よもやま句歌栞草

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https://japanknowledge.com/articles/shiorigusa/01.html 【よもやま句歌栞草 Vol.1都市】より

「都市」「食」「恋」などといったさまざまなキーワードを採り上げ、それをモチーフとした俳句や短歌を鑑賞していきます。 中村 裕(俳人・編集者)

Vol.1都市

さかり場に鉄骨立てり近松忌  山口誓子

街燈は夜霧にぬれるためにある  渡邊白泉

街の上にマスト見えゐる薄暑かな  中村汀女

河終る工場都市にひかりなく  高屋窓秋

大寒の街を無数の拳ゆく  西東三鬼

新聞紙すつくと立ちて飛ぶ場末  三橋敏雄

微笑のみ町の確かさ黒夕焼  鈴木六林男

大阪やラムネ立ち飲む橋の上  伊丹三樹彦

早春の落日直角ばかりの街  沢好摩

街角のいま静かなる立夏かな  千葉皓史

風暗き都会の冬は来りけり帰りて牛乳ちちのつめたきを飲む  前田夕暮

活動の幟音なく群集の、上にうごけり、空暮れのこる  。西村陽吉

新シリーズ「よもやま句歌栞草」は、一般の俳句歳時記が行なっているように季語ごとに分類して例句を挙げていくのではなく、直接、季節とは関係をもたない現象や事物によって、明治以降の俳句や短歌を分けて、紹介していこうというものである。第1回目は「都市」。

とはいっても都市自体を対象とした俳句はきわめて少ない。都市が都市たるゆえんは、可能なかぎり季節などの自然条件に左右されず、恒常的に人々が仕事をし、生活を営むことのできる点にある。そのような自然と対立する人工的な空間が都市なわけだから、現在の俳句の大勢を占めている、季語をかならず詠み込まなければならないとする有季定型俳句の立場からは、そもそも都市は対象にしにくいものである。時候、天文、気象に関するものはともかく、農山漁村といった自然に恵まれた環境で出会うことのできる季物を、人工空間である都市で見出すことはなかなか困難である。にもかかわらずこのシリーズの第一回目に都市を選んだのは、俳句(俳諧)の起こりそのものに都市は深い関係があると考えるからである。

松尾芭蕉は、言語遊戯の色彩の強かった俳諧を、和歌などに匹敵する文芸ジャンルに引き上げた、いわば俳諧ひいては俳句の創業者。その芭蕉が生れ故郷の伊賀上野を離郷して、江戸に下ることがなければ、おそらく後年の芭蕉は考えられない。ということは今日の俳句もなかったということである。新興都市であった江戸をバックグラウンドとして、芭蕉のめざす新しい俳諧がその産声を上げたのである。

さて俳句や短歌に限らないが、日本の文化現象にはほぼ例外なく「雅」と「俗」の別があった。それからすると和歌はまさしく雅の世界のもの、そして俳諧は俗のものであった。雅な和歌は京都を地理的中心とする貴族の世界で育まれたのに対して、俗なる俳諧はそれ以外の江戸や大阪の庶民や武士を主な担い手として育っていく。雅な表現では、すでに出来上がった世界に向けて、表現が従っていこうとする。したがって使う言葉も広く認められた先例のある語、つまり雅語や歌語といった言葉に限られた。そしてその担い手は先例についての共通で豊富な知識をもつ層におのずと限られた。それに対して俗なる俳諧の対象とする世界は、未知なる先例のない世界。その担い手も貴賎上下さまざまで、都市とはいえ京都が貴族や町衆の伝統的な共同体が根強い力で結びついた社会をつくっていたのに対し、江戸は種々の階層に分断された個としての人間の集まり。そこを揺籃として俳諧の花は開いたのである。

ただ芭蕉自身は、俳諧の俗に和歌の雅をいかにとり込んでいくかということに心血を注ぐわけで、だからこそ漂泊の旅に出たのだし、晩年の高い境地に達することができたといえる。したがって和歌、京都の雅vs俳諧、江戸の俗といった単純な色分けは危険だが、少なくとも俳諧、江戸の俗なる世界を通過することがなければ、その後の芭蕉も俳句もなかったということだけはいえる。

