宇都宮城跡の蓮

https://blog.goo.ne.jp/ohgalotus/e/db0933530476d034ea1ef68d1e2ea014  【宇都宮市で第1回観蓮会】  より 

昨日宇都宮市で観蓮会が開かれました。

昨年春、宇都宮城跡再生検討委員会によって城跡上蓮池跡地から64個の蓮の実が発掘され、その中の2個を発芽処理したところ、両方発芽し順調に育っているようです。それを見守り育てていこうと、同委員会の手で第1回観蓮会が開催されたようです。残念ながらまだ花芽が立っていないようですが、ハスの季節はこれからですので、同委員会の方々や宇都宮市民の人々は、水面に花芽が現れるのを首を長くして待っているとのことです。


https://blog.goo.ne.jp/ohgalotus/e/ca97ea7371a45d7caf460a579e4bd94c  【大賀池日記】より

和歌山大賀ハス保存会のブログです。大賀池は和歌山県日高郡美浜町三尾にあります。

【宇都宮城跡蓮池再生検討委員会】

2012-07-13 21:52:27 | 宇都宮

栃木県宇都宮市で宇都宮城蓮池跡から室町時代からの蓮の実を発掘して発芽開花させ、それを起爆剤に地元宇都宮の活性を図ろうとする標記の会が、当会が5月に発刊した記念誌「蓮の実」を購入してくださいました。6月25日発行の「蓮池の夢通信」にそのことを掲載してくださいましたのでご紹介させていただきます。

検討委員会が発掘発芽させたハスの一つが昨年7月18日に開花しましたが、大賀蓮にそっくりなのです。それに開花した日も大賀蓮が最初に開花した日と同じなんです。


http://blog.goo.ne.jp/ohgalotus/d/20110912  【大賀蓮にそっくり】より

2008年に宇都宮城の壕跡から発掘された古蓮実が、7月18日にやっと開花したようです。

(* ‘∇‘)/°・:*【祝 開花】*:・°\(‘∇‘ *)

その花の写真を見せていただいてビックリ!大賀蓮にそっくりなのです。他人の空似なのか、親戚筋にあたるのか・・・ ロマンが広がります。


https://mainichi.jp/articles/20160722/ddl/k09/040/066000c  【ハス城跡に咲く日を夢に見 華麗な「印南蓮」、市民らが鑑賞会 宇都宮 /栃木】会員限定有料記事 毎日新聞2016年7月22日 地方版  より

宇都宮城の蓮(はす)池とハスの再生を目指す宇都宮市の市民グループ「宇都宮城跡蓮池再生検討委員会」のメンバーらがこのほど、同委員会の印南洋造事務局長宅(宇都宮市平出町)で、宇都宮城址公園近くの蓮池跡から採取したハス「印南蓮」の鑑賞会を行った。

 印南蓮はピンク色の花びらで、大型の古代ハス。ハスは6月中…


https://www.sankei.com/region/news/181026/rgn1810260007-n1.html  【宇都宮城「印南蓮」など研究成果発表 宇都宮大で植生学会】  より   2018.10.26 07:06

宇都宮市の市民グループ「宇都宮城跡蓮(はす)池再生検討委員会」の印南洋造事務局長は宇都宮大(宇都宮市峰町)で開かれた植生学会の全国大会でポスター発表に参加、研究者に宇都宮城の蓮文化を紹介した。

同会は宇都宮城跡の蓮池再生を目指し、平成18年に発足。発掘調査で出土したハスの実を育成し、23年に460年ぶりに開花させ、「印南蓮」と命名した。蓮池と宇都宮の歴史を後世に伝えていこうと、ハスの写真や俳句のコンテスト、講演会などを続けている。

学会では、「宇都宮城蓮池跡の古植生の解析と蓮を活かしたまちづくり」と題し、同会の活動や研究成果について発表。千葉市の「大賀ハス」と「印南蓮」の経緯や調査方法を比較し、ハスの特徴を紹介すると共に、「大賀ハス」や「古代ハス」などの表記についても明確な定義が必要と提言した。印南さんは「研究者たちに宇都宮城の蓮文化を発信できる機会を持てたことは良かった」と話している。(松沢真美)


https://www.tokyo-np.co.jp/article/47946【ハスの名所 写真やマップで紹介】

印南さんが20年ぶりパンフ改訂 宇都宮市 2020年8月9日 07時38分  より

宇都宮城跡のハスの再生を目指している市民グループ「宇都宮城跡蓮池再生検討委員会」事務局長の印南洋造さん(70)=宇都宮市=が、栃木県内のハスの見どころを紹介するパンフレット「栃木の花蓮」を発行した。マップや写真などで厳選した24カ所を掲載している。(原田拓哉)

