あの世への散歩道シリーズ

https://www.shizensou.net/essay/stroll/series-sakai-01.html 【第1回 千の風になる人たち】より          民俗学者・酒井卯作                     

 お隣の69歳のおばさんは、「千の風になって」の歌を聞いてから、墓参りには行かないといいだした。理由は「墓の中には、もう死んだ人はいないというじゃない」ということだった。これはウソ。本当は神経痛で、墓地の坂道を登るのが辛度いからである。

屋形

風で飛ばされないようにように竹で固定された屋形=鹿児島・与論島の埋葬地で

 しかし邪推はやめよう。初心に帰って推察してみれば、このおばさんの考えは正論だ。死んだ人が墓から消えて風になる話は、じつは日本では神代の昔からあった。「千の風」は偶然話の筋が一致したまでのことだ。

 例えば日本で最初に火葬をしたと伝えられる道昭は、死後火葬をして、弟子たちが灰骨を拾おうとしたら、一陣の風が吹いてきて、忽然として遺骨が消えてしまったと日本書紀には書いてある。また顕密朗覚という和尚が死んで、3日目に弟子たちが棺を開けて見たら衣だけが残っていて屍はなかったともいう(類聚雑例)。屍が墓から消えたというだけではない。13世紀の「稚児観音縁起」という仏教説話集には、供養が終わって棺を開いてみたら、屍は消えて、金色燦然とした十一面観音が出現したと説いている。

 似た話は琉球列島まで分布している。中国では「尸解仙」(しかいせん)といって、やはり同じような話があるので、たぶん中国から仕入れたものに違いない。

 墓や棺から屍が消えるという話は何故に生まれたのだろうか。その意図するところは偉大なる人間、とくに高僧といわれる人が、生前如何に徳が高かったかを証明する手段として語られたとみるべきだろう。非凡な生き方をした者は、死もまた非凡でなければならない。それが尸解仙だ。

 じっさい、墓から屍が消えてしまったということは普通では考えられないことで、この話の裏には散骨をした風習があったのだと私は考えている。その根拠のひとつは、万葉集(巻7)に「清き山辺に撒けば散りぬる」という歌がある。自分の愛する女性の亡骸を砕いて美しい山に撒けば、穢れの多い死もまた美しい。自然と人間が、お互いに共存している限り、死者との絆は美しいまま保っていけるのかもしれない。

 この考えを実行に移したのは淳和天皇だった。天皇は崩御に際して、山に散骨するよう遺勅をした。理由は、人は死ねば魂は天に帰り、魂のない墓には鬼が宿って祟りをなすという考えからである。

 最後にもうひとつ、日本の神話の幻想的な話を添えて結びとしよう。昔、ヤマトタケルが死んだとき、伊勢に山陵を作った。ところが、山陵の棺から一羽の白鳥が大和に向かって飛び立って行った。そして棺の中には「屍骨はなし」と日本書紀の中にある。英雄もまた千の風になってしまったのである。

再生 第65号(2007.6)

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酒井 卯作(さかい・うさく)1925年、長崎県西彼杵郡西海町生まれ。

本会理事。民俗学者。

著書

南島旅行見聞記 柳田 国男【著】 酒井 卯作【編】 森話社 2009年11月

琉球列島における死霊祭祀の構造  酒井 卯作 第一書房 1987年10月

稲の祭と田の神さま 酒井卯作 戎光祥出版 2004年2月


https://www.shizensou.net/essay/stroll/series-sakai-02.html【第2回 生き盆の話】より                       

 お坊さんの話を聞くときは、眉に唾をつけて聞こう。なにしろ「嘘も方便」といいだしたのは仏教なのだから。その典型的なものに盆がある。

盆花

山梨県南部町の盆花。正月の門松と対比される。

 日本では7月15日を盆といい、この日に死んだ人の魂が戻ってくるという。そして、仏壇に供物をし、死者の供養をする。これは暑い夏の日の、情緒深い日本の年中行事のひとつである。

