http://plaza.harmonix.ne.jp/~udagawa/tomio_maruyama.htm【奈良・富雄丸山古墳の謎解き に参加する】より
富雄丸山古墳は、その109mの巨大な円墳と、異形の盾形銅鏡と長大な蛇行剣が出土して大騒ぎになっている。
・1月25日に奈良市からプレスリリースされたのが発端だ。
・奈良テレビニュースの報道(YouTube)が詳しい。
翌朝(1月26日)の新聞(大阪版)はどこも1面で扱っていたとのこと。
私は青年時代に奈良県の富雄に 7,8年住んでおり、土地勘を有しているので この古墳に強い関心を抱いている。
この地は、富雄川に沿った細長い谷間に似た地(右岸は矢田丘陵。左岸は低い丘陵が入り組んだ複雑な地形)で、
古代史のなかでも極めて古い伝承が残っている地である。
春から初夏にかけ、富雄駅から矢田丘陵沿いに矢田寺までよくハイキングしたが、当時は途中の丸山にある古墳はまだ全貌は不明だった。
この「富雄川流域」エリアは饒速日命(ニギハヤヒ ミコト)の伝承が濃厚である。
北九州・遠賀川河口から出発した饒速日命一行は、大阪湾に到着し、当時は海岸だった交野から山塊にある磐船神社経由で、土地の豪族・長髄彦(ナガスネヒコ)の領地に入り、(妹の御炊屋姫を娶って白庭山の地に滞在した後)、富雄川沿いに大和の三輪山の麓の唐古・鍵遺跡地に入った。
(古代史の復元)
〇饒速日命は、AD25年に北九州を出発し、
瀬戸内経由で大阪湾に入り、交野から磐船神社の地経由で大和入りを果たした。
参考: 饒速日命の大和侵入(古代史の復元)
〇神武天皇は、AD78年に日向を出て大和の饒速日命の本拠地を目指した。
瀬戸内経由で大阪湾・草香津に到達し、生駒越えで大和侵入を目指したが、
孔舍衛坂(くえさか)の戦いで長髄彦に阻止され、大和入りは果たせなかった。
この戦いで兄・五瀬命は負傷し、これが元で亡くなる。一行は、紀伊半島を回って熊野経由で大和に侵入した。
参考: 神武天皇の大和侵入(古代史の復元)
当時の大阪湾の海岸線は、生駒山系近くまで迫っていた。富雄川流域(図では約12㌔)と富雄丸山古墳の位置。 (馴染みの地ではあるが、昔と違って宅地化が著しく進んでおり驚いた)富雄川流域は、長髄彦を族長とする鳥見一族の支配域だが、長弓寺~近鉄富雄駅~富雄丸山古墳までの約7㌔が中心域と考えている。
上から順にピンを示す。
1.磐船神社(饒速日命の大和入り地) 2.鳥見白庭山の碑(長髄彦の本拠地)
3.長弓寺(長髄彦・饒速日命の旧跡地) 4.王龍寺(好きな参道がある古刹)
5.杵築神社(富雄川岸の地域の古刹) 6.近鉄奈良線・富雄駅
7.添御県坐神社(祭神が長髄彦:注1)(そうのみあがたにいます じんじゃ)
8.霊山寺(広い敷地とバラ園の寺) 9.富雄丸山古墳(日本一の巨大円墳)
10.登彌神社(鳥見神社 祭神は饒速日命) 11.神功皇后陵(富雄丸山古墳から5.4㌔)
注1:祭神は長髄彦だったが、明治に入り神武天皇敬仰の風潮が強まり、本名を出することが憚られ改称したという。
近鉄富雄駅周辺の富雄川沿いは、昔は鳥見庄と呼ばれ、今も鳥見、登美の地名が残っている。(鳥見→登美→富雄)
饒速日命に従った(25部の物部のうちの)鳥見物部が、富雄川沿いの長髄彦の支配地に定住した、と推測出来る。
饒速日命が率いた25の物部(軍団) その出身地(左)と 大和の入植地(右)
