国境の島 壱岐・対馬・五島

https://kacchell-tsushima.net/shrine/arekore/koroku_shrine 【竜宮の門 胡禄(ころく)神社】より

胡禄神社について

 胡禄神社は、対馬北東部の海岸・琴崎(きんざき)に鎮座する、古くから知られた有力な神社です。

 祭神は、イザナギの禊(みそぎ)の際に生まれたとされるワタツミ三神ですが、対馬では豊玉姫の子神とされる海神・磯良(イソラ)に関する物語や、3月3日に琴崎の海岸に出現した神が金色の小蛇に化身したので祭った、など様々な伝承があります。

 対馬には、船でしか参拝できない岬や小島に神社がある場合が多いのですが、胡禄神社も鳥居の彼方には壮大な水平線が広がり、これは四方を荒海に囲まれ、断崖絶壁ばかりの沿岸を航海する際の安全祈願と深く関わっているようです。

磯良の伝承

琴崎の海底には竜宮の門があり、磯良は亀に乗って自由に出入りできる

神功皇后の新羅征伐に際し、潜水して海底の碇を引き上げたその際、船に空いた穴に大きなアワビを貼り付けて応急処置した

基本情報

名称 胡禄(ころく)神社 所在地 長崎県対馬市上対馬町琴1番地(琴崎の海岸部) 

祭神

 ワタツミ三神(ソコツワタツミ=底津綿津見神・底津少童命、ナカツワタツミ=中津綿津見神・中津少童命、ウワツワタツミ=上津綿津見神・表津少童命)

 ※海神イソラ、金色の小蛇など

式内社  上県の名神大社「和多都美御子神社」の論社

その他 琴の集落内にある「胡禄御子神社」(長崎県対馬市上対馬町琴字郷ノ浦3番地)と対になっています。

 胡禄神社と胡禄御子神社が入れ替わっているのではないか、という説もあります。

動画 https://www.youtube.com/watch?v=oB6-ZbsCSE0

胡禄神社

https://kacchell-tsushima.net/shrine/arekore/koroku_shrine

(以下略)


https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/stories/story017/ 【国境の島 壱岐・対馬・五島

~古代からの架け橋~】より

ストーリー STORY

日本本土と大陸の中間に位置することから、長崎県の島は、古代よりこれらを結ぶ海上交通の要衝であり、交易・交流の拠点であった。

特に朝鮮との関わりは深く、壱岐は弥生時代、海上交易で王都を築き、対馬は中世以降、朝鮮との貿易と外交実務を独占し、中継貿易の拠点や迎賓地として栄えた。

その後、中継地の役割は希薄になったが、古代住居跡や城跡、庭園等は当時の興隆を物語り、

焼酎や麺類等の特産品、民俗行事等にも交流の痕跡が窺える。

国境の島ならではの融和と衝突を繰り返しながらも、連綿と交流が続くこれらの島は、

国と国、民と民の深い絆が感じられる稀有な地域である。

https://www.youtube.com/watch?v=mTbTZYkoCBs

国境の島 壱岐・対馬・五島

日本は大小6,852の島から成り、長崎県には日本最多の971の島がある。朝鮮半島との間に飛び石のように浮かぶ壱岐と対馬、大陸との間の東シナ海に鎖状に浮かぶ五島列島は、いにしえより、日本と大陸を結ぶ「海の道」の要衝であり、大陸との交流のインターフェースでもあった。

とりわけ、朝鮮半島と指呼の間にある国境の島、壱岐と対馬は、その最前線であった。

邪馬台国へと続く「海の道」に浮かぶ国際交流の都

日本がまだ「倭」の国とよばれていた時代、中国の使節は、朝鮮半島から対馬、壱岐を経由して、倭の国の女王がいる邪馬台国を目指した。対馬、壱岐を旅した中国の使節の足跡を辿るとき、『魏志倭人伝』に記されたとおりの原風景が目の前に広がる。

中国の使節が訪れた「一支国」の「原の辻」は、海上交易で王都を築いた国際交流都市の先駆けであった。倭の国のどこよりも早く海外の情報をキャッチできる原の辻には、日本人だけでなく、朝鮮半島から移り住んだ人もいて、活気に満ちあふれていた。

朝鮮半島系土器、ムンクの『叫び』のような人面石など多様な遺物が出土しているこの地は、まさに弥生時代のデパートであった。なかでも、きらきらと青色に輝く中国製トンボ玉は、女性や子どもたちの心を捉えたに違いない。

