蘇我氏の正体

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蘇我氏の正体①  乙巳の変 日本書紀の不自然さ

日本古代史上最大のクーデターのひとつ。乙巳の変。

中大兄皇子、中臣鎌足らが「謀反人」蘇我入鹿を打ち取ったとされる事件ですが、近年の考古学会の解釈では、真実は真逆で、蘇我氏から政権を奪い取るために中大兄と鎌足が起こしたクーデターではなかったか、とする見方が広がっています。

記紀は鎌足の子である藤原不比等が編纂させた書物ですので、父親のことを悪く書かせるはずがありません。そのため記紀の記述は「悪党」蘇我氏対「正義の味方」中大兄・鎌足という構図にして描いていますが、これは歴史書の常で、勝ったほうの都合の良いように歴史が改ざんされていると考えたほうが自然です。

では、記紀は具体的にはどのようにして史実を改ざんしたのでしょうか?

今回は日本書紀の記述から、このことをひとつひとつ、細かく見て行きましょう。

日本書紀 巻第二十四 皇極天皇より 原文・現代語訳(odainippon.com/より引用)。

(1)

六月丁酉朔甲辰。中大兄密謂倉山田麻呂臣曰。三韓進調之日。必將使卿讀唱其表。遂陳欲斬入鹿之謀。麻呂臣奉許焉。

六月八日、中大兄は密かに倉山田麻呂臣に語って、「三韓の調を貢る日に、お前にその上表文を読む役をして欲しい」と言い、ついに入鹿を斬ろうという謀を述べた。

麻呂臣は承諾した。

「三韓の調」という言葉が不自然です(※)。三韓とは新羅、百済、高句麗のことを指すと思われますが、この時期にこの三国がそろって日本に朝貢してくるということ自体が考えにくい・・・。特に高句麗は、隋や唐のような大国にどれだけ脅されようと、服属するよりは戦って独立を維持することを常に選択するような国でしたので、その高句麗が日本に朝貢するとはきわめて考えにくい。・・・となると、ここで「三韓」という言葉を中大兄が使ったこと自体、蘇我入鹿に関心を持たせ、宮廷内に誘い出す口実だったのではないか?

入鹿にしてみれば、「まさかあの高句麗が?」という気持ちがあったはずで、ほんとうに高句麗の大使が朝貢に来ているのかどうか、この目で見て確かめたいと思い、まんまと宮殿に誘い込まれた、とも考えられます。つまり、中大兄のクーデターはこの「三韓の調」という言葉が発せられた時にスタートしていたのでした。

(2)

當居嗣位天之子也。臣不知罪。乞垂審察。

日継の位にお出でになるのは天子である。私にいったい何の罪があるのか、そのわけを言え。

中大兄らに斬りつけられた入鹿が瀕死の身で必死に皇極天皇に訴えかけているシーンです。このシーン、「藤氏家伝」によりますと「臣、罪を知らず。」というシンプルな表記となっており、その前段部分は書紀による粉飾と思われます(※)。

突然斬りつけられ、瀕死の状態に追い込まれた者が、「日嗣の位においでになるのは天子である。」などというややこしいことを口にするものだろうか?という状況を考えてみても、やはり書記による粉飾と考えざるを得ません。

(3)

中大兄伏地奏曰。鞍作盡滅天宗。將傾日位。豈以天孫代鞍作耶。

中大兄は 平伏して奏上し、

「鞍作(入鹿)は王子たちを全て滅ぼして、帝位を傾けようとしています。 鞍作をもって天子に代えられましょうか」と言った。

中大兄が皇極天皇に対して言った言葉です。蘇我入鹿が天皇に取って代わろうとしている、と主張しているのですが、この主張自体に説得力がありません(※)。

当時、蘇我氏は数代にわたって天皇の后として一族の娘を送り込み、天皇の外戚として押しも押されもせぬ政権のトップの座に就いておりました。これ以上の栄華は望みようもなく、天皇に取って代わる必要もなかったわけです。また、自分たちの身内である天皇を殺す理由もありません。

ただし、この乙巳の変が起こった時代だけは少し状況が違い、皇極天皇は蘇我氏系ではありませんでした。そして、中大兄は皇極天皇の息子です。皇極天皇の夫であった蘇我氏系の舒明天皇が崩御し、蘇我氏の血脈が天皇家から少し遠のいたこの時期を捕らえ、中大兄たちはクーデターを決行したのです。中大兄にしてみれば、蘇我入鹿さえ殺してしまえば、皇極天皇は自分の母親。後でどうにでも言いくるめることができると考えていたのでしょう。