鳥見物部は、大和国 添下郡 鳥貝郷
鳥貝郷は富雄川沿いで、長弓寺、添御県坐神社、登彌神社(鳥見神社)が存す。
鳥見物部の一部は、後に饒速日命の東国開拓(AD45~55年頃)に従って、香取海沿岸(印旛沼・手賀沼周辺)の開拓に従事した。
そして、古墳時代に入ると、3C後半には前方後方墳(北ノ作2号墳33.5m)を築造している。また、鳥見物部の子孫たちは、その地に饒速日命を祀った 鳥見神社 を多数残している。
富雄丸山古墳は、様々な仮説が必要な 謎に満ちた古墳であり 、何を言ってもイイ状況下なので (笑) 私も仮説を提出してみる。
時系列に並べると.. (出典:私の歴史年表)
AD25年 饒速日命が北九州から大和へ向けて出発。
AD83年 神武天皇が日向から出発し、大和入りして(婿入りで饒速日の国を引き継ぎ)初の統一政権を樹立。
249年 卑弥呼の箸墓古墳により古墳時代が始まる。 この時代(3C後半)東国の鳥見物部は前方後方墳を築く。
300年代後半 富雄丸山古墳が築造(4世紀後半)
1.富雄丸山古墳は、鳥見物部の子孫の、鳥見連・登美連の先祖の首長墓と推測する。
①この古墳の地(丸山と呼ばれている)は鳥見一族(登美一族)の地
富雄川流域は饒速日命と長髄彦の伝承が色濃く残っている特別な地域であり、鳥見一族以外の氏族が墳墓を、などは考えられない。
②国つ神扱いの「円墳」である。
前方後円墳→前方後方墳→円墳 という大和朝廷のヒエラルヒーからは、土着神の子孫の「地祇」扱いになる。
鳥見物部は、神武天皇に対立した長髄彦と共生していた関係で、朝廷からは他の物部一族より低く扱われていた。
物部氏の「前方後方墳」は許されず「円墳」であった。(神武以前に東国に渡った鳥見物部は、「前方後方墳」を築造してる。)
③登彌(トミ)神社(鳥見神社)の存在。
富雄丸山古墳から1.4キロ下流の、対岸の丘陵に登彌神社が存在している。
後世、登美連(※1)が、祖先饒速日命の住居地であったこの地に祀って創建した、と伝わっている。
左上: 富雄丸山古墳 右下: 登彌神社
※1:後世(815年成立)の『新撰姓氏録』「神別」では、
No.063 登美連 左京 神別 天神 饒速日命六世孫伊香我色乎命之後也
No.642 鳥見連 河内国 神別 天神 饒速日命十二世孫小前宿祢之後也
2.出土した 蛇行剣、盾形青銅鏡は..
・蛇行剣
当時(372年)百済王から破邪の力があるとされる七支刀が応神天皇に贈られた。
これがきっかけとなって、祭祀用の破邪剣=蛇行剣 が作られ、広がっていったと推測する。
富雄丸山古墳の蛇行剣が、破邪用として制作された蛇行剣の起源かもしれない。6月27日、蛇行剣が報道陣に初公開された。産経ニュースによると、蛇行剣は7か所で左右に曲がっている、と 七支刀を意識した曲がりのように感じられた。(2023.06.28 )
・盾形青銅鏡
被葬者は武人で、神功皇后(↓)を守った大功績のある者で、葬儀に際してその象徴として盾形の青銅鏡を収めたと推測する。
神功皇后の親衛隊長を務めた豪族か?
想像を逞しくすると、当時(372年)百済王から七支刀と共に「大鏡」が応神天皇に贈られた、とある。この大鏡は円鏡では無く方形の鏡で、それを模倣して盾形の鏡がつくられたのかもしれない。(2023.04.16)
3.埋葬されていたのは誰か?