さてその芭蕉が江戸を詠んだ句といえば「秋十とせ却つて江戸を指す故郷」が名高い。江戸に出てきて10年がたつが、久しぶりに帰郷するにあたり、かえって江戸が自分のほんとうの故郷のような気がするというのである。江戸という都市と俳人芭蕉との深く、また単純ではない関係をうかがわせる句である。芭蕉の敬愛した西行は「世の中を捨てて捨てえぬここちして都離れぬわが身なりけり」という歌を残している。芭蕉の句とは対照的な内容だが相通じるものもあって面白い。芭蕉の弟子の其角(「鐘ひとつ売れぬ日はなし江戸の春」)や嵐雪は、洒脱な都会的な作風で人気を博すが、それは江戸という都市を客観視したり、正面から向き合うといったものではない。その点では、芭蕉没後70年ほどして生れた一茶の一連の江戸をモチーフとした作品(「家なしも江戸の元日したりけり」「江戸桜花も銭だけ光るなり」等)が、当時の庶民の屈折した江戸観がうかがえて興味深い。

明治に入り、江戸が東京となっても、都市というものが俳句に意識的に詠まれるということはあまりない。正岡子規の「そこらから江戸が見えるか奴凧」や内藤鳴雪の「日あたりや江戸を後ろに畑打つ」など、長閑かなものである。ところが昭和になって、プロレタリア文学の勃興やモダニズムといった風潮を背景に、伝承俳句の牙城「ホトトギス」に反発する動きが出てくるとともに、都市が積極的に俳句でも詠まれるようになる。

その口火を切ったのは山口誓子。彼は「近ごろ私が試みにうたつてゐるのは工場、造船場、ドツク汽船、商館、スケートリンク、ホテル、ダンスホール。……都会の生活、生産ならびに消費の両部面にわたって俳句の領域を拡大してゆきたいといふ意図である――なぜなら私は都会生活者だから……」と書いているように、自然にだけではなく、都市にも俳句の領域を拡大しようとした。「さかり場に」はその記念碑的な作品である。つづいて石田波郷も「バスを待ち大路の春をうたがはず」「プラタナス夜もみどりなる夏は来ぬ」などの東京の風物に触発された清新な作品で注目された。誓子の都市俳句の影響は大きく、昭和10年頃から勃興してくる新興俳句運動でも、都市は積極的に取り上げられた。渡邊白泉、高屋窓秋、西東三鬼、三橋敏雄、鈴木六林男などの作品はその大きな成果である。戦後も伝承俳句の流れとは別に、都市は俳句に詠まれつづけるが、沢好摩の「早春の」のように、いかにも都市でなければ目にできないようなものの描写だけではなく、都市そのものの変容を背景にしたような句も増えてきた。千葉皓史の「街角の」は、逆に都市の不在といったものを喚起する新しい都市俳句の傾向といえるかもしれない。


https://japanknowledge.com/articles/shiorigusa/21.html【よもやま句歌栞草 Vol.21地】より

「都市」「食」「恋」などといったさまざまなキーワードを採り上げ、それをモチーフとした俳句や短歌を鑑賞していきます。 中村 裕(俳人・編集者)

Vol.21地

土地、地面に関した季語としては四季を冠したそれぞれの「野」や「野原」、「末黒野〈すぐろの〉」「焼野」「枯野」といった野の様態をいったもの、それから田んぼである。稲作は日本の農耕の根幹であり、日本人のキャラクターをつくってきた重要な要素であるから、四季にわたる田んぼを「春田」「水田」「青田」「旱田〈ひでりだ〉」「稲田」「刈田」とさまざまに細かく言い表してきた。日本人にとって「地」はまずなんといっても恵みをもたらすものとしてあった。「野」であっても、大地を駆けめぐった狩猟採集時代を思えば、やはりそれは恵みをもたらすものであった。しかし農耕という生産手段に基づいた定住社会の始まりは、一方で環境破壊の開始でもあり、また土地の占有をめぐっての醜い抗争の開始でもあった。つまりは生産と破壊というあい矛盾する営みを大地に記してきたのが、地上生活者であらざるを得ない人間の歴史であったといえるのである。そのような「地」における人間の営みは、さまざまな複雑な思いを人間に抱かせてきた。その一端を「地」を詠んだ俳句でみていきたい。

蟋蟀こおろぎが深き地中を覗き込む  山口誓子

超ズームのカメラレンズで見た時のようなこの不安感。読者は蟋蟀といっしょに「深き地中」を覗き込まざるを得ない。そこには底の知れない黒々とした深淵があるばかり。ミニマムの蟋蟀とマクシマムの大地の対比が効果をあげるが、われわれ読者は明らかに蟋蟀の側にいる。大地に較べれば、蟋蟀も人間も大差はないのである。そのことがまた言いようのない不安を増す。