中大兄に斬りつけられた入鹿は、当の中大兄本人に対しては何も言わず、皇極天皇に向かって「私に何の罪があるのですか?」と尋ねています。死を目前にした入鹿には、皇極天皇と中大兄が共謀して自分を亡き者にしようとした、と思えたのでしょう。

そして、この言葉は、入鹿が無私の人であり、ひたすら朝廷の繁栄のために働いてきた人物であったことを示しています。・・・人間は死に臨んで最後の言葉を残すとき、虚飾などで言葉を濁すようなことはできないものでしょうから。

・・・それにしても、記紀という書物の面白さというのは、史実を正反対に捻じ曲げてはいても、後世の人がよくよく注意して読んだら不自然なところを残し、そこをよく調べて行くと真実が浮かび上がってくる、という暗号のような書き方をしているところです。

なお、今回の稿は、「歴史読本2014年10月号:㈱KADOKAWA」より、松尾光氏の『特集資料「日本書紀」「乙巳の変」を読む」から多くのヒントをいただいています。

特に文中の(※)印の部分は松尾氏の指摘であることを明記しておきます。


蘇我氏の正体② 捏造された逆臣の真の姿とは?

蘇我氏イコール逆臣。天下を簒奪しようとした大悪人たち、というイメージが古事記や日本書紀によって作られてしまっていますが、いろいろ調べて行くと真実は真逆で、蘇我氏こそは日本古代史上、日本という国の繫栄に最大級の貢献をなした名族と言っても良いくらいの存在ではなかったかと思えてきます。

蘇我氏の果たした業績を並べてみましょう。

① 日本に仏教を根付かせ、世界有数の仏教国となる礎を築いた。

② 天皇中心の集権体制を作り、統一国家としての基盤を確立した。

③ 冠位十二階、十七条憲法を制定し、法治国家としての体制を確立した。

④ 遣隋使の派遣など、周辺国との交流を活発に行い、貿易によって巨万の富を築き、

国の経済、文化の発展に貢献した。

⑤ 天皇記、国記等、我が国で最初の歴史書を編纂した。

・・・いかがでしょうか? 非の打ち所がない、比類すべき存在さえない素晴らしい行跡です。冷静に見ますと、蘇我氏ほど素晴らしい業績を残した氏族はいません。

なお、③については一般的に聖徳太子の業績として認識されていますが、その聖徳太子もまた蘇我氏の一族であり、蘇我馬子らとともに行ったものですから、蘇我氏の業績と認識を置き換えてもなんら問題はありません。

また、一部には「聖徳太子は存在しなかった」という説もあります。

もし、この説を信じるなら、聖徳太子の業績とされるものは実はすべて蘇我馬子や蝦夷、入鹿あたりの行ったこととなります。

これは一見、かなり突飛な説のように映りますが、聖徳太子の実在性については疑問を呈する説も多くあり、その可能性も頭に入れておく必要があります。

では、なぜこれほど素晴らしい業績を残した蘇我氏が悪者に仕立て上げられたかというと、これにはよく知られている明確な理由があります。

蘇我氏を悪人として描いているのは古事記、日本書紀ですが、この二つの書物を編纂するよう命じ、監督したのは藤原不比等でした。

不比等の父親は藤原鎌足。乙巳の変で蘇我入鹿を謀殺した張本人です。

前回見ましたように、乙巳の変そのものがクーデターであり、時の権力者を殺して自分たちがのし上がろうとした下剋上行為です。しかしながら不比等は父親のことを悪く書くわけには行かず、被害者である蘇我入鹿の悪行をいろいろと捏造し、父・鎌足があたかも正義の味方であるかのような粉飾を行いました。このことはほぼ間違いないと思われるのですが、まだ歴史の教科書がそのように書き換えられるまでには至っていないようです。

聖徳太子という存在もまた、蘇我馬子や蝦夷、入鹿の行った輝かしい業績を隠すために記紀のよって作られた存在であり、良いことはすべて聖徳太子が行ったことにして、その名誉を蘇我氏から引きはがそうとしたものかもしれません。

では、記紀に記された「蘇我氏の悪行」とはどんなものであったのか?ということを見て行きましょう。日本書紀によりますと、蘇我氏は、

① 由緒正しい場所に祖先の廟を建て、天皇家にしか許されない舞を行った。

② 自分たちの墓を大規模に作り、多くの民衆を労役に使った。

③ その墓を「陵(天皇家にしか許されない呼称)」と呼ばせた。

④ 自分の家を「宮中」と呼ばせ、子供を「皇子」と呼ばせた。

等々、記されております。

・・・さて、どうでしょうか?・・・いずれも子細な出来事であり、また、なんの証拠も残っていないものばかりです。そして、かりにこれらのことが全部事実だったとしても、誅殺の対象になるような大悪事とは言えないでしょう。せいぜい、不敬罪で罰金、という程度のものではないでしょうか?

