https://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-ronyu/kitao/new-26.html 【存在の実相とは何か-空海教学「三部書」から】より
はじめに
生きとし生けるものの活動は、身体(行動性)・言語(コミュニケーション性)・意思(精神性)の三つに集約されると空海はいう。
生きとし生けるものの個体が本来有している、あるがままのこれらの三つの活動性は、天空にかかる太陽のようなものであり(あらゆるいのちにもとからそなわっているものであり)、不変不滅であると『吽字義(うんじぎ)』にも記している。
しかし、これらの活動によって、争(あらそ)いや殺し・騙(だま)し・貪(むさぼ)りなどのさまざまな行ないを互いにするから、生きとし生けるものの神経は休まることがない。
そこで、日々の安心をいかに得るのか、それが人間にとっても一生の関心事となるが、それは、三つの活動性をもって物事の真理をいかに「知る」のかと同じことであり、物事すなわち世界の真理が把握できれば、人びとの心は穏やかである。
その場合、「知る」ということには、理知的に知ることと、感覚的に知ることとの二極があり、空海はその両極をもって、教えを進める。
つまり、理性によってとらえた世界を、サンスクリットのマントラ(真言)に約(つづ)め、そのマントラを唱えることによって、真理の世界を開示さす。人びとは、その世界と一体となることによって安心を得る。
マントラとは、「マン(man):考える」に「トラ(-tra):用具などを示す接尾辞」を付して、「思考の道具」というのが本来の意味であるが、理性によってとらえられた包括的な世界観は、「思考の道具」としての真言のフレーズになり、そのフレーズを唱えることによって、人びとは真理の世界に触れることができる。
そのフレーズばかりに目を奪われると、神秘性のみが際立つが、その背後には極めて理知的な世界観があることを、空海の教義書は教えている。
その教義書とは、空海教学の「三部書」といわれる『即身成仏義(そくしんじょうぶつぎ:身体論)』『声字実相義(しょうじじっそうぎ:言語論)』『吽字義(意思論)』である。
以下は、それらの書の骨子を読み解き(訓み下し文や口語訳にして読み解き)、普遍的な哲学として学ぶ(さらに読み解いた内容を、現代の思想と照らし合わせ、今日化して学ぶ)ものである。
Ⅰ身体論
あらゆる生きものは、広義の意味での何らかの「知」を有しているが、その知の本体となる個体は、物質を材料としたものであり、太古の海水の中で、無機質だった物質が有機質となり、それが巨大分子となって、やがて細胞が誕生した。それが、生命である。
そのことを原点とするならば、知をもつあらゆる生きものがともに生きるには、有機体の内外の物質間で行なわれる代謝(たいしゃ:有機体が生命の維持のために、外界から取り入れた無機物や有機化合物を素材として行なう、一連の合成や化学反応のこと。それらの基礎的な生命活動によって、有機体はその成長と生殖を可能にし、その体系を維持している)のバランスがはかられなければならないことになる。
だから、あらゆる生きものにとって、そのバランスをはかることが知の原初の目的であった。
つまり、知を有する身体のもとは物質であるから、この身このまま(即身)にして、生存すること自体に知の本来の役わり(成仏)があり、人間がその人生において"苦"と思う事柄によって悩み迷う心や、概念によって得る知識とはまったく異なる根源的な知がそこに存在する。
そのことを空海は『即身成仏義』の以下の偈(げ:詩型文)によって説き示す。
(一)「六大(ろくだい)無碍(むげ)にして常に瑜伽(ゆが)なり」(六つの粗大なる物質要素、地・水・火・風・空・識は、さえぎるものなくとけ合い、常に相応一致している)
万物をかたちづくる質料は、固体・液体・エネルギー・気体・空間の五つであるが、それらが有機的に結合して生命になり、その生命が意識(神経細胞)をもつことから、その意識をプラスして六大という。その六つの要素は、さえぎるものなくとけ合い、常に相応し、結びついている。<本体>
