空海の「野陸州に贈る歌」

http://ryuchan60.seesaa.net/article/435099323.html 【空海】より

以上のように、エミシに対する差別意識は、天皇の勅にもよくうかがえるが、律令国家の支配層は、異人種・異民族のエミシを「夷俘の種」(『続日本紀』宝亀11(780)年3月22日条)、「夷種」(『三代実録』貞観12年(870)12月2日条)と記録しているほか、さらに軽蔑の意味を込めて「異類」(『続日本後紀』承和6年(839)4月26日条・『三代実録』貞観元年(859)3月26日条)とも書いている。

このような差別意識は、空海や菅原道真の詩などにもみられる。

空海の「野陸州に贈る歌」の序文には、

日本の麗城(れいせい)三百の州、就中(このなか)に陸奥最も柔げ難し。天皇赫怒(かくど)し幾たびか剣を按(おさ)う。相将幄(あく)の中に争うて謀を馳(は)す。往帝も伐(う)ち、今上も憂えたまう。時々(しし)の牧守劉(ころ)すこと能くせず。古より将軍悉く啾啾(しゅうしゅう)たり。毛人羽人境界に接す、猛虎〇(獣偏に「オ」)狼処々に鳩(あつま)る。老〇(亞に鳥)の目、猪鹿の裘(かわごろも)。髻(もとどり・髪を頭の頂きに束ねた所)の中には骨毒の箭(や)を挿(さしはさ)み著(つ)け手の上には毎に刀と矛とを執(と)れり。田つくらず、衣おらず、麋鹿(びろく・麋(おおしか)と鹿)を逐う。晦(かい)とも靡(な)く、明とも靡く、山谷に遊ぶ。羅刹(らせつ)の流(たぐい)にして人の儔(ともがら)に非ず。時々、人の村里に来往して千万の人と牛とを殺食す。馬を走らしめ、刀を弄ぶこと、電(いなびかり)の撃つが如し。弓を彎(ひ)き箭(や)を飛ばす。誰か敢えて因(とら)えん。苦しい哉、辺人毎に毒を被り、歳々年々常に愁(うれい)を喫(きつ)す(「遍照発揮性霊集」)。

とある。野は小野朝臣岑守(みねもり)で、陸州は陸奥守の意。「野陸州に贈る歌」は、815年(弘仁6)正月に小野岑守が陸奥守に任ぜられたとき、空海が岑守に贈ったものである。

大意は、「日本の麗城(美しく立派な国土)300の州の中で、陸奥が最も服従させにくい。景行天皇が大いに怒って幾度か剣を握り、文官も武官も陣営に謀をめぐらせた。先帝たちもエミシを伐ち、今上(嵯峨)も憂える。」

「猛虎〇狼のようなエミシが国境の近くに、処々に集団を作って住む。エミシは年老いたカラスのような目をしていて、猪や鹿の皮製の衣服を着ている。髻の中には毒矢を挿しはさみ、手にはいつも刀と矛をもち、田は耕さず、織物はせず、ナレシカを追い、昼夜の区別なく山谷に遊んでいる。」

「エミシは羅刹(人を食う鬼)の類であって、人間の仲間ではない。つねづね、良民の村里に来て、多くの人や牛を殺して食う。馬を走らせ、刀を使うことは、電光石火の如く迅速である。弓を引き、矢を放って戦うので、誰も捕らえることができない。辺境(陸奥国)に住む人々は、常に被害を受け、悩まされている」というようなものであろう。

空海は、農耕に従事するエミシのことは書かず、もっぱら狩猟民としてのエミシの生活を悪し様に描写している。また、エミシは人を食う羅刹の類であって、人間の仲間ではないと、極端な差別意識を暴露している。このような極端な差別意識は、既に述べたように、エミシが、空海たち律令国家の支配層とは違った人種・民族であったために生まれたものである。

「伴按察平章事(ばんあんさつへいしょうし)が陸府に赴(おもむ)くに贈る詩」の序文にも、空海の差別意識がみられる。

〇爾(さいじ・草冠に最)たる毛夷艮垂(こんすい)に迫り居り、〇(獣偏に「オ」・おおかみ)の心、蜂の性ありて、代を歴て梗(えやみ)をなす。昔景行皇帝、撫運の日、東夷未だ賓(ひん)せず。日本武尊、左右の将軍武彦武日命(たけひこたけひのみこと)等を率いて之を征するに毛人面縛(めんばく)せらる。日命は君が先なり。延暦中にも反す。桓武皇帝、大将軍伴弟満(おとみつ)等をして即ち罪せしむ。武日、之を平げしより己来、常に時々に逆をなす。諸の氏を遣わして将として其の〇(つみ)を罰せしむ。然れども猶、人の面(おもて)、獣(けだもの)の心ありて朝貢を肯(がえん)ぜず(「遍照発揮性霊集」)。

