http://shop.kasamashoin.jp/bd/isbn/9784305710123/ 【おとぎ話と神話に隠された古代史の真実】より 関裕二(著)
解説
お伽話を読み解くことで、古代史の隠された真実が解ける!お伽話は牧歌的ではない。敗れた者どもが勝者によって抹殺された歴史を、隠語や比喩を用いて再現しようとする試みではなかったか。古代史ミステリーに迫る1冊!
紹介
お伽話を読み解くことで、古代史の隠された真実が解ける!
桃太郎、浦島太郎、かぐや姫、一寸法師、海彦山彦……誰もが幼きころから耳にしてきたお伽話。実はそのお伽話たちには古代史の謎を解き明かすヒントが散りばめられている。古代の日本の歴史が書かれているとされている『古事記』や『日本書紀』に登場する神話は、お伽話よく似ているものが多い。
子供のころに伝え聞いたお伽話は牧歌的だったが、それは現代人がお伽話の「凄み」を 見落としているからで、裏側には、「敗れた者たちの恨みつらみ」が、籠められている。 だから、お伽話の深層をのぞき見るだけで、古代史の解明につながるはずだ。 不思議なことに、お伽話は『日本書紀』や『古事記』の記事とよく似ている。たとえば、 『日本書紀』や『古事記』の中に、かぐや姫や浦島太郎の「そっくりさん」が登場する。 そして、そのそっくりさんたちは、神話や歴史のなかで、キーマンとなって活躍している。 海幸山幸神話では、籠(亀甲紋だから、亀のイメージ)に乗った天皇家の祖神が、海神 の宮に赴き、美女(女神)と快楽に溺れ、三年後にもどってきたとある。また神武東征説 話の中で、瀬戸内海に亀に乗った男が現れ、案内役を買って出ている。お伽話の浦島太郎 は、これら『日本書紀』に描かれた「浦島太郎もどき」をモデルにして、編み出されたの だろう・・・・。いったい、なんのために? かぐや姫にしても、『古事記』には「迦具夜比売命[かぐやひめのみこと]」が実在の 人物として登場し、しかも彼女の祖母は「竹野比売」で、「竹のお姫様」を名乗っている。 これはいったい何だ。かぐや姫にもモデルはいた・・・・。 さらに、近年考古学がヤマト建国の大筋を言い当てるようになって、『日本書紀』や『古 事記』の神話やヤマト黎明期の説話の中から、「隠された歴史」を再現できるようになっ てきた。神話や神武東征、ヤマトタケルなど、これまで荒唐無稽と思われていた物語の中 に、本当の歴史が残されていた可能性が高くなってきた。 お伽話と神話と考古がを組み合わすことによって、新たな歴史観が生まれるはずだ
歴史は時の勝者に都合よく改ざんされ、史実として残されてきている。お伽話には時の権力者に敗れ去った者たちをしのび、権力者を寓話になぞらえて糾弾するものが多い。お伽話を読み解きことで、古代史の隠された真実、秘められた謎が解けてくる。
【目 次】
はじめに
第一章 桃太郎と吉備津彦命伝説
「桃太郎」の原型は神話だった? 昔話の主役はみな「小さ子」「童子」 「桃太郎」が神がかっているのは桃のせい? 陰陽五行と桃 「桃太郎」の舞台は吉備? 吉備津彦命は四道将軍? 吉備津神社の鬼伝説 『雨月物語』にも登場する鳴釜神事 近畿地方の人びとは文明に抗った? 弥生時代後期の東海地方の発展 東のパワーを侮ってはいけない 北部九州に無関心だった吉備 吉備津彦が「桃太郎」のモデル? 吉備の反乱で吉備は衰退したか?
鬼ノ城は朝鮮半島系 百済系移民と百済の温羅
第二章 神話に登場していた浦島太郎とかぐや姫
浦島太郎は実在したと『日本書紀』はいう 『丹後国風土記』逸文の浦島太郎伝説
浦島太郎の原型はすでに八世紀に固まっていた?『日本書紀』に登場する「浦島モドキ」
小さな違いはあるが天皇家の祖も「浦島モドキ」 神武東征に現れた「浦島モドキ」
ぼろをまとった椎根津彦は鬼? 椎根津彦は祟ると恐ろしい神
椎根津彦は海の民なのになぜ内陸部の国造に任ぜられたのか ホケノ山古墳の謎
海の民の安曇氏がなぜ内陸部に暮らしていたのか 安曇野は交通の要衝
安曇の磯良丸は「浦島モドキ」 カグヤヒメハ実在の人物?