印南さんはハスの魅力をPRしようと、二〇〇〇年にパンフレット「栃木の花蓮」を作成している。今回は二十年ぶりの改訂版だ。ハスの名所だった場所で、管理者が高齢になるなどの理由から群生地が消滅するケースも出てきているという。このため、新たな情報を盛り込んだパンフレットに手直しした。

マップのほか、ハスの句を数多く詠んだ与謝蕪村の作品を紹介している。蕪村は宇都宮市にもゆかりが深く、二荒山神社に句碑がある。

改訂版には、新たに県なかがわ水遊園(大田原市)、県とちぎ花センター(栃木市)を新たに加えるなどし、二十四カ所を示している。その中でも、陽山紅蓮(ようざんこうれん)と呼ばれる品種が咲く那須町の県立那須高校近くの休耕田や、スイレンとハスのコントラストが見られる小山市の高椅(たかはし)神社などがお薦めという。A4判二つ折りで、二千部発行(一部五百円)。県立博物館と県とちぎ花センターで販売しているほか、県内の図書館に配布した。

印南さんは「ハスの花は、お祝いの花でもある。ハスの文化を多くの人に知っていただければ」と話している。


https://utsunomiya-8story.jp/wordpress/wp-content/themes/utsunomiya/image/archive/contents08/pdf_02.pdf 【宇都宮城の歴史】より

近代の宇都宮城①

「役割を終えた宇都宮城」

明治2年(1869年)の版籍はんせき奉還後ほ う か ん ごも,旧宇都宮藩主・戸田と だ忠

ただ友ともは藩知事として旧宇都宮藩の領地を治めていましたが,明治4年(1871年)の廃藩はいはん置県ち け んによりその職を免ぜられ,東京に移住しました。

城主を失った宇都宮城は,このとき約800年にも及んだ「城」としての役割を終えたといってよいでしょう。

明治5年(1872年)に陸軍は宇都宮城内に兵営を設置。宇都宮城跡は軍用地となりました。しかし,明治17年(1884年)軍隊は佐倉さ く ら(千葉県)に移転していき,兵営の建物はすべて撤去されました。

明治22年(1889年)に陸軍は,空き地となっていた宇都宮城内の軍用地を払い下げる方針を決定。翌年には9万坪以上の広大な土地が旧藩主・宇都宮町・町民などへ払い下げられました。こうして宇都宮城跡は徐々にその姿を消していくこととなるのです。

近代の宇都宮城②

「変わりゆく宇都宮城跡地①」

明治24年(1891年)には現在の「みはし通り」が開通し,二荒山神社と宇都宮城御本丸跡とが南北に往来できるようになりました。しかし同時に三の丸北東部の堀が埋め立てられて消滅しました。

明治26年(1893年)には,現在の中央小学校付近にあった三日月み か づ き堀ぼり(太鼓門た い こ も んの外側にあった半円形の堀)が埋め立てられました。また,明治27年(1894年)には曲師町から宇都宮城南 館みなみだて跡に通ずる,現在の「本丸西通り」が開通し,それに伴い二の丸の堀の一部が埋められました。

明治30年代になると,本丸跡は「公こう楽園らくえん」という園地となり,以後,いろいろな催し物が開催される市民の憩いの場となっていきました。

また同じころには,本丸東側にあった「蓮池はすいけ」という堀が埋め立てられ,耕地として利用されるようになります。

近代の宇都宮城③

「変わりゆく宇都宮城跡地②」

明治33年(1900年)には,西館にしだて跡(現・宇都宮市役所付近)に宇都宮市立伝染病院が設置され,昭和9年(1934年)まで存続しました。大正時代には,宇都宮城の東半分の堀と土塁はほぼ消滅して市街化しました。

