とちぎ 歌碑・句碑探訪「名歌、名句 ここにあり」

https://www.shimotsuke.co.jp/articles/-/368510 【とちぎ 歌碑・句碑探訪「名歌、名句 ここにあり」】より

秋も本番になってきました。芸術の秋、読書の秋ですが、県内には有名な句碑・歌碑がたくさんあります。その中で、今回は日本を代表するような俳人、歌人、小説家の詠んだ俳句と短歌とそれを刻んだ句碑や歌碑を紹介します。紙上での文学散歩をお楽しみください。

 俳聖の足跡たどり追体験    

雲巌寺 ~大田原~

生涯に約1000句を詠んだという俳聖松尾芭蕉。1689(元禄2)年に弟子の河合曽良と深川を出発し「おくのほそ道」の旅へ。後に有名な「おくのほそ道」を執筆しました。  

その旅の中で、大田原市黒羽に最も長い期間となる14日間滞在。黒羽に到着して3日目の4月5日に雲巌寺にある参禅の師、仏頂和尚の山居跡を訪ねた時の句です。  

市黒羽芭蕉の館学芸員の新井敦史さん(53)は「芭蕉は黒羽から雲巌寺まで12㌔を歩き訪ねます。キツツキは寺ツツキの異名があり、寺の屋根をも壊すとされる鳥です。そのキツツキでさえも、敬意を払い仏頂和尚の庵は破らずに、夏木立の中に今もこうして残っているとの思いを詠んだ、師への尊敬の念を込めた句です」と話します。  

 敬愛する正造の墓のそば    

惣宗寺 ~佐野~

佐野厄除け大師として多くの参拝者が訪れる春日岡山惣宗寺は、足尾鉱毒問題に取り組んだ田中正造が演説会の会場などに使用し、本葬が執り行われたことでも知られます。境内には渡良瀬川流域産の大きな自然石でつくられた正造の墓があり、傍らには「一握の砂」で有名な石川啄木の歌碑が建っています。 

1901年、正造が足尾鉱毒被害の救済を求めて明治天皇に直訴したことは、センセーショナルな出来事として全国的な話題となりました。

盛岡中学4年生だった啄木は、正造の直訴に感銘を受けて歌を詠み、鉱毒被害民へ義損金を贈ったというエピソードが残ります。啄木生誕百年を記念して建立しました。

 交流、そして再会の記録   

ホテルニュー塩原 ~那須塩原~

生涯で数回塩原を訪れたことのある谷崎潤一郎。潤一郎は、1921(大正10)年の夏から初秋にかけての1カ月、宮本ウメさん宅に逗留していました。その後、57(昭和32)年に再度塩原を訪れたときに、お世話になったウメさんとの36年ぶりの再会と、80歳を超えたウメさんの長寿の祝いと合わせて詠んだ祝いの歌。  

琴を立てかけたよう見えることから名前が付いた「七絃の滝」。文学碑はそのすぐ近く、ホテルニュー塩原の駐車場に建っています。

 塩原への愛 二人で100首  

せせらぎの湯宿満寿家 ~那須塩原~

1910(明治43)年に初めて塩原を訪れ、34(昭和9)年にも来塩。塩原を詠んだ歌は二人合わせて100首以上の作品が残り、文芸雑誌「冬柏」に鉄幹作41首、「塩原遊草」として晶子作59首が掲載。晩年までおしどり夫婦として仲睦まじい様子だった二人。  

竜化の滝に行く道中の風景を歌った2作品は直筆を模写したおしどり歌碑として「せせらぎの湯宿満寿家」の玄関前に建っています。

 目に映る自然に溶け込む    

花石神社 ~日光~

1922年10月末に、群馬県から金精峠を越えて日光を訪れ、湯元と中禅寺に各1泊、日光町に住む友人斎藤江塘宅に2泊して宇都宮市に向かった若山牧水が、馬返から電車に乗り鳴虫山を眺めて詠んだ一首。

花石神社は、日光連山18の山の神を祭っており、1645(正保 2)年に徳川三代将軍家光公が社殿を改修した、二荒山神社の末社。現在は自治会が管理しています。鳥居をくぐると日光市指定文化財である大杉がそびえたち、奥に美しい朱塗りの社殿が建つ知る人ぞ知る神社です。

歌に詠まれている鳴虫山を望む花石神社に歌碑を建立。高さ2㍍の根府川石に、牧水の自筆で刻まれています。  

 秋のたそがれ、しみじみと   

湯っ歩の里 ~那須塩原~

歌人でもあり小説家でもあった節。病気の転地療養を行うため2カ月間滞在のほか、何度か塩原には訪れています。  

この歌は、日暮れ時のやや物悲しい秋の塩原の情景を詠った歌。短い生涯だった節は、正岡子規を師事していたこともあり、夏目漱石が娘にも読ませたい小説と言っていたほど素晴らしい文学者だったと伝えられています。

歌碑は湯っ歩の里の開設に伴い2006(平成18)年に建立。ほかに夏目漱石と室生犀生の文学碑も同園庭に建立されています。  

 いにしえの情景 浮かべて    

大神神社 ~栃木~

(栃木市史より)

平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公家・歌人の藤原定家の詠んだ歌(新勅撰和歌集)。都に駐屯する衛士がかがり火をたいているのを見て、霧がかかる室の八嶋の情景を詠んだと考えられています(諸説あり)。  

室の八嶋は平安時代以来、「煙(けぶり)たつ室の八嶋」として知られた東国の歌枕。定家の時代に下野国のどこであったか場所が特定できず、時代によっても変わっている可能性があります。  