(二)「四種(ししゅ)曼荼(まんだ)各(おのおの)離れず」(四種類のマンダラ※、大マンダラ・サンマヤマンダラ・法マンダラ・カツママンダラは、おのおのが世界の本質をあらわし、それらが互いに関連しあっている)
※マンダラ:サンスクリットの[マンダラ(mandala:nとdの下部に・が付く)]のマンダ(manda)は本質・中心・真髄・醍醐味の意の語幹に、ラ(la)の成就・所有の意の、後接語を加えた語。すなわち「本質のあるもの」の意。
その万物の本体である六つの質料によって、生きとし生けるものと、その住み場となる環境と、いのちのもつ無垢なる知のちからとそのはたらきがつくり出されている。
そのつくり出されたものは、
(1)イメージ(色彩・かたち・うごき・音・匂い・味・感触による事物・事象の全体像)
(2)シンボル(全体における個の存在が、その形相によって伝える意味・価値・合図)
(3)文字(名称・概念・数によって示される、事物・事象の様相)
(4)作用(物体の存在によってひき起こされる、運動・力学・化学的反応など)
の四種の表現媒体によって把握され、その把握されたものが一処に集まったものが、物事の本質である。<様相>
(三)「三密(さんみつ)加持(かじ)すれば速疾(そくしつ)に顕わる」(いのちのもつ無垢なる知のちからと、生きとし生けるものがもつ身体・言語・意思の三つの活動とが互いに応じ合うとき、すみやかに、真理の世界があらわれる)
生きとし生けるものが発揮している無量無辺の行動性・コミュニケーション性・精神性の三つの活動性と、いのちのもつ数限りない無垢なる知のちからとが互いに感応するとき、たちまちにして真理の世界が開示する。<作用>
(四)「重重(じゅうじゅう)帝網(たいもう)なるを即身と名づく」(その際限なく応じ合うありさまは、帝釈天の宮殿に張りめぐされている網の結び目の、無数の珠の輝きのようであり、そのような存在をこの身このままという)
その開示された世界では、いのちのもつ数限りない無垢なる知のちからと、無数の個体のおのおのが発揮している無量無辺の三つの活動性とが、いくえにも重なり、互いに感応するから、お互いがお互いを際限なく映し出して行く。その多層で広大なるネットワークの中に存在している個体を、この身このままの存在という。<個と全体>
(五)「法然(ほうねん)に薩般若(さはんにゃ)を具足して」(あるがままのいのちには、一切の知がそなわっている)
そのはかり知れないほどの多くの、この身このままの存在である個体の一つひとつに、いのちのもつ数限りない無垢なる知のちからとそのはたらきがそなわっている。<自然の知>
(六)「心数(しんじゅ)心王(しんのう)刹塵(せつじん)に過ぎたり」(あらゆるいのちには、心の作用と心の主体がそなわっていて、その数は無数である)
すべてのいのちがもっている無垢なる知のちからとそのはたらきが心の主体であり、その心の主体と個体の心の作用は数限りない。<心の主体と作用>
(七)「各(おのおの)五智(ごち)無際智を具す」(その心の主体と作用のおのおのに、
(1)法界体性智<ほっかいたいしょうち:真理の世界そのもの>
(2)大円鏡智<だいえんきょうち:清らかな鏡にすべてが映じるように、万象をありのままにとらえる知恵>
(3)平等性智<びょうどうしょうち:万物の平等をとらえる知恵>
(4)妙観察智<みょうかんざっち:万象の違いを正しくとらえる知恵>
(5)成所作智<じょうそさち:視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚をもって行動することによって、なすべきことをなしとげる知恵>
の限りない五つの知恵がそなわっている)
その心の主体と作用のおのおのに数限りなくそなわる、いのちのもつ無垢なる知のちからとそのはたらきとは、
(1)生命知:水・光・大気の存在によって誕生した生命の、その生命が有している広義の意味での知そのもの。
(2)生活知:あらゆる生きものどうしが呼吸と光合成によるエネルギーと、昼夜の明暗に合わせた活動と休息によって、ともに生きる知のちからとそのはたらき。
(3)創造知:あらゆる生きものどうしが衣食住を自ら生産し、それらを相互扶助し、
ともに生きる知のちからとそのはたらき。
