側の世界をどうとらえるかが問題となっているのである。

 物質の世界と精神の世界は同じ一つの世界に属していると考えるのが一元論(モニズム)である。それに対して、物質の世界と精神の世界は、それぞれ全く別の世界で、その世界の間には断絶がある、と考えるのが、二元論(デュアリズム)だ。

 このモニズムとデュアリズムの問題には、長い思考の歴史がある。思想や哲学や宗教の歴史とは、まさに、この問題、すなわち、物質の世界とたましいの世界をどう関連付けるかという問題をどう考えるかという長い歴史であったともいえる。

 いや、それはもっと遠い過去にさかのぼるのかもしれない。人間が言語を持ち始めたころから、この問題は、人間の心の中に存在しただろう。

 人間が言語を持ち始めたのは数万年前だと言われる(Hinzen2013、Dunbar 2016)。10万年くらい前に、ホモ・サピエンスはアフリカを出て地球上に拡散し始めたのだが、その時に、拡散を支えたのが言語にもとづく様々な能力であったといわれている。ホモ・サピエンスの先祖と同時期に生息していた別種のホモ属のホモ・ネアンデルターレンシス(ネアンデルタール人)はホモ・サピエンスと同じ身体形質を持つので、発話をすることができた。ただし、その発話はオウムが発話することができるように、会話ではなく発声にとどまったようだ。言語による会話とは内容が無限に生み出されることであり、その背景には、心や精神の領域が必要とされる。

 ホモ・サピエンスの思考内容が、文字という記録媒体によって記録され始めたのは、数千年前である。人間が言語を持ち始めたのが数万年前だとすると、その言語の歴史から見ると、文字の記録の歴史とは、その十分の一くらいしかないわけだが、けれども、人間が言語を持ち始めたころ、つまり、思考を言語というメディアを用いて、構造化し、外部化し、その外部領域で、ある一つの者としてシステムを構築し始めたころから、おそらく、この物質の世界とたましいの世界の関係をどう考えるかは、中心的な課題であったはずである。もちろん、その頃は、哲学的な語彙や思考ではなく、物語や宗教という形をとっていただろうが(Dunbar 2016)、しかし、そのような形であれ、宗教や物語が存在したこと自体が、そのたましいの問題をどうとらえようとしてきたかということであったことを示す。

 たましいの内容が、言語によって深められたとするならば、たましいは言語的な存在物でもあることになる。たましいは、ものとして存在するのではなく、言語として存在する。

 だが、一方、そのたましいがどのような存在物であるのかを考えることも、言語によるしかない。

 ここには、言語的構築物であるたましいを言語によって考えるという円環が生じているが、この円環性とは、人間の意識そのものが言語と分かちがたく結びついていることから来る、必然的に伴う現象であろう。これは、自己言及性self-referenceともいえるし、自己回帰性self-reflexionともいえる。ダグラス・ホフスタッターの『ゲーデル、エッシャー、バッハGödel, Escher, Bach』(1979=1989)が問題にしたように、自己言及性や自己回帰性には、測りがたい魅力があるのも事実だが、それは、人間の言語を用いて、表現することの難しい問題であることも事実である。

 このような自己言及性や自己回帰性の存在は、人間の理性の“限界”であり、人間の認識の“源泉”である。クルト・ゲーデルKurt Gödelは、それを「不確定性undecidablity, Unentscheidbarkeit」というが、ブッダことゴータマ・シッダールタगौतमसिद्धार्थ Gautama Siddhārthaは、それを「縁起paticca-samuppada」という。

 「不確定」を「不」という、確実性を阻害する何かであるとしてそれを見れば、それは“限界”だが、「縁起」という、何かを生み出すものとしてそれを見れば、それは“源泉”である。この点については、この後、改めて検討する(☞Section 18)。

5 たましい、プラトン、アリストテレス

 紀元前4世紀ごろのギリシアの哲学者プラトンは、物質の世界とは別に、たましい(プシュケー)の世界が存在するという論を持っていた。プラトンは、それを「イデア」という。

 たとえば、彼は、美というイデアの世界を想定する。美というものは、この世には存在しない。この世には、美しいものは存在するが、美、そのものは存在しない。『パイドン』、『パルメニデス』、『国家』において、彼は、美というものがイデアの世界に存在し、そのイデアの世界の美が、この物質界に分有 (メテクシス) されていると考えた(Platon1956: 353d, 479a-480a, Plato 1914: 74a-77a,100c-103b; 1939: 133b-134e)。

 プラトンは、『パイドン』では、たましいがこのイデアの世界に属し、不死であることを述べている(Plato1914)。イデアの世界とは、物質の世界とは別に存在する世界だが、そこは、たましいが属するということからわかるように、精神の世界なのである。つまり、たましいと物質の二元論である。