 待てよ、確か仏教では、死者は極楽に生まれ変わるのが常道であって、煩悩に満ちた人間世界には戻ってきてはならないはずだった。死者が戻ってくるといいだしたのは誰か。仏教の原典である「法華経」にはそんなことは書いてない。それは7世紀ごろの中国の玄応という僧侶である。この人は、ウラボンというのは梵語のウランバナの略語で、7月15日に死者のために供養することだと説いた。これが世にいう「仏説盂蘭盆経」である。日本ではそれから100年ぐらい後の聖武天皇の天平5年(733年)に、盂蘭盆の供養をしている。これは玄応和尚の説に従ったものであるが、しかしこの宮中の行事も、清和天皇の貞観元年(859年)には姿を消してしまう。そして近年、仏教学者の岩本裕氏は、梵語のウランバナは、日本でいうウラボンにはなりえないという論文を発表して注目を浴びた。

 岩本説は正論だと思う。盆は文字どおり器の盆である。かつて中国でもそうだったし、日本でもそうだ。ちなみに越中八尾の「風の盆」は、9月に行われる風祭りの神事で、盆の上に供物をし、踊りをして稲の豊作を祈る行事である。死んだ人の霊を供養する行事ではない。

 日本の田舎ではこれとはまったく反対の、生きている人のための盆行事がある。これを「生き盆」という。これは生きている人たちに対する贈答の風習で、これがむしろ、日本の盆行事の古い姿だと考えられる。例をあげてみよう。

 山梨県一帯では、以前は7月13日を「生き盆」といって、嫁は自分の里へ、分家は本家に、仕事上の関係者は親方へ、赤飯などを作って持参した。これを忍野村では「生き盆まいり」といった。鹿児島県では「死んだ先祖より生きている親を拝め」という諺があるが、生き盆まいりなどは、まさしくそのとおりで、お世話になった人たちに対する感謝の気持ちを、盆にのせて持参したというのが日本の古い作法だった。

 生き盆の贈答を、別名イキミタマとも呼ぶところも多い。江戸時代には秋田県下では7月14日にタママツリといって、家ごとに赤飯や魚などを贈ったり贈られたりしたと、菅江真澄の遊覧記の中にある。神奈川県下ではこれを「生き御霊」といった。やはり本家筋に贈物をする。

 これでおよそお解りいただけると思う。7月半ばに行われる生き盆の風習は、生きている人同志の魂の交換を意味していて、死んだ人のためではなかった。香川県高室町では、7月15日を人間の盆だといって、「御歳暮」をもって夫婦で嫁の里に挨拶に行った。つまり7月にも正月にも同じようなことをするというのは、昔1年を2つに分ける行事があったことを教えてくれる。

 死んで戻らぬ人を、いつまでも供養したがる日本の仏教の裏には、もっと豊かな日本人の思想の歴史がある。だから私は、いつもお坊さんの話には眉に唾をつけて聞いている。


https://www.shizensou.net/essay/stroll/series-sakai-08.html【第8回 墓・馬鹿しい話】より

 先日も墓の案内の電話があったので、面倒だから「墓はあります」と答えたら「それは良かったですね」という返事でした。墓があるとそんなに良いことでしょうか。都会では墓の需要と供給が不釣合いですから、早く求めていて良かったということだと思いますが、あるタレント作家が次のようなことを書いていました。墓を早くたてると縁起が悪いといわれるが、それは迷信だ。ということです。どうやら、この人の説は、墓は早めにたてるべきだということのようです。

枕石

長野県壱岐島の枕石

 そこで考えました。では、ハカとは何だったのか。ハカといえばすぐに石塔を思い出しますが、沖縄の石垣島ではハカとは字(アザ)のこと、つまり場所のことです。そこでハカドルという言葉を考えてみます。ハカをトルのは仕事の能率のあがること。茨城県筑波地方では田植えや稲刈りのとき、自分の分擔をハカといいます。その分擔を順調にこなすことがハカドルで、墓地とは関係はありません。

 それでは墓をなぜハカと呼ぶのでしょうか。ちなみに墓の名称を集めてみますと、サンマイ(三昧)、アタリ(辺)、アザ(字)、ノ(野)などがあって、その多くが野原か、もしくは場所もはっきりしないところを指しています。墓がはっきりしない理由のひとつをあげてみます。