(4)学習知:あらゆる生きものどうしがその持ち前の知覚によって、対象となるモノ・コトを観察・分析・判断し、互いにコミュニケーションをはかることができる知のちからとそのはたらき。
(5)身体知:あらゆる生きものどうしが環境をすみわけ、その持ち前の運動能力によって、からだを空間の中で自由にうごかし、ともに生を謳歌することのできる知のちからとそのはたらき。
の五つである。<根源の知>
(八)「円鏡力の故に実覚智なり」(以上の五つの知によって、すべてが鏡のように照らし出されるとき、真理に目覚めた者になる)
以上の五つの根源の知によって、自然界の秩序が保たれている。その実在している世界のありのままのすがたが、清らかな鏡のように心に照らし出されるとき、そこに個であり全体である確固たる自分がいる。<真理の世界>
Ⅱ言語論
身体があるから、あらゆる生きものが知を発揮することができる。
その知をもって、人間は言語を話す。しかし、その言語によって人間は嘘をつく。また、同じものを見ていても、人それぞれによって見方が異なるから、言語は固定的な実相を表わさないという。そのようなことから、言語の実相とは何かを空海は考察する。それは、世界の実相とは何かを考察することと同じことである。
その理論書が『声字実相義』となった。
以下はその書の序となる〔大意〕(言語の理念)と、〔言語の本質〕を定義する四句の詩型文である。
〔大意〕
「初めに叙意とは、
それ如来の説法は、必ず文字(もんじ)による。
文字の所在は、六塵(ろくじん)その体(たい)なり。
六塵の本(もと)は、法仏(ほうぶつ)の三密(さんみつ)すなわちこれなり。
平等の三密は、法界に遍じて常恒(じょうごう)なり。
五智(ごち)四身(ししん)は、十界(じっかい)に具して欠けたることなし。
悟れる者をば大覚(だいがく)と号し、迷える者をば衆生と名づく。
衆生癡暗(ちあん)にして自ら覚るに由なし。
如来(にょらい)加持(かじ)してその帰趣(きしゅ)を示したまう。
帰趣の本は名教(みょうきょう)あらざれば立せず。名教の興(おこ)りは声字にあらざれば成(じょう)ぜず。声字分明(ふんみょう)にして実相顕(あら)わる。
いわゆる声字実相とは、すなわちこれ法仏平等の三密、衆生本有(ほんぬ)の曼荼(まんだ)なり。
故に大日如来、この声字実相の義を説いて、かの衆生長眠の耳を驚かしたまう。
もしは顕(けん)、もしは密(みつ)、或いは内(ない)、或いは外(げ)、所有(しょう)の教法、誰かこの門戸に由(よ)らざらん。
いま大師の提撕(ていぜい)によって、この義を抽出す。のちの学者もっとも研心遊意せよ。
大意を叙すること竟(おわ)んぬ。」
(言語の理念)
はじめに、言語の理念を論じる。
そもそも知のちからによって真理を説くのは、必ず文字による。
文字は、五感(見る・聞く・嗅ぐ・味わう・触れる)と意識(考える)の六つによって、対象をとらえたものである。
その対象をとらえる主体は、いのちのもつ無垢なる知のちからとそのはたらきによって、あらゆる個体が発揮する三つの活動性(行動性・コミュニケーション性・精神性)にほかならない。
いのちが平等に繰り広げる、これらの三つの活動性は世界にあまねくゆきわたっていて絶えることがない。
また、いのちのもつ無垢なる五つの知のちから(生命知・生活知・創造知・学習知・身体知)と、それらより成るいのちの四つのありのままのすがた(いのちの存在そのもの・多様な種のすがた・種の個体がそれぞれの体質や性格を遺伝してゆくすがた・それぞれに異なる個性をもって生きる個体そのものの自他のすがた)は、いかなる世界にもそなわっていて、欠けることがない。
以上の真理をさとっている者がブッダ(目覚めた人)であり、さとれずに迷っている者が衆生である。
おろかな衆生は、自らさとる方法を知らない。
それでも、自らがそなえもっている無垢なる知のちからが示すところにおもむけば、誰もがさとることができる。
そのもとのところにおもむくには、すぐれた教えによらなければならない。すぐれた教えを興(おこ)すのは、声と字(言語)によるが、その言語が明らかであってこそ、真理をあらわすことができる。
明らかなる言語とは、いのちのもつ無垢なる知のちからとそのはたらきによる三つの活動性によるものであり、それは生きとし生けるものがもともとそなえもっている本質そのものである。