栃木市惣社町の大神神社境内の室の八嶋は、池の中に橋で結ばれた八つの小島があります。境内に松尾芭蕉の句碑などもあります。  

 改名前、掛詞も華麗に   

宇都宮二荒山神社 ~宇都宮~

江戸中期の俳人・画家である与謝蕪村は、宰鳥(さいちょう)と号していた修業時代に、松尾芭蕉の行脚生活に憧れて東北地方を周遊。1743(寛保3)年年末から翌年正月にかけて宇都宮の俳人佐藤露鳩(るきゅう)宅に滞在。その時に編集発行した歳旦帳(宇都宮歳旦帳)の表紙には「寛保四甲子 歳旦歳暮吟 追加春興句 野州宇都宮 渓霜蕪村輯(しゅう)」と記されており、宇都宮で「蕪村」と名乗ったと言われています。  

この句は、宇都宮二荒山神社で新年の夜明けを迎えた鶏が、勢いよく羽ばたいている姿を詠んでいます。また、「羽をうつ」と「宇都宮」「宮」と「宮柱」とを掛けた華麗な句で、宰鳥として詠んだ最後の句とされています。  


https://www.touken-world.jp/edo-domain100/utsunomiya/ 【宇都宮藩(うつのみやはん)[栃木県] /ホームメイト】より

260年続いた江戸時代において、約300近くの藩が全国各地に存在していました。

ここでは、主な江戸100藩のひとつである関東・甲信越地方の「宇都宮藩」(うつのみやはん)[栃木県]について、石高や居城、藩主といった藩の概要や歴史、治世などのエピソードを交えて解説します。

(略)

赤穂浪士も参考にした「浄瑠璃坂の仇討ち」(じょうるりざかのあだうち)

鎌倉・室町時代から下野国(しもつけのくに:現在の栃木県)を始めとする各地の守護職を務め、戦国時代には関東八家にも数えられた名門・宇都宮家(うつのみやけ)。

「豊臣秀吉」の世になって「太閤検地」(たいこうけんち)で石高を過少申告していたことが発覚したため所領没収のうえ改易となりますが、宇都宮の名はそのまま残って今もなお引き継がれています。

「日光東照宮」(にっこうとうしょうぐう)が建立されてからは、宇都宮城が徳川家参拝時の宿泊地とされ、城下も宿場町として大いに栄えました。

また、現在の宇都宮市北西部・大谷町一帯から採掘される大谷石は、軽くて加工しやすい上に耐火性に優れるとして飛鳥時代から古墳などに使用されてきた物です。江戸時代には一般用のかまどなどにまで広く使われるようになり、もともとは農閑期に副業として行なっていた石切を本業とする農民が増加します。

これにより、一時的にはかなり潤ったと言うことですが肝心の農業は衰退してしまい、16世紀末から17世紀に入って天災が相次ぐと藩の財政は逼迫。農民の暮らしも困窮することとなりました。

正式に「宇都宮藩」(うつのみやはん)として成立したのは1601年(慶長6年)、「徳川家康」の娘婿である「奥平信昌」(おくだいらのぶまさ)の嫡子、つまりは家康の孫にあたる「奥平家昌」(おくだいらいえまさ)が10万石で入封してからのこと。

しかし、家昌は1614年(慶長19年)に38歳の若さで病没。長男の「忠昌」(ただまさ)が家督を継ぐことになりますが、このときまだ7歳の幼子で、「関東の要衝を任せるには若すぎる」との幕府の意向から下総(しもうさ)「古河藩」(こがはん:現在の千葉県と茨城県)に移封となります。

このあとを継いで藩主となったのは、幕府の重臣「本多正純」(ほんだまさずみ)でしたが、宇都宮城に釣天井を仕掛けて2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)の暗殺を謀ったとの嫌疑から本多家は改易、正純は流罪となりました(通称:宇都宮城釣天井事件。実際にそうした事実はなく、他の徳川家臣による策謀であったと言われています)。

そののち、奥平忠昌が再封しますが、その死後には、かの「赤穂浪士」も参考にしたと言われる事件「浄瑠璃坂の仇討」が勃発。

1668年4月13日(寛文8年3月2日)、忠昌の法要において、ささいなことから口論になった「奥平内蔵允」(おくだいらくらのじょう)と「奥平隼人」(おくだいらはやと)。内蔵允は、怒りに任せて抜刀したが返り討ちの刀傷を負います。この失態を恥じた内蔵允は、その夜のうちに切腹してしまいました。

その半年後、この件に対する藩からの処分が下されます。内蔵允の嫡子「源八」(げんぱち)は、家禄没収の上に藩から追放。しかし、もう一方の当事者である隼人は単に改易を命じられただけと言う不公平なものでした。

源八への同情が集まり仇討の機運が高まると、これを助太刀するために脱藩する者も現れて40名以上が参集。浪士達はまず隼人の実弟を討ち取ると、本命である隼人討伐に向けての作戦計画が練られることとなります。

そうしてことの発端から4年が過ぎた1672年(寛文12年2月3日)の未明、源八とその一党42名はついに隼人の潜む江戸市ヶ谷浄瑠璃坂の屋敷へ討ち入り、悲願を果たしたのでした。

源八ら一党は、直後に幕府へ出頭して裁きを委ねると(赤穂浪士が討ち入り後に出頭したのもこれに倣ったものと言われます)、その殊勝な態度に感銘を受けた大老「井伊直澄」(いいなおすみ)は切腹ではなく伊豆大島への流罪を申し渡したのです。

なお源八はその6年後、恩赦によって赦免されて「彦根藩」(ひこねはん:現在の滋賀県)の「井伊家」(いいけ)に召し抱えられています。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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