伴は参議大伴宿禰国道(くにみち)、按察は按察使(あぜち)、平章事は執政参議の唐の名、陸府は陸奥の国。828年(天長5)2月大伴国道は、鎮東按察使となっている。

この文章の大意は、「卑小なエミシたちが東北のはてに迫ってきている。エミシは〇(おおかみ)の心、蜂の性をもち、歴代人民を苦しめてきた。」

※これでは空海は、鼻持ちならないエリート僧にすぎず、なんぞ仏心の欠片も持ち得ない勉学士にすぎません。許さず空海、その「鎮護」の正体見たり。

「昔、景行天皇が諸国を平定したとき、エミシは服従しなかった。そこで、日本武尊が左右の将軍の武彦と武日らを率いて征し、エミシを降伏させた。武日は君(大伴国道)の祖先である。」

「エミシは延暦中にも反乱を起こしたので、桓武天皇が征夷大将軍伴弟満(大伴弟麻呂)らに征伐させた。武日が平定して以来、エミシは時折反乱を起こしたので、朝廷は諸々の氏を武将としてエミシを罰してきた。しかし、なおエミシは人の顔をしていながら獣の心をもっていて、朝貢することを承諾しない」というものであろう。

空海は、ここでも、「〇心蜂性」があるとか、「人面獣心」であるとかいってエミシを罵(ののし)っている。空海は、律令国家の侵略に抵抗するエミシを、仏法と国家にとっての大賊として憎んだのである。

※そんな「仏法」なら、つぶさにゃならぬ。


https://alis.to/abhisheka/articles/2vAX9XQoXXMB 【空海の蝦夷観 (かなりショックかもよ?)】より

拙著『魂の螺旋ダンス』改訂増補版より

さて、「地上の権威の相対化」が不徹底であることは、社会的な認識においては重大な差別意識を温存させる可能性とつながったものである。

空海の主著である『遍照発揮性霊集』の第一巻「野陸州に贈る歌」にある次の漢詩を見てほしい。そこには列島東方の蝦夷(えみし)に対する目を覆いたくなるような差別意識が反映されている。

「田せず衣せず、麋鹿(びろく)を逐(お)い、晦もなく明もなく、山谷に遊ぶ、羅刹の流にして、人のともがらに非ず(田を作らず、織物もせず、トナカイや鹿を追いかけ、夜も昼も山谷で遊んでいる。鬼の類であって、人間の同類ではない)」

「蝦夷は非人である」という言葉は、当時の「一般的な認識」を反映したものなのかもしれない。その意味では空海が特別の差別主義者であったというわけではないだろう。

彼もまた時代的制約の中にいたと言えばそれまでである。

だが空海が一般人と異なるところは、その差別意識を「見事に完成された美文(漢詩)」にのせて定着させたという点にある。

それは確信的な思想的な営みであって、影響力が大きいだけに見過ごすわけにはいかないものだ。

また『性霊集』第三巻「伴按察平章事の陸府に赴くに贈る歌」では、空海は蝦夷について「豺心蜂性(さいしんほうせい)」(狼の心と蜂の毒針のように人を刺す性を持った存在)であると罵詈を投げつけている。