なぜ垂仁天皇の後宮がタニハ一色になったのか タニハは緩やかに繋がっていた
ヤマト建国を背後から支えていたタニハ
第三章 『竹取物語』と神武東征の物語
なぜかぐや姫は賤しい者に育てられたのか 聖なる者が蔑まれていく 貴い神も鬼のレッテルを貼られた 成敗される熊襲と隼人 本当に人はまつろわぬ者だったのか 王家と隼人の本当のつながり なぜ『日本書紀』は王家と隼人が同族と記録したのか 『日本書紀』とスサノヲとソガ氏 「桃太郎」や「浦島モドキ」が古代史解明のヒントとなるか 『日本書紀』はヤマト建国時に活躍した地域を神話から外した? 文字を使うようになって古い歴史は消えた?
九州に向かったタラシの王たち 伸ばしに伸ばした時間軸 ヤマト建国の考古学とぴったり重なる神功皇后 トヨたちのその後 神武東征への道のり ヤマト黎明期に何が起きていたのか
おとぎ話の背景に隠れているヤマト建国の物語
第四章 一寸法師と神功皇后の奇妙な接点秘密
一寸法師は鬱屈した貴種の末裔 一寸法師が住吉の子という設定に意味がある 水と深くかかわる一寸法師 天寿を全うできなかった仲哀天皇 同じ事件なのに『日本書紀』と『古事記』の記事に差がある 恐ろしい住吉大神 住吉大神は自らゴシップ暴露した? 仲哀紀は応神の系譜を無視している 応神天皇の父は武内宿ね? 住吉大神と武内宿ねの接点 住吉大神は星? 住吉大神は太陽でもある? 天の香具山はヤマトの物実 畝傍山は天の香具山の代用になった? 『先代旧事本紀』が尾張氏を物部氏の系譜に組み込んだわけ 尾張の山が天の香具山 藤原氏が消そうとしたのは蘇我氏の祖がスサノヲでヤマト建国の英雄であったこと
宇佐八幡の謎 「八幡神」は負け組 おとぎ話に隠された古代史
第五章 権力者を糾弾するかぐや姫
隼人と蝦夷が八世紀に反乱を起こした理由 竹取の翁と斎部氏のつながり
物語の本質を冒頭で示している 『竹取物語』は藤原氏糾弾の書 帝の入内要請も断ったかぐや姫 前世の宿縁とかぐや姫 いざ、かぐや姫。穢き所にいかでか久しくおはせむ
かぐや姫のいないこの世を嘆く帝 かぐや姫に求婚した五人の貴公子は実在した くらもちの皇子は謀略好き くらもちの皇子のひとり芝居 高い位置に持ち上げられて転げ落ちた物部氏
天の羽衣の重要な呪具 蘇我馬子はもうひとりの「浦島モドキ」? 岡宮の意味
持統天皇の目論み 藤原不比等に利用されて嫌気がさしていた元明 元明はちゃぶだい返しをしたかった? 『竹取物語』は悲しい物語
著者プロフィール
関裕二(セキユウジ)
1959年、千葉県柏市生まれ。歴史作家、武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー。仏教美術に魅了され奈良に通いつめ、独学で古代史を学ぶ。以後、古代をテーマに精力的に執筆活動を行っている。著書に『藤原氏の正体』、『蘇我氏の正体』、『神武天皇VS卑弥呼』、『ヤマトタケルの正体』など多数。上記内容は本書刊行時のものです。
http://rchpp905.livedoor.blog/archives/12230027.html 【日本古代国家の真実 5 津田史観と私の歴史認識】より
日本古代国家の真実 5 津田史観と私の歴史認識
温故知新と言います。邪馬台東遷論争の原点となった白鳥倉吉と津田左右吉史観を3回にわたり紹介しました。津田の史料批判の方法論は近代史学の原点になりましたが、神聖天皇制と実証史学の相克に揺れ動き、時代の帝国主義の潮流に逆らえなかった。津田は、記紀神話を『神代史』という新たな一元化された精神史に分類し、史料批判を世俗神話との分離手法の道具に留めてしまった。しかし津田が史料批判で切り捨てた世俗神話や伝承には、多元的に発生した古代氏族社会の実像が隠されていました。
◎私の古代史観
一元化された単一民族国家は、弥生時代には存在しなかった。九州だけでも100余国の部族集団があり、その中から30部族が合流して邪馬台国が成立する。同様に日本列島には、出雲・丹後・能登・吉備・播磨・河内・摂津・葛城・纏向・近江・東海・武蔵・・・・など、九州から関東まで300を超える環濠で防御された部族共同体集落が並立して存在する多元社会が発生しています。