玫瑰はまなすや人地にありて地を惜しむ  中村草田男

上掲句は昭和58年7月の作で、死の1ヶ月前の病床でつくられた。玫瑰といえば昭和8年の「玫瑰や今も沖には未来あり」が彼の代表句の一つとして名高いが、こちらは陸の方で、したがって自作への挨拶句という意味合いが強い。死の床にあって、自らを含めた人の生命を惜しんでいるのである。草田男らしい向日性の溢れた作品である。

父祖の地に杭うちこまる脳天より 栗林一石路

「砂川町強制測量」と前書があるから、昭和30年に始まった立川基地拡張に反対する砂川闘争が背景にあることがわかる。父祖の地であろうがなんであろうが、国家はその都合によって、容赦なく杭を打ち込んでいくのである。それへの怒りが「脳天」に激しく込められる。

明日ありや水着のしずく地を濡らす  鈴木六林男

屈託なく青春を謳歌している若者たち。その水着から雫が滴り落ちている。黒々と濡れていく地面。それを見て突然、明日への不安が作者の内に兆したのである。黒く濡れていく地面が、生と裏表の死の暗い影のように作者の目に映ったのかもしれない。

石段のはじめは地べた秋祭  三橋敏雄

「何もなき地べたにぢかに蝿とまる」という句も作者はつくっているが、上掲句もこの句同様に、言われてみて初めて気づかされるような事実を述べている。その事実は当然といえば当然のことなのだが、だからといって作者のまなざしは平凡ではない。自らが立つ地べたに注がれるこの凝集された視線には、並の俳人の及ばない非凡なものを感じる。

シーソーの尻がうつ地の薄暑かな 波多野爽波

ぎったんばっこんで地面をうつたびに、そこはかとなく薄暑を感じるというのである。意表をついた取り合せだが、このように言われるとなるほどと思わせる絶妙の取り合せ。夏へ向かう時候の少し浮ついた感じがシーソーに見合っていて、よく出ている。

雪は地を覆ひつくせり答は白  津田清子

おそらく作者は降り積もった雪を前にして、それが純白であるという印象以外の印象を得ることができなかったのである。その印象から逃れられなかったのである。その悔しさがこの「答は白」という思いきった修辞を導き出したのではないだろうか。転んでもただでは起きない俳人根性というべきか。

春の地震ない大きな鱗こぼれをり  遠山陽子

実景かどうかはわからない。それでも「地震」と「大きな鱗」の取り合せは妙な説得力がある。それは地震鯰や鯰絵の遠い記憶があるためかもしれない。鯰には鱗はないのだが、古来、地震とたいへん縁の深い魚だ。

地は緩く回りにけりな春の鳥  今坂柳二

この「けりな」によって、小野小町の「花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに」を想起する人は多いだろう。句意にもこの歌が響いているように思われる。古典と響き合うことによって、地球の自転というスケールの大きな内容にもかかわらず、春の駘蕩としたのどかな感じが増幅されているのである。

謝肉祭ことに水夫へ地の明るさ  沢好摩

長い航海を終えてか、その途中にか、久しぶりに地を踏んだ水夫。時あたかも港では謝肉祭のカーニバルで賑わっている最中。水夫にとってその光景はまぶしすぎるくらいの「明るさ」なのである。また久しく大地を踏みしめたことのなかった水夫の足元は、まだ地につかない感じで、なんとなく覚束ない。そのこともこの句の陰影を深めている。三橋敏雄に「行雁や港港に大地ありき」という句がある。

鳥渡る地に残されし哺乳壜  対馬康子

これは近未来図なのだろうか。大人はおろか、哺乳壜を使っていた赤ん坊の姿さえ見あたらない世界。その上を悠然と鳥が渡って行く。哺乳壜は哺乳類をも連想させ、人類もその一員である哺乳類の絶滅を示唆しているのだろうか。不気味な作品である。

地にわが影空に愁の雲のかげ鳩よいづこへ秋の日往ぬる  石川登美子

登美子は与謝野晶子とともに初期の「明星」を支えた有力歌人。ミッションスクールで受けたキリスト教の素地に「明星」の理想主義的傾向が加味された多くの秀歌を残した。しかし結婚後は不本意ながら作歌を離れがちとなる。その心理的な屈折が後期の秀歌を生んでいく。ここでの「地」は理想を阻む現実の人間世界として詠われている。登美子は29歳という若さで病没した。

目次

1. 都市2. 食3. 家4. 仕事5. 金銭6. 日用品7. 乗物8. 身体9. スポーツ10. 芸術11. 生死12. 恋愛13. 酒14. 日本15. 肉親16. 動作17. 衣服18. 旅19. 山20. 犬21. 地22. 地名23. 火24. 海25. 時26. 水27. 石28. 戦争29. 道30. 遊


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