 一方、プラトンに直接に教えを受けたアリストテレスは、プラトンやその前の思想家たちを批判し、たましいと身体の関係を、現実態と可能態という視角から考えようとした。たましいとは、身体の現実態として出来するものであるというのである。

 このアリストテレスの考え方は、ヒュロモルフィズム(hylomorphism)と言われる。この考え方によると、存在は、ヒューレー(hule質料)とモルフェー(morpheフォルム)からなると考えられる。あるものを要素に還元する点で、要素還元主義である。要素還元主義には、アトミズムもあるが、このヒュロモルフィズムは、アトミズムと若干異なる。アトミズムも物をその部分に分解するが、その分解した部分もあくまで物である。全体は部分からなるが、その部分は、全体と同じものからなると考える。それに対して、ヒュロモルフィズムは、全体は、ヒューレーという部分とモルフェからなると考えるのである。

 その上で、アリストテレスは、たましい(プシュケー)を、心(ノウン)、知識(エピステーメー)との対比で考え、心や知識のより基底にあるものであり、感覚(アイステーシス)を引き起こすものであると考えた(Shields 2011)。現在の自然科学における認知科学が、人間の認識機能を分節化する仕方ともほぼ変わりのない科学的なとらえ方である。そこにおいては、プラトンのように、たましいと物質の世界が完全に分かれているのではなく、たましいと物質の世界は分かちがたく結びついていると考えられている。一元論ともいえるであろう。そこからは、たましいの不死というような考え方は生まれにくい。おなじ、ギリシアの哲学者の子弟であっても、たましいと物質の世界の関係をどう考えるのかには、大きな差があるのである。

 ただし、アリストテレスは、たましいの大部分は身体とともに消滅するが、一部は不死であると考えている。『アニマについて(霊魂論)』の中で彼は、次のように言っている。

「知識とはその対象と同一化することで実現する。しかし、働きかけられるものとしての心は消滅するものであるが、一方、その受け皿のようなものつまり、可能態は消滅しないと考えている。可能態とは、現実態ではないものであり、そもそも、現実ではないものは消滅することはないからである。」(Aristotle 1936: 171)

 ここでいう、可能態と現実態という区分も、この現実世界を分節化する視角であり、ある意味での二元論的な考え方である。この考え方は、たましいの領域と物質の領域という区分とは若干異なる二元論である。可能態とは、現実がまだ現実になっていない状態のことをさし、現実態とは現実が現実化している状態のことをさす。これは、たましいと物質とは無関係なようには見えるが、とはいえ、たましいと物質の二元論でいう二つの領域も、一方で、たましいの領域という目に見えない領域と、他方で物質の領域という目に見えるものの領域をさしていると考えると、可能態の領域は、ものがまだ現実化していない目に見えない領域であり、現実態とは物が現実化している目に見えるものの領域であるので、どちらも、同じことを指しているともいえる。

 目に見えるものの世界とは、この現実世界だが、それとは別に、目に見えないものの世界が存在するというのは、人間が創造力というもの、つまり言語を持ったことによって生じた現象である。プラトンもアリストテレスも同じ問題を別々の角度から考えていたともいえる。

6 デカルトの切り離された部屋

 近代の基本的な思考のパラダイムは、二元論がベースとなっている。その始祖であると言われるのが、ルネ・デカルトRené Descartes(1596年-1650年)である。デカルトは、世界を構成する二つの要素を、レス・コギタンス(res cogitans)とレス・エクステンザ(res extensa)と呼んだ。レス・コギタンスの「レス」とは「もの」を意味する名詞、「コギタンス」とは、「コギト」という動詞の現在分詞である。「コギト」とは、「われ思うゆえにわれあり」の「コギト・エルゴ・スム」のコギトであり、考える、思考するという動詞である。一方の、レス・エクステンザの「エクステンザ」は、エクステンススという語の女性形であり、それは、外に広がる、という意味である。

 レス・エクステンザでいう「外」とはどこか。それは、精神の外である。つまり、ここでは、精神という内部の世界と、その精神の外という外部の世界が想定されている。思考とはあくまで、この「わたし」の思考でしかありえないので、ここでいう、二元論は、「わたし」とその外に広がる物体たちという同心円的な空間構造で表象されている。

 デカルトは、コギトとレス・エクステンザがすっぱりと切り離されていると考えた。彼によれば、精神とは、物質からは生まれようもないものである。たとえば、人間の体を極小になって探検しても、そこには、精神というようなものはどこにもない。そこにあるのは、細胞であり、細胞の中にある原子であり、その原子の中にある陽子や中性子である。精神とは、物質とは全く違う次元のものなのである。

 デカルトが「コギト・エルゴ・スム」を提唱したのは、『方法序説』(1637年)においてだが、その『方法序説』を読むと、彼は、その本を、彼が以前滞在していたドイツのある部屋での一冬を回想して、描写することから始めている(Descartes 1637=1987: 15ff.)。