そして「人面獣心にして、朝貢を肯ぜず」(顔は人間で心は獣であって、朝廷に服属しようとしない)」と深く嘆いている。

一方、第六巻で空海は時の天皇について「今上陛下、体は金剛を練し、寿は石劫よりも堅からん」と美辞麗句を連ねて賛美している。

それらを合わせて考えるとき、蝦夷を差別し、天皇中心の国家を賛美するために、自らの文才を駆使する空海の姿がそこに浮かび上がってしまう。

いずれにしろこの時代の仏教は、平安朝の蝦夷侵略を正当化するイデオロギーと見事に呼応したものだった。

殊に天台宗を興した最澄は早くから桓武天皇と結びついていたため、蝦夷侵略の過程で政治的に果たした役割は空海以上に大きかったと言わねばならないだろう。

実際、蝦夷討伐の命を受けた征夷大将軍坂上田村麻呂の行く先々には、天台宗の寺社が数多く建設されていく。

蝦夷侵略をもっとも強引に押し進めた天皇である桓武帝は、七八五年日本で最初に「祭天」の行事を行った。

「祭天」とは、天子が天帝の意に従って異民族を統治し、世界を支配することを宣言するものである。

その場所には、桓武帝の母方の百済人にゆかりの深い河内の交野が原が選ばれた。

また桓武帝は、蝦夷に対する徹底的な侵略を行い、そのことによって世界性のある国家を実現しようとした。

大局的に言うならば、それらの背景にあるものは、広い意味での「中華思想」である。

すなわち、自らが世界の中心であり、すべての異民族=「未開部族」を支配する天命を受けているという思想である。

桓武帝の命令で蝦夷征伐に乗り出した坂上田村麻呂は、ついにアイヌの英雄アテルイを捕らえる。桓武はその斬首を命じる。

一介の戦士としてアテルイとの友情に目覚めていた田村麻呂は、泣く泣くアテルイを斬首したという。その地もまた、平安京ではなく、交野が原である。

祭天を行った土地で、異民族のチーフを斬首する。これは、緻密に計算された壮大な思想的パフォーマンスと見ることもできる。

平安仏教はそのような平安期の朝廷の思想と行動を、結果的に側面から支えた存在となった。

政治的には最澄と桓武天皇の結びつきが強いわけだが、空海思想が潜在的に有していたものも同様であり、この思想的限界は長くこの島の精神文化に影響を残したと言わねばならない。

司馬遼太郎の小説『空海の風景』に描かれた空海は、長安留学を通じて、ある種の世界性を得たとされている。

「かれがのちにその思想をうちたてるにおいて、人間を人種で見ず、風俗で見ず、階級で見ず、単に人間という普遍性としてのみとらえたのは、この長安で感じた実感と無縁であるまい」と司馬は書いている。

しかし、『性霊集』に見られる差別思想から見るならば、空海が長安で得たのもは、真に普遍的な意味をもった「世界性」などではない。

彼がそこで学んできたもの一つは「中華思想」であると言わざるをえないであろう。

そして平安朝は、日本で最初に徹底した中華思想に基づいて行動した王朝であった。

この島において、超越性のベクトルが未だ強くなかった時期の仏教は、このようにして神道とともに(あるいは時代によっては神道以上に)国家イデオロギーを支える大きな基盤となっていった。

それゆえそのような時期の仏教について、私は「螺旋モデル」の宗教類型において「国家宗教」に分類せざるをえない。

しかし、なぜ空海はそのように蝦夷を差別せねばならなかったのか?・・・私の思いは複雑である。

前節で考察したように空海は、この島の山林シャーマニズムの心身変容技法との出会いを通し変性意識を体験し、その果てに即身成仏を具現化したはずである。

「心身変容技法が伴う」という点は、密教の最も重要な要素と言ってもいい。

私の青年時代に起こった密教ブームも、若者の「心身変容技法」への関心が引き起こしたものであった。

言葉の次元だけの思想ではない、宇宙的な変性意識体験への人々の深い関心が、繰り返し繰り返し、密教への関心を呼び覚ますのだ。

空海は仏教を中国伝来の経典の知的理解だけに終わらせず、この島ネイティブ・ピープルのシャーマニズムと結びつけることで変性意識体験を現実のものとし、そのことで仏教と修験道の両方の流れに大きな足跡を残したのだ。

またその変性意識体験は山川草木との感応や、時には金星などの天体との感応にも支えられたものであり、ネイティブ・ピープルのアニミズム的な感性とも深く呼応しあうものであった。

しかし、それならばなぜ。なぜ、空海はそれほどの恩恵を与えてくれたネイティブ・ピープルに対して、「恩を仇で返す」ような、差別的な発言を残したのか。

桁外れの思想的巨人であった空海は、限りなき抱擁性でこの島のあらゆる精神文化を抱きとる溶鉱炉になりうるかのようにも見えた。

だが、その内部には蝦夷に対する強い差別意識が醸成されていた。

この時代のこの島では、空海の天才をもってしても(壮大で華麗な思想的総合はありえても)十分な超越性の運動を孕んだ思想は、まだ誕生しえなかったということなのだろうか。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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