私の記紀解釈は、弥生の多元重層化社会から、中央集権の世襲王権(天皇制)に移行する約500年の歴史過程を神話化(おとぎ話)したものと考えています。一元国家論では、邪馬台国東遷が疑いもなく想起されますが、多元国家発生論に立てば、弥生時代の邪馬台国と纏向国とは別の部族国家となります。記紀によれば、九州がヤマトに併合されるのは、神功皇后の4世紀になります。3世紀の邪馬台国が日本国の源流だとすれば、なぜ記紀には卑弥呼が登場しないのでしょうか。神武東遷を北九州の邪馬台国からの東遷と描いては問題があるのでしょうか。むしろ魏志倭人伝が国家承認の裏付けになるのだから、記紀に邪馬台国を登場させた方が国際的にも信用されるでしょう。しかしヤマト王権は畿内豪族の連立国家だったから、どこをあら捜ししても記紀には九州の邪馬台国も卑弥呼も登場していません。私はこの歴史観から、古墳時代の日本列島の権力構造を説き明かしてみたいと考えています。
◎白鳥と津田史観の相違点
3世紀以前の日本は、津田が提唱した5世紀の支配者層が共有する精神的歴史神話の『神代史』の範疇であり、弥生から古墳への移行期にあたります。。津田の師の白鳥庫吉も津田左右吉も、つまるところ、単一民族国家の下で日本の精神的支柱は神聖な天皇制でした。二人は記紀神話には奈良時代の政治的潤色があると考える点では一致しています。
しかし白鳥は『古事記』や『日本書紀』の天皇制の精神的呪縛から離脱することができず、記紀を歴史的事実の前提におき、魏志倭人伝の邪馬台国と日本書記のヤマトを疑うこともなく合成して、卑弥呼をアマテラスに擬し、ヤマトは神武が邪馬台国から東遷したと考えました。
対して津田は、記紀という作り物の物語は、5世紀以降の大和王権の心理的産物だとし、それ以前の記紀神話の虚飾を排除し、新たに皇室の神代史を提唱します。津田は『古事記』や『日本書紀』という書物は、聖人が聖人の道、政策を、国民、民衆を統合するのに作った」とし、研究対象に『神代史』を構築します。
◎津田の史料分析手法
イヴィッド・ルーリー(コロンビア大学准教授)は、津田の記紀史料批判の方法について、<多くの異説から共通点のみを採って、異なる遊離分子を取り除いた。遊離分子を取り除いた津田の神代史の原形は、「イザナギ・イザナミ 2 神が 国土を生み、次に日月 2 神とスサノヲを生んだこと、スサノヲが出雲に下り、オオナムチ[=オオクニヌシ]がその血統に生まれたこと、そのオオナムチが国を譲ったので降下となった。日の神は皇室の祖先とされ、天孫降臨と国譲りの物語ができて、その後に日の神と月の神は天に上る前に 地上に生まれた物語によって皇室の世界を領有する。
2 つの物語の相互関係をつくるためにスサノヲとオオクニヌシの物語が作られた。つまり兄弟のスサノヲを通じて、日の神アマテラスは国譲りの主体であるオオクニヌシとつなげらる。津田にとっては、『古事記』や『日本書紀』に見られる他の遊離分子は全て、 この神代史の原形に時代を経てだんだん付け加えられていった「潤色」である。>と分析しています。
津田は、スサノヲのヤマタノオロチ伝説を遊離分子だとみなし神代史から削除しました。削除した理由を津田は、『ヤマタノオロチ退治は、「前後の物語に何らの関係もない」ため、神代史の原形とは関わりがないと判断され、民間説話的とされて排除し、怪物を退治して、その犠牲となろうとした少女と結婚するという話は、世界に例の多い民間説話で、わが国でも『今昔物語集』や馬琴の作品にあり、またスフィンクスを退治したエヂプスの話もこれに類似している。だから、神代史の大筋から抜き去ってよいものである。」とします。
津田は、4世紀以前を全否定するものでもなく、遊離分子を削除すれば歴史的事実が顕れると考えています。
しかしながら津田は、伝説や伝承を排除する文献史学一辺倒のあまり、柳田国男の民俗学や鳥居龍蔵の人類学とは相いれなかった。
1920 年、鳥居龍蔵は、東アジアの幅広いフィールドワークの帰結として<日本民族は、その歴史的経緯から言って複数の民族からなっていた。日本列島は複数の異民族の興亡からなっていて、もともとは アイヌと呼ばれるような人たちがいて、そこに弥生人がやって来て、さらに出雲族がやって来て、最後に高天原から降りたという伝承を持つ天孫族がやって来るという四層ぐらいの構造である。」と、当時の人類学の観点から指摘しています。しかし単一民族国家論の白鳥や津田には受け入れらなかった。鳥居龍蔵の日本民族が重層構造で成り立っていたとする人類学に基づく指摘は、天孫降臨族を除けば的を得ていました。