 デカルトが、本格的に思索の道に入ったのは、三十代からで、著述を始めたのは四十代からだが、青年期の彼は、各地を放浪し、当時分立していたヨーロッパの侯国の軍隊に出入りしていたようだ。このころ、ヨーロッパではのちに30年戦争と呼ばれる戦争の真っ最中だった(1618年―1648年)。1619年、23歳の彼は、バイエルン侯国の兵士となるために、ドイツ南部の都市ウルムに赴いたが、そこでひと冬を過ごすことになる。彼は、ウルム郊外の家に蟄居し、暖炉のあるその家の中で思考を深めていた。それはおそらく、1619年の11月10日の夜であろうと言われている。その思考内容が『方法序説』で書かれた内容である。

 その思考の場は、コックピットのようなものだっただろう。ヨーロッパの家屋は石造りで外部とは切り離されている。後で見るが、デカルトは、生涯、思想の中心地パリとは距離をとっていたので、環境から切り離される状況を好んだようだが、この『方法序説』の回想も、辺りの自然環境からの切り離しを示唆する。そんな中で構想された彼の思想が、レス・コギタンスとレス・エクステンザにすっぱりと世界を分ける思想であったのは、そのような彼の生き方と環境が反映していたとも見えよう。

7 スピノザと自然

 近代の基本的な思考のパラダイムは、二元論がベースとなっていると言ったが、しかし、二元論的な立場をとらない論者も、近代には見られる。

 一元論(モニズム)の論者として、代表的なのは、スピノザBenedictus De Spinozaである。デカルトは1596年生まれで1650年に死去、スピノザは1632年生まれで1677年に死去。約30才の違いがあるが、同時代に生きたといってもよい。直接の面識はなかったようだが、この後見るように、スピノザはデカルトの著作を読んでいた。どちらもオランダに縁がある。デカルトはフランス生まれだが、生涯のメインの部分はオランダに住んだ。アムステルダムや、ライデン、ユトレヒトなどを転々としていた。なぜ、オランダだったのか。当時の思想の中心地は、パリやロンドンやアムステルダムであった。だが、デカルトは、そのような中心地に住むことを選択せず、あえてそこから外れたオランダに隠居し、もっぱら、文通を基盤に思想を展開する生活を送っていた。ひととの付き合いはあったが、細かく張り巡らせた文通のネットワークを通じて、思想界に大きな影響を持った。舞台からには姿をあえて見せずに、少し身を引いた賢者として生きるというある種の自己演出を行っていた(van Ruler, Han 2019)。一方、スピノザはオランダ出身で生涯オランダに住んだ。著書が禁書となったことから大学教授への招聘を辞退するなど、こちらもどちらかというと「身を隠す」生き方をしていた。とはいえ、両者は、著作を通じて多大な影響を思想界に与えた。デカルトの二元論に対して、スピノザは一元論的な見方をしていたが、彼はデカルトの著作から影響を受けている。

 スピノザの主著は『エチカ』だが、エチカとは、エティックスつまり、倫理について論じた本だ。

 興味深いのは、スピノザは、それを、ユークリッドの「原論」の方法を借りて論じていること。『エチカ』の正式なタイトルは、『エチカ、幾何学の方法によって証明されたEthica Ordine Geometrico Demonstrata』である。ここでいう、「幾何学の方法」が、ユークリッドの「原論」を指す。哲学を数学の方法で論じようとした人は、スピノザ以前にはいなかった。アリストテレスは自然科学の論文も書いているが、それは、基本的には人文の世界を論じる論じ方と同じように文章で書かれている。スピノザの後には、フレーゲやホワイトヘッド、ラッセルが、数学の形式を応用しながら論理を論じることになるが、それは、スピノザより200年以上後のことである。

 ユークリッドの原論は、「公理」、「定義」、「公準」、「命題」という体系からなる。スピノザは、それらの枠組み体系を用いて、人間にとっての善や意志の問題を論じようとしているのだから、相当に野心的な試みである。科学として人間の精神を論じることは可能だ、という確信が彼にある。

 『エチカ』の第2部では、スピノザは明確にこう言っている。

「人間の精神や生について書く人の多くは、それを、自然の法則が貫く自然物としてではなく、自然の外に存在するものとして考えようとしているように見える。あるいは、自然の中にある人間を、国家の中にある国家のように理解しているようにもみえる。」(De Spinoza 2015: 219)

「自然は常に、同一の自然である。(……)あらゆるものがそこから生じ、そこを起点としてある形相から別のものへと変わってゆくところの自然の法則は、あらゆるものを越えており、つねに同一である。その法則は、一つであり、同一であり、その中で自然が、それぞれの個物としてどのような在り方をしていたとしても、そのそれぞれの個物の中における同一性の視角からとらえられるべきである。つまり、自然の一般法則によってとらえられるべきなのである。」(De Spinoza 2015: 221)

(以下略)

 


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