 島根県下では、昔は散り墓といって、あちこちに埋葬しました。それは人が死ぬと、その日の方角を決めて埋葬するので、埋葬地は死ぬ日によって違ったからです(民間伝承5の1)。兵庫県神崎郡では野原に1本の老松があって、その松の木を中心にして、あっちの方、こっちの方というふうに埋葬したと柳田国男は述べています。つまり埋葬する所は必ずしも一定していなかったということです。したがってハカというのは、石塔をいうのではなく、埋葬する場所か区画を指す言葉にすぎなかったと私は考えています。

 ただ各地とも共通した約束ごとで、埋葬したところに丸石1個をおく風習があります。通常はこれを枕石と呼び、近くの川か海辺から拾ってきた丸石を、埋葬した死者の頭の辺りにおきます。参考のために、長崎県壱岐島の写真を載せておきますが、この石は死んだ人の霊魂の鎮めとみるべきでしょう。死人が生き返って「今晩は」といって出てこられたら困りますから。

 枕石はたぶん石塔の原形だと考えられますが、死ぬ前から、この鎮魂の石を用意する人がいるとしたら、生前、よほどいかがわしいことをした人だったにちがいありません。11世紀の「今昔物語」(三十六の五)に、物事がうまくいかないことを「墓々しく」というような表現をしています。私にはこれが「墓・馬鹿しく」と聞こえるのでございます。


https://www.shizensou.net/essay/stroll/series-sakai-09.html 【第9回 死者に会える島】より

 少し悲しい話をしよう。長崎県五島列島に三井楽(みいらく)というところがある。ここは平安朝の昔から死者に会えると伝えられたところです。下五島の福江市から、さらに西の果てにある三井楽の向うは、茫漠として東支那海が広がっていて、かつて遣唐使がここで船待ちしたと伝えられたところです。

 この三井楽を有名にしたのは、11世紀の「かげろふ日記」(上巻)です。この作者の母親が亡くなったとき、念仏僧たちがこんな話をしていました。「どこかにみみらくというところがあって、そこに行けば死者に会うことができるそうだ。ただ、近くにその姿が見えるので、近づこうとすると消えてしまう。遠ざかるとまた現れる。そんな不思議なところだそうだ」。それを聞いた作者の兄が

    いづことか音にのみきくみみらくの

    しまがくれにし人をたづねん

という一首を残しています。これは幻でも良いから、噂に聞くみみらくという島まで行って、亡き人に会ってみたいというものです。みみらくの島はよほど有名だったとみえて、その後12世紀になって、藤原俊頼の「散木奇歌集」という本にも、「みみらくがわが日の本の島ならば、今日も御影にあはましものを」という歌が残されています。おそらく死者の魂の行く世界は、海の向うだったのかもしれないという、仏教以前の日本人の信仰がそこにあったと私は考えています。

長崎県五島列島の三井楽の墓。ここにはいろいろの人の死がある。

 三井楽の岬に立って沖を見ていると、なるほど水平線の向うに漂うものが、死者の幻なのか、カモメの舞なのか見間紛うほどに不思議を感じさせるのが、この三井楽の岬です。この岬には、迫害からのがれて来て、悲劇の生涯を終えたキリシタンたちの墓が、荒波を背にして立っているのも印象的です。

 死者の面影を追い求めてくる人たち、世をのがれて寂しく眠る人たち、そのいろいろの人生が眠る感情の姥捨の海を思わせますが、かつて作家の三好達治は「海よ、僕らが使ふ文字では、お前の中に母がゐる」といいました。たしかに広さと深さで人々の心を包む海は、亡き人の憩い場所としては、いちばんふさわしいところかもしれません。

 ごらんのように、かつての私たちの社会は、老いて果てた人たちに寄せる思いにも優しさがありました。今ではどうです。老人たちは、生きているときはホームに追いやっておいて、死んで墓に眠ってから、盆になると叩き起こして家につれて来て、やれ食え、やれ飲めだって。冗談じゃない。私だったら化けて出てやる。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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