宇都宮城の北部から北西部にあたる範囲には,大正15年(1926年)の地図を見ると,市役所(現・NHK宇都宮放送局付近)・陸軍の連隊区司令部(現・産業会館付近)・税務署(現・中央郵便局付近)・中央小学校(現存)・県立病院(現・中央生涯学習センター付近)・警察署(現・総合福祉センター付近)・刑務所(現・東武宇都宮駅付近)など,公共施設が立ち並んでいる様子が分かります。

昭和10年(1935年)には本丸周辺が「風致地区」(緑地などの景観を保全する場所)になったものの。範囲が限られていたこともあり,残っていた城の西部にも開発の手が入っていきます。

百 間ひゃっけん堀(現・栃木農政事務所付近)は,埋め立てによって昭和14年(1939年)ごろには消滅し,堀の内側の土塁の上にそびえる「旭町の大イチョウ」を残すのみとなりました。

近代の宇都宮城④

「生き残った旭町の大イチョウ」

戦争が激しくなってくると,宇都宮城の敷地内にも数多くの防空ぼうくう壕ごうが掘られました。その多くは,深さ2m,幅2m,長さ5~10m程度の長方形の穴を掘り,板や材木で覆って土をかぶせた半地下式のものです。

しかし旧二の丸に掘られたもののなかには,地下をトンネル状に掘り進んで,本丸の堀まで避難できるようにしたものもありました。

昭和20年(1945年)7月12日深夜,宇都宮はアメリカ軍による焼夷弾しょういだん爆撃ばくげきを受けました。焼夷弾は市街地の東半分に多く投下され,まちは広範囲に失。死者は620人以上にのぼりました。

旧二の丸部分の住民の中には,東側から迫ってきた火災を避けるため,本丸西側の堀に飛び込み,堀の水を浴びながら土塁に身を寄せて難を逃れた人もいたそうです。

宇都宮城跡は,現在の宇都宮城址公園や市役所本庁付近など,西側に三重の堀が残っていました。焼夷弾の落下が少なかった市街地の西半分でも,延焼によって焼失した部分もありましたが,堀・土塁が残っていた場所は西側への延焼が少なかったようです。

宇都宮城ゆかりの木である「旭町の大イチョウ」は,火災で黒く変色し,枯死が懸念されましたが,生き残ることができました。現在もその姿を見ることができます。

近代の宇都宮城⑤

「ほぼ地上から姿を消した宇都宮城」

宇都宮城跡のうち,本丸から西側には,戦後になっても三重の堀が残っていました。それらの堀のうちのひとつ,三の丸外側の堀である西舘にしだて堀の一部は,昭和28年(1953年)に埋め立てられ,市体育館(通称スポーツセンター,現在の市役所本庁舎付近)が建設されました。

西舘堀の残りの部分と地蔵じ ぞ う堀(現在の旭1丁目から2丁目にかけて)は,昭和36年(1961年)から埋め立てが始まり,昭和40年代のはじめごろには完了しました。

本丸跡(本丸町)の一部では,昭和41年(1966年)にスケート場と遊園地が建設されました。そして,最後まで残っていた本丸の南西の堀も昭和47年(1972年)ごろから埋め立てが行われました。こうして堀・土塁などの宇都宮城の遺構は,昭和40年代にほぼ地上から姿を消し,御本丸ご ほ ん ま る公こう園えん(現・宇都宮城址公園)内や大イチョウ付近などに残った土塁の一部に昔を偲しのぶのみとなりました。

近代の宇都宮城⑥

「宇都宮城跡の発掘調査の開始」

堀・土塁の大部分が消滅した後も,宇都宮城ご本丸ほんまる跡の一部は,御本丸公園として市民に利用され,親しまれていました。公園内には,噴水や園路が設けられ,樹木や草花が植えられた緑豊かな公園で,散策する人々の姿が数多く見られました。

宇都宮城跡は,それまで埋蔵文化財包蔵地(遺跡)としての取り扱いがされていませんでしたが,御本丸公園となっている部分が昭和58年(1983年)に遺跡として登録されました。昭和の終わりごろ,御本丸公園を造り替えようという構想が立てられました。その工事によって,地下に眠る遺跡に影響が及ぶことが予想されたため,発掘調査を実施して記録を残すことになりました。発掘調査は平成元年(1989年)から開始されました。

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