原の辻遺跡

県内有数の穀倉地帯でもある遺跡の周辺は、古代米が栽培されており、復元がる眺めは、訪れた人を弥生時代へタイムスリップさせてくれる。

朝鮮半島との関係に左右される日本最果ての島

最先端の文化の導入と交流が行われる一方、国境の島は異国へとつながる海の道の最終中継地、国防の最前線としての顔を持つ。

壱岐は、大和政権が朝鮮半島へ進出する際の兵站基地としての役割を担っていた。壱岐古墳群は、当時としては日本有数の墳丘・石室の規模を誇っており、ひんやりと涼しい石室の中に身を置くと、古墳に眠った人物の権勢が静かに伝わってくる。

663年、白村江の戦い以降、日本と新羅との外交関係が悪化すると、遣唐使は、壱岐、対馬を経て中国に渡るルートから、五島列島を経て東シナ海を渡る危険なルートをとらざるをえなくなった。

当時の船の構造、航海技術では、ほとんど無事には帰ってこられなかった時代、万葉の都人にとって五島は、日本の最果ての地であり、亡くなった人に会える「みみらくのしま」と称された。

千年以上も昔と変わらぬ東シナ海の大海原を目の前にすると、この地を最後に異国へと旅だった人々と送り出す家族の覚悟や想い、空海の「辞本涯」(本涯=日本の果て)の言葉が、時代を超えてこだまする。

一方、壱岐と対馬でも、白村江の戦い後、国防のために防人と烽火が置かれ、対馬には亡命百済人の技術による朝鮮式の山城「金田城」も築かれた。

金田城石垣跡

複雑に入り込んだ海岸に囲まれた浅芽湾と天然の絶壁を利用して築かれた金田城跡に立ち、国境の海を見下ろすと、はるか東国から送られてきた防人たちの望郷の念に胸がつまる。

国交断絶から復活へ~朝鮮通信使がつないだ日朝交流の架け橋~

室町時代の対馬は、島主・宗氏を中心に日本と朝鮮との間で外交の実務と貿易を独占してきたが、豊臣秀吉の朝鮮出兵により一変し、国交は断絶した。

長年、朝鮮との貿易に島の経済を頼ってきた対馬にとって、朝鮮との国交回復、貿易復活は死活問題であった。

対馬藩は、朝鮮との国交回復交渉を行い、その間、日朝双方の国書を偽造するなど危ない橋を渡りながら、ようやく江戸時代最初の朝鮮通信使来日に成功する。

その後、朝鮮貿易の復活も果たし、対馬藩の繁栄ぶりは万松院に古色蒼然と並ぶ歴代対馬藩主墓所の中でも、ひときわ目を引く当時の藩主の墓所の巨大さからも偲ばれる。

以来、約200年に渡り、合計12回の日朝修好の象徴である朝鮮通信使の来日が続いた。

朝鮮通信使行列の再現

朝鮮通信使を丁重に出迎えるため、立派な庭園を持つ金石城を整備した対馬藩。異国の華やかな衣装をまとった行列は、遠方からも見に来る人も多く、沿道に並ぶ人々を魅了した。

隣国同士が200年以上の長きに渡り、平和的関係を築いたことは世界史的にみても稀有なことである。時に反目し合うこともあったが、日朝関係の根底には「誠信の交わり」があった。

享保の通信使の江戸往復道中、対馬藩の儒者・雨森芳洲と通信使の製述官・申維翰は互いの主張を譲らず衝突してきたが、旅の終わりには涙を流して別れを惜しんだ。

「互いに欺かず、争わず、真実をもって交わる」の精神は、今日の国際交流にも通じる。

時代とともに、壱岐と対馬の中継地としての役割は希薄になっていったが、島の特産品や民俗行事には、交流の痕跡が残っている。

壱岐の特産品「壱岐焼酎」は、大陸から伝わったとされる蒸留法を取り入れ、今では世界に誇れる産地ブランドとなっており、対馬の「対州そば」は大陸から伝わったそばの原種に近い。

また、稲作伝来の地といわれている対馬の豆酘地区は、宮中祭祀「新嘗祭」にも奉納したことがある古代米の一種、赤米を神田で栽培し、その赤米を御神体とする神事が行われており、亀の甲を焼いて吉凶をみる古代の占い「亀卜」もこの地区で受け継がれている。

民間では、朝鮮通信使行列の再現をはじめ、音楽祭、国境マラソンなど様々な日韓交流イベントが行われている。対馬高校ではハングルや韓国文化を学ぶコースが設置され、壱岐高校においても、原の辻遺跡を学び、中国語・中国文化を学ぶコースがあり、未来の日本を担う高校生が国際交流の基礎を習得している。

国境の島であるために融和と衝突の最前線の歴史を刻んできたが、今もなお連綿と交流が続くこれらの島は、国と国、民と民の深い絆が感じられる稀有な地域である。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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