「古代史の復元」に見解を求めた。(2023/1/27)
《 回 答 2023/1/29 》
『 この近辺は饒速日尊の旧跡地ということで何回も訪問し,思い出の場所となります。
しかしこの古墳は行ったことがありません。誰が被葬者か気になるところですが,4世紀後半というのが非常にまずいですね。神功皇后が忍熊王を倒した(注 366年)関係で,多くの豪族が処分されており,この時期の豪族系図が悉く寸断されています。 (参考: 古代史の復元→ 神功皇后年代推定 ) また,この頃、前期古墳から中期古墳へと 古墳の形態も変化しています。蛇行剣が中期古墳から出土する傾向が強いことから,この変化の流れ沿った境界線にあたる古墳と思われます。中期古墳の流れを汲んでいることから,被葬者は神功皇后と深い関連のある人物と推察されます。この時期の豪族系図がズタズタですので、被葬者を推定するのは非常に難しいと言えます。360~380年ごろに亡くなったと推定される明確な人物は、古代史の復元でも特定は困難です。』
(注)応神天皇は367年に即位。この時、母・神功皇后(333年摂政~389年崩御)は存命であった。
忍熊王は、第14代仲哀天皇の皇子で、第15代応神天皇の異母兄で、反乱は366年。
「古代史の復元」をもってしても埋葬者を特定することは出来なかった。
しかし、「古代史の復元」では、忍熊王の反乱ではなく、神功皇后がクーデターで忍熊王から皇位を簒奪した、と考えている。
神功皇后が摂政で大和を不在(新羅征伐で九州に滞在)していた時期、大和では忍熊王が天皇として実質的に在位していたと。忍熊王と神功皇后の戦いは、一方的でなく戦力は拮抗しており、忍熊王につく豪族も多かったことが窺える。 <参考:頁末の「古事記物語」>
忍熊天皇は大和で旧体制の豪族(物部氏、大伴氏ら)に支えられており、(饒速日命と共に働いたプライドが有りながら)冷遇されてきた
鳥見物部にとって、旧体制打倒の千載一遇の好機到来であり、神功皇后側に従って、維新軍として大功を立てたのかもしれない。
古墳の主は、鳥見一族の出身者で、忍熊王の反乱で大功があり、神功皇后から墳墓の造営が認められたが、氏族の序列は守られて円墳だが、特別に「巨大な」円墳を築造することが許された 重要人物だろう。墳墓も、維新サイドらしく、円墳は旧来と異なった造出付きであり、埋葬品も新世代の器となっている。
4.これ↑を、「この時代になぜ巨大な円墳が?」 の謎の回答としておく。
以上、昔 富雄に住んでいた者の目から見た 一つの謎解きの回答である。
ー お わ り ー
被葬者は誰だ?
一と月を経て読み返してみて、被葬者が特定できていないのが 無責任で全くツマラナイと感じた。この時代の豪族系図が寸断され伝わっていないなら、豪族系図を無視して乱暴に推理する他に手立てはない。
・ ・ ・ ・
神功皇后の側近で、忍熊王の反乱で大功があった者といえば、武内宿禰、建振熊命(たけふるくまのみこと) があげられる。 武人では、忍熊王側では伊佐比宿禰、神功皇后側では建振熊命 が将軍として、相戦っており、古事記にも記されている。 ※1
※1:この時、忍熊は、難波の吉師部の祖である伊佐比宿禰 を将軍とした。
太子の方は、丸邇の臣の祖である難波根子建振熊命 を将軍とした。
⇒ 日本一の巨大円墳に葬られるにふさわしい武人で、破邪剣と盾形銅鏡が似合うのは 現時点では 将軍・建振熊命 と思われる。
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建振熊命は鳥見一族であり、それで富雄川の地に円墳築造が認められたのであろう。(この地は後に ”丸山” と呼ばれる。)富雄川流域は、武勇の誉れの高い長髄彦一族の本拠地で、後世 有力な武人が出てもおかしくない土地柄だ。
また、彼は(神功皇后から新たな姓を賜り)和珥氏(※2)の祖となって、富雄川流域から最も近い東側(同じ添下郡)に領地を得ている。
そこには巨大な神功皇后の御陵( 全長267m : 全国第12位 )が造られ、新しい形式(盾の形)の前方後円墳・佐紀盾列古墳群がある。
(築造順は 富雄丸山古墳→ 神功皇后陵→ 他の佐紀盾列古墳群 と推定される。)
建振熊命一族(和珥氏)は、大恩のある神功皇后の御陵を、自分たちの領地に設定してもらい、その造営に従事し、御陵を守って勢力を拡大したように思われる。
そして、富雄川流域は 饒速日命・長髄彦から続く 一種の聖域として 手つかずで残された。
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※2 和珥 は、和邇・丸邇・丸とも書く。(ウィキペディア)
( 丸 → 丸邇→ 和邇 → 和珥 へと変化したのではないだろうか?)