それゆえに、自らのいのちのもつ無垢なる知のちからとそのはたらきによる、真実の言語が発せられ、自らの本質に気づかせ、生きとし生けるものを長き眠りから目覚めさせるのである。
だから、仏教のさまざまな教え、あるいは仏教以外のさまざまな教えであっても、いかなる教えであれ、言語よらぬものはない。
いま、わたくし空海も、わたくしの師のことばと経典に記された文字の導きによって、すぐれた教えを得ることができたから、この理論を説いている。後学の者たちも声と字、すなわち言語によって多くのことを学ぶべきである。
以上で言語の理念を述べおわった。
〔言語の本質〕
(一)「五大(ごだい)にみな響(ひびき)あり」(物質が触れあってひびきが発せられる)
万物の本体をかたちづくっている質料、固体・液体・エネルギー・気体・空間の五つの要素が存在するから、音(声)のひびきが発せられる。それらの音のひびきが質料を離れて存在することはなく、質料こそが音の本体であり、ひびきがその作用である。
(二)「十界(じっかい)に言語を具す」(その音声によって、あらゆる世界に住むものたちが、コミュニケーションをとっている)
一にすべてのいのちがともに生き、美しく調和している世界。
二にすべてのいのちが美しく調和すべく、努力している世界。
三に自己だけが、すべてのいのちが調和すべきことをさとっている世界。
四に教えを聞いて、すべてのいのちが調和するように願う世界。
五に絶対的な秩序を示す神の世界。
六に知識と倫理によって社会秩序を保つもの、すなわち人間の世界。
七に罪を犯すものの世界。
八に動物の世界。
九に飢えの世界。
十に殺し合いや災害による死の世界。
以上の十種の世界に言語(声)がある。
(例えば、一の世界においては美しい自然のひびきと呼応する声があり、二の世界では慈しみの声があり、三の世界では自己だけのさとりの声、四の世界では祈りの声、五の世界では神の声、六の世界では生活・文化・経済・政治・科学・歴史などの知識と礼節と人生に苦悶する声、七の世界では嘘・ののしり・二枚舌の声、八の世界では生存本能の声、九の世界では飢えやのどの渇きに苦しむ声、十の世界では死に面した阿鼻叫喚の声が聞こえる)
(三)「六塵(ろくじん)ことごとく文字なり」(五感と意識の対象になるものは、すべてが文字になる)
音声が意味をあらわすのは、必ず文字による。
その文字(言語)は、
(1)視覚によって見えるもの、
(2)聴覚によって聞こえるもの、
(3)嗅覚によって嗅げるもの、
(4)味覚によって味わえるもの、
(5)触覚によって触れられるもの
と
(6)意識によって考えられるもの
が、ことごとく分別されて起きたものである。
(四)「法身(ほっしん)これ実相なり」(その言語の対象となる世界が、ありのままのすがたで実在している)
音声や文字(名称・概念・数)によってあらわされる対象となる世界が、それ自体としてありのままのすがたで実在している。
Ⅲ意思論
知をあらわす言語をもって、存在はどのように思考されるのか、その思考が導く哲学でもって、人間はどのようにこの世界で生きるのか、そのことを空海は考察する。
まず、「存在は原因と条件から生じたものなのか」の考察からはじまり、その思考の結果、すべての存在に固定的な実体はないとし、生じたものではないもとから存在するもの(本不生)が、変化しながら存在しているのだと定義する。
では、その定義をもって、人間を含めて生きとし生けるものはどのような意思の規範にしたがって生きているのか、空海は三句(因・根・究竟)の教えに到達する。
以下はそれらのことを説く『吽字義』(サンスクリットの「吽(ウン)」字の綴りをもって、存在をあらわす記号<「カ(ha)」・「ア(a)」・「ウ(u)」・「マ(ma)」>とし、その記号を解析することによって、〔存在の本質〕を理論的に定義し、その存在の本質をもって、〔存在の実相〕を解き明かす書。空海教学の根幹をなすテキストとされる)の骨子である。
〔存在の本質〕
(一)「カ字:一切諸法因不可得」(あらゆるものの原因はとらえられないというのが、カ字のもつ真実の意味である)