津田は柳田国男の民俗学についても、「柳田君が 民俗学を日本に興し、豊富な資料を収集した功績は 偉大であるが、その結論には賛成できぬものが多い。それに柳田君の書くものは論旨が晦渋で、趣旨が分かりかねる。もう少し論旨がはっきり分かるように書けないものだろうか」と述べています。
◎津田が切り捨てた民間伝承
津田が遊離分子だと切り捨てた民間説話や伝承の中にこそ、権力により一元化された天皇神聖神話(津田の神代史)で消された多重的に形成された日本文化が隠されています。皮肉なことに津田が削ぎ落とした民間伝承を拾い集めた柳田国男の民俗学の中に、庶民の生きた歴史が埋没していました。
白鳥の東遷論を肯定する和辻哲郎は「記紀っていうのは、記憶の断片としては、確かに六世紀に作られたものだとしても、記憶の断片は六世紀以前のものも入っている」として、津田の記紀解釈を批判していますが、具体的な記憶の断片は実証されませんでした。
戦後に山内清男は、地層位による発掘手法をもとにした考古学を古代史から独立させ、土器編年を指標にした全国の縄文時代の編年表を作成し、先史時代を縄文・弥生の位層編年表に分類します。この編年表を基準に、日本列島の古代史は、記紀神話から解脱し、縄文・弥生・古墳時代へと細分化されていきます。山内は、縄文晩期の亀ヶ岡式(大洞式)土器の出土状況から、鳥居龍蔵の弥生人流入説を否定しています。民族の流入ではなく、縄文人が稲作文化を受容した結果、弥生時代に移行します。戦前の古代歴史学は、記紀の中から日本文化を精神論で解読し、戦後は、実証のある物質文化から歴史的事実を解読する方法論に展開していきます。
◎天皇制国家論からの脱却
津田は、記紀神話が天皇神聖の大和王権の単一的心理的な産物とする皇国史観と、実証主義の歴史学の相克の中で葛藤し、結局、万世一系の天皇制の呪縛から抜け出せなかった。
現在では、ヤマト王権は纏向遺跡の発掘で得られた物証から、列島各地から集合した複数の部族・豪族による権力構造だったことが類推されます。邪馬台国の卑弥呼も30各国の部族連合国家でした。津田が遊離分子として削除した出雲神話は、現在でも畿内各所の地名・伝承・神社誌に痕跡を留めています。和辻哲郎流に言えば、民族の記憶の断片として・・・・。
記紀神話は、津田の分析の通り、奈良時代の万世一系の天皇制による単一民族国家の政治思想を神話化させる目的で物語にされたものですが、津田が遊離分子に分類された中に消された古代史の事実を読むことが出来ます。
私の古代史の課題は、津田が遊離分子といて捨象した伝説や地歴・神社由来・風土記・考古学から天皇制以前の国家構造の実態を描き出すことです。なぜ、記紀神話では、天皇神聖神話に不必要な遊離分子を付加したのか。それは天孫降臨の虚偽を粉飾すために、国家権力を天皇神聖に一元化させるために、古墳時代の大王と連立する豪族たちの伝承を潤色に使ったレトリックでした。つまり遊離分子が歴史の事実であり、5世紀以前の天皇に関する記述は虚飾された神話でした。
おおよその私の歴史認識は、今日の歴史学の成果を踏まえたものです。
しかしながら、記紀にある歴史の事実とは、津田が記紀史料の検証過程で神代史から削ぎ落した伝承こそが、3世紀から5世紀の古墳時代のヤマト王権の権力の実態を語るものだとの真逆の結論に私の理解は達しました。
今日の天皇制は、7世紀後半の天武天皇からで、ヤマト王権の古墳時代は、大化の改新で終止符を打たされました。6世紀の蘇我氏が擁立する女帝時代は、古墳末期と律令制時代の過渡期にあたります。私は、記紀を全否定するものではなく、天皇制を強調する伝説を除外する中に、古墳時代に継承された豪族連合の権力構造の実像が見えてくると考えます。津田の記紀史料批判と真逆の発想から導かれる記紀史料検証の結果によるものでした。
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