建振熊命は、古事記では(系譜は記載なく)丸邇(わに) の臣の祖と記されている。 ※3
元々は 丸(=丸邇)で、これは丸山(古墳)を祖とする一族、との意味にもとれる。
※3
古事記の応神天皇の項で、天皇が 丸邇之比布礼能意富美(ワニ・ノ・ヒフレ・ノ・オトミ)の娘、宮主矢河枝比売 を妻にして生んだ子、3名が記されてる。
この丸邇(わに)の人物は、建振熊命の息子で、その名の「意富美」は「地名の登美」にちなんだ名前に思われる。
建振熊命は鳥見一族と推定してきたが、息子の名前でそれが裏付けられた。 丸邇氏は、富雄川流域を本拠地とする鳥見一族の出である。 (2023.04.14)
《 メ モ 》 (2023.04.15)
和邇氏の拠点・天理市和邇町(隣)にある東大寺山古墳(前方後円墳、全長140m、4世紀後半頃の築造 )が、健振熊命のご陵という説がある。
しかし4世紀後半頃の大和で、(出自が不明な)一将軍が「前方後円墳」の築造を許されるとは思えなく、この説に疑問を持っている。
「わに氏」と言われても、佐紀盾列古墳群のある添下郡の「わに氏」と、天理市和邇の添上郡の「わに氏」は別氏族ではないだろうか?
添下郡は「丸邇」で、添上郡は「和邇」で、古事記の因幡の白兎では、海に住むワニを「和邇」の字で記している。
古事記が健振熊命に使った「丸邇」は丸の意味で、海の「和邇」とは異なっている。 丸邇には円墳の富雄丸山古墳が似つかわしい。
《 関 連 》 武内宿禰のご陵 (2023.04.26)
神功皇后の側近で、建振熊命と共に大功があった武内宿禰のご陵は何処にあるのだろうか、気になった。
武内宿禰は、12代景行天皇~ 16代仁徳天皇の5代の天皇に仕えたと記録される忠臣で、個人名ではなく、世襲名と推定し、
3代の人物が相当すると考えられている。 (「古代史の復元」 武内宿禰の謎: 忍熊王の反乱は武内宿禰Bが該当)
大和政権中枢の大臣クラスの人物なので、当然 ご陵は前方後円墳と考えられる。
武内宿禰 伝承のある陵は、奈良県御所市室にある「 室宮山古墳 」 別名「室大墓」 だった。(豪族分布図↑ 参照)
5世紀初頭に、南葛城の地に突如現れる大形(盾形)前方後円墳で、墳長238mという破格の規模(全国第18位)で、
「大王の柩」といわれる長持形石棺を有している。 大和で、大王家一族を除くと、臣下では最大の前方後円墳と思われる。
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室宮山古墳 も 富雄丸山古墳 も、前代の系譜を引かずに突如現れる大形墳墓という点で共通である。
室宮山古墳は、(大和盆地を挟んで)富雄丸山古墳の真南に位置しており、後円部径148mは、富雄丸山古墳の109mより巨大。
建振熊命の巨大円墳、武内宿禰の巨大前方後円墳 共に神功皇后の側近で大功のあった者に似つかわしい。
ところで、形態(前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳)はその社会での出自を示すが、被葬者のその社会での重要度・影響度の指標となるのは、
墳丘の核となる円墳部分(後円部)の大きさである。 例えば 箸墓古墳は墳長276m、被葬者が埋葬される後円部は150mである。
富雄丸山古墳(109m)は、被葬者の出自(地祇)を省くと、墳長200mクラスの大型前方後円墳(の後円部)に匹敵する。
そんな日本一の巨大円墳にふさわしい武人は、この波乱の時代では、やはり 古事記で活躍する将軍・建振熊命 しか見当たらない。
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