あらゆる存在は、原因と条件から生じているという認識に対して:すべてのものは常に変化しているから、変化しつづけていることが存在の本質であり、その変化をいくら辿っても、そこに固定的な実体はない。だから、すべての存在は固定的な実体から生じたものでないこと、つまり、不生である。
(二)「ア字:一切諸法本不生」(あらゆるものの本源は不生であるというのが、ア字のもつ真実の意味である)
万物の本源を究めるならば、それはあるがままに存在しているものであり、原因によって生じたものではない。これを本不生(ほんぷしょう)という。
(三)「ウ字:一切諸法損減不可得」(あらゆるものの損や減はとらえることができないというのが、ウ字のもつ真実の意味である)
真にあるものを無いとするあやまった認識に対して:本来生じたものでないもの、つまり、あるがままに存在しているものには、損なうことも減ることもない。
(四)「マ字:一切諸法吾我(ごが)不可得」(あらゆるものの自性はとらえることができないというのが、マ字のもつ真実の意味である)
無であるものを有であると考えるあやまった認識に対して:世界は、あらゆる生きものの自らのいのちにそなわっている無垢なる五つの知のちからと、それらの知が成すいのちの四つのありのままのすがたと、そのすがたをもつもの(個体)が発揮する三つの活動性とによって秩序を保っている。だから、世界全体でみれば、すべての個体は平等であり、個々が特別に得していることは何処にもない。
これらの四つが存在の本質である。つまり、存在の実体性を、人間の論理によって把握することはできない。
だから、この"空(くう)"論理によって、存在する物事への執着がひき起こしている"苦"からの解放ともなるが、逆に、存在のすべてを否定することから、虚無へと人びとを誘うことにもなる。
だが、これらの論理はわたくしたちの概念が生みだした仮象の世界の出来事である。
人間の論理によらなくても世界は実在しているのだ。
その実在する世界に目覚めることが"さとり"なのである。
そこで、その実在を身体・言語・意思に亘(わた)って説いたもの「果分可説」が、空海教学の「三部書」であり、その中の『吽字義』に記す以下の三句をもって、実在する世界の真実のすがた(さとりの世界)とする。
〔存在の実相〕
(一)「菩提心を因とし」(自らがあらかじめそなえもっているさとりを因とし)
本不生である「いのちのもつ無垢なる知のちからとそのはたらき」を因とし、
(二)「大悲を根とし」(かぎりない慈悲を根本とし)
限りない「衣食住の生産とその相互扶助」を慈悲の根本とし、
(三)「方便を究竟となす」(そこから自然に湧き出るあるがままの行為を究極とする)
そこから自然に湧き出るあるがままの行為「行動性・コミュニケーション性・精神性」を究極として、あらゆる生きものがともに生きている。
この三句が束ねたものが「吽(ウン)」の一字であると空海は説き、この一字を唱えることによって、すべての存在が開示し、その開示された存在力と一体となることができると空海はいう。
そうして、その存在力の頂点が「等観歓喜(とうかんかんぎ:すべてのいのちとともに生きることができる喜び)の義」であるとして、『吽字義』は結ばれている。
空海はこの三句について「『大日経』および『金剛頂経』に説かれていることのすべては、この三句に含まれる。もし、広大なる教義を要約し、末端的なことがらを切り捨てて根本に立ちかえるならば、すべての教義はこの三句に過ぎない。千の経典万の論書であろうと、この三句を出ることはない」と「吽(ウン)」字のまとめとして記しているから、この三句が空海教学のすべてであり、生の意思の究極の規範である。
因みに、この三句が説く存在の実相を今日と比較するならば、現代の人間科学の「環境」思想において、「生態学が、生活する有機体と、世界の他の構成要素との機能的連関の科学である以上、人間だけを対象とするということ自身が矛盾である。人間と動物、人間と植物、そうして、人間と無機的自然との交渉を、はじめから問題にしなければならなかった」(梅棹忠夫/吉良竜夫編『生態学入門』の序説より)と定義しているから、その生活する有機体(生命)が物質エネルギーによって為している代謝を因とし、生命を維持できているのは、あらゆる生きものによって行なわれている、衣食住の生産とその相互扶助のおかげであり、そのことが、すべてのものに共通する慈悲の根源となり、多層で広大なるネットワーク(生命圏)が地球上に現出している。その生命圏が存在することによってすべての生きものは、自らのいのちにそなわる無垢なる知のちからとそのはたらきによる、この身このままの行為として「行動性・コミュニケーション性・精神性」を発揮でき、ともに生きられる。
そこに実在する生の根源がある。
さて、こうして「三部書」をつなぐと、空海の説くエコロジカルな人間哲学の全体像と、その教義の言わんとするところの骨格があらわれてくる。
その思想は、明らかに哲学的洞察にもとづいており、今日の言語論や生態学までも先見したものと思えるのだ。
Ⅳ「知」の媒体
空海の『請来(しょうらい)目録』(空海は唐の長安青龍寺の恵果和尚から、インド伝来の密教の正系を受法し、経論・仏像・マンダラ・法具などをたずさえて、806年に帰朝した。そのときに請来した経論などの目録を空海みずからが記録し、それぞれの品目ごとに添え書きをしたもの)に「真理はもとより言語を離れたものですが、言語がなくてはその真理をあらわすことはできません。
絶対真理は物質を絶したものですが、その真理は物質的なるものの存在を媒体として、はじめて証明できるのです。
(そのようなことですから)絶対真理をさし示す物質的なるものの存在に惑わされることが多く、その迷いを取り除くための教え導きには、限りがないのです。
(かといって)目を見張るような不思議さをあらわして説く教えが立派であるはずもなく、ほんとうに尊い教えとは、国を鎮め守り、人びとを幸せに導くことに価値をおくものなのです。
そのように、目標とするところは同じであっても教え導く方法はさまざまであり、とくに密教の説く真理は非常に奥深く、文章(言語)だけでは表現しきれないほどにむずかしいものですから、図画を用いて教義を補い、その教えを開き示すのです」とある。
この図画がマンダラ(曼荼羅)なのである。
前出の「三部書」で説く、身体論(行動性)と言語論(コミュニケーション性)と意思論(精神性)は、それぞれが以下のようなマンダラによって具象化されている。
□唯物的な存在である身体が起こす行動は、「作用」を表現媒体とする「カツママンダラ」となり、
□名称・概念・数によって分別・編集され、コミュニケーションされる物事のすがたは、「文字(言語)」を表現媒体とする「法マンダラ」となり、
□個別に表現・発揮される精神活動は、「シンボル」を表現媒体とする「サンマヤマンダラ」となり、
□以上のすべてが集まった包括的な世界像は、「イメージ」を表現媒体とする「大マンダラ」となって、今日に伝えられる。
これらのマンダラの表現媒体となっている、作用・文字・シンボル・イメージは、今日の科学や情報化社会において用いられる、表現・伝達のための媒体とまったく同種のものであり、その手法がすでにマンダラに見られるのだ。
このように、空海の哲学を学べば、そこに今日の「知」のすがたの原型がある。
空海の教義は、そのような普遍性を秘めたものなのだと思う。
Ⅴ人間学
また、付記するならば、前述した今日の人間科学思想書『生態学入門』の序説には「人間とはどういうものか?人間を理解するのに、人間と自然とを対比としてとりあつかうのも一つの方法であり、また、人間を自然の一部としてとりあつかうのも一つの行き方である。後の行き方をとるならば、自然というのは世界と同義であり、その場合、問題はこの世界において、人間とはどのような位置を占めるか、ということになる。
この世界に存在するあらゆるものとともに、人間もまたこの世界の構成要素の一つであることは疑いない。世界における人間の位置づけとは、世界の他の構成要素と人間との関係を明らかにすることにほかならない。関係を明らかににし、さらに、なぜそのような関係においてあるかを明らかすることにほかならない」と記されている。
この今日の思想に課せられた学問的命題は、一千年以前に空海が学問的テーマとしたこと《人間という世界の構成要素の一つであるものが、その身体・言語・意思のはたらきをもって、世界の他の構成要素とどう関わって生きて行くのか、その関わりに真理はあるのか、真理があるとすれば、その真理をどうすれば「知る」ことができるのか》と同じであり、その答えをとっくの昔に空海は出していたのだ。