それどころか、たとえば②の、蘇我氏の墓の造営ということに関しては、馬子の墓と言われる石舞台(これにも異説あり)あたりが最大のもので、蝦夷や入鹿の墓はさらにずっと小さく作られており、時の権力者の墓としてはむしろずっと質素と言っても良いくらいのもので、これを非難することは理由なき中傷と言わざるを得ません。

蘇我氏が数代にわたり、心血を注いで建設してきた法隆寺や四天王寺等の大伽藍に比べますと、その墓は実に小さなものなのです。

しかも、蘇我氏はそれらの仏教施設に関しては、国費を使わずに資材を投じて建立していたような形跡があるのです・・・。

また、前回も書きましたが、蘇我氏には天皇位を簒奪する理由がありません。

数代にわたって歴代天皇の妻として自らの娘を送り込み、天皇家の外戚として確固たる地位を確立し、すでに天皇をも上回るほどの権力を手中にしていた蘇我氏には、自分たちの身内である天皇家をなきものにする理由などまったくなかったのです。

このあたり、日本書紀の説明は極めて作為的かつ詭弁的であり、調べれば調べるほど情報操作・捏造の匂いが濃くなって行きます。

そして、驚くべきことに、聖徳太子だけでなく、蘇我馬子、蝦夷、入鹿ら、蘇我氏の歴代当主たちのほぼ全員が捏造された存在であるという指摘もあるのです。

これは斉木雲州氏が「上宮太子と法隆寺」(大元出版:2020年)という本の中で指摘していることですが、斉木氏の解説はきわめて具体的で詳細を極めており、それなのに歴史的な齟齬がまったく見られない完璧な仮説と言えるもので、少なくとも古事記や日本書紀よりははるかに信頼がおけるものです。

この仮説をじっくり検証して行きますと、古事記・日本書紀に描かれた、藤原氏による大掛かりな歴史捏造が浮かび上がってきます。

前回、乙巳の変についての新解釈をご紹介しましたが、斉木氏はその乙巳の変さえも「ありもしなかった架空の話」としています。

このように、蘇我氏については、これまでに教科書で学んできた歴史をいったん白紙に戻し、正しい歴史に書き替える必要があります。

次回は歴代蘇我氏当主の一人一人について、その実像を検証して行きます。

(写真は蘇我氏の居宅があったとされる甘樫丘から見る飛鳥地方の風景)。

以下は河原白兎さんのページです。

https://www.facebook.com/groups/2868335226758630/user/100071407144903


蘇我氏の正体㊲ 蘇我氏は釈迦族の末裔である。

今回からは、釈迦族の末裔が蘇我氏となって日本に渡来し、現在のわれわれ日本人のDNAの中に釈迦族の遺伝子を残した、という仮説を展開します。

悪役のイメージが強い蘇我氏ですが、蘇我氏は代々、日本に仏教を興隆させるべく不断の努力を続けた一族です。もしも日本書紀に書かれている蘇我氏の悪口がすべて真実だったと仮定しても、蘇我氏が日本に仏教を浸透させた最大の功労者であることは間違いなく、現代でもなお日本が世界有数の仏教国であるのはひとえに蘇我氏の働きによるものです。

その蘇我氏が釈尊を輩出した釈迦族の血を受け継いでおり、だからこそあれほどまでに仏教興隆に尽力したのだとしたら?・・・。彼らの足跡をたどって行くと、どうやら彼らは釈迦族であったらしい、という史実が浮かび上がってくるのです。

では、時計の針をこれまでから数百年巻き戻して、紀元40年頃の朝鮮半島を舞台に見て行きましょう。西暦41年か42年あたり、現在の韓国南部の町、金海市になっている場所に、「金官伽耶国」という都市国家が誕生します。

金官伽耶国は日本古代史を語る上で極めて重要な国で、学者によってはこの国を高天原に