今日を生きる者も、空海をよくよく学びたいものである。
Ⅵ真理を開く鍵
さて、空海教学を今日的に読み解いてみたが、その要点を箇条書きすると、次のようなことになる。
一、あらゆる生きものが広義の意味での「知」を発揮しているのは、身体が存在するからであり、その身体は物質をもととしているから、物質間のバランスをはかることが知の本来の目的である。〈『即身成仏義』〉
二、声字(言語)の対象となる世界が、それ自体としてありのままに実在する。(そのありのままの世界が調和しているすがたは"世界に大きく広がる蓮の根と葉と花のようである"と空海は記す〈『声字実相義』〉
三、あらゆる生きものが、無垢なる知のちからを因とし、限りない慈悲を根本とし、そこから出てくるあるがままの行為を意思として、ともに生きている。〈『吽字義』〉
四、「知」を表現・伝達しているのは、イメージ・シンボル・文字・作用の四つの媒体である。〈『マンダラ』〉
この四点が、「世界の他の構成要素と人間との関係」を明らかにする空海の答えである。
開かれた密教を目指し、空海思想の今日化に尽力された宮坂宥勝氏(みやさかゆうしょう、1921年-2011年。1999年より2007年まで真言宗智山派管長・総本山智積院化主第68世。インド哲学・仏教・密教の研究者、文学博士)は、その著作『空海密教の宇宙-その哲学を読み解く』(2008年刊)の終わりに、次のようなことを述べられている。
「密教に対しては疎外(そがい)もしくは関心の埒外(らちがい)にあった時代が長い間つづいてきた。
日本仏教史観も大きく変革してきた今日において、密教という宝庫を伝統的な教学に閉じ込めたままにしておくのでなく、時代の趨勢(すうせい)に順じて解明すべきことを、さらにさまざまな分野において開拓してゆくべきである。
空海の『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』における十住心(じゅうじゅうしん)体系の序詩に
"顕薬(顕教の教え)塵(ちり)を払い、真言、庫(くら)を開く"
とある。これは九顕(くけん)一密(いちみつ)の立場から暫定的に顕教と密教とを弁別したものである。が、今日、"真言、庫を開く"という真意は、また改めて現代的に再解釈してみてもよいと思われる」と。
さて、この庫とは、見かけの世界に対する今日只今の真に実在している世界のことに他ならないと思われる。
その庫へのアクセスを身体・言語・意思に亘(わた)って空海は論じた。
その教義の鑰(かぎ)を用いて、庫を開く。
結び-ありのままの世界-
空海59歳のとき、高野の山の自然の道場で、多くの弟子たちと満天の星のもと、万の灯明と万の美しい花をささげ、すべてのものが自然の中でともに生きていることに感謝して祈った。
その祈りを締めくくっているのが次の言葉である。
「六大(ろくだい)の遍(へん)するところ、五智(ごち)の含(がん)するところ、虚(そら)を排(はら)い、地に沈み、水に流れ、林に遊ぶもの、すべてこれわが四恩(父母・国王・衆生・三宝)なり。
同じくともに一覚(いっかく)に入(い)らん。天長九年八月二十二日」(『遍照発揮性霊集』巻八所収、高野山万燈会の願文より)
六大のあまねくゆきわたるところ
五智を内に包みもつところ
鳥は大空に羽ばたき
虫は地にもぐり
魚は水に泳ぎ
けものは林に遊んでいる。
すべてのいのちは
生を授けてくれた親と
住み場となる国土の安泰を守る善き為政者と
生きとし生けるものすべてによる衣食住の生産とその相互扶助のはたらきと
そのはたらきをもたらしているいのちのもつ無垢なる知のちからと
それらのちからによって生みだされる真理と
その真理を教え守る者たちによって生かされている。
それらのおかげに深く感謝します。
ともに清らかなる共生世界に入らせたまえ。
832年8月22日
このように、禽獣虫魚(きんじゅうちゅうぎょ)と草木(そうもく)による生物のすべてと、その中の一員である人間とが、いのちのもつ無垢なる知のちからとそのはたらきによってともに生きている。
これ以上に開かれた世界が何処にあるだろうか―
「同じくともに一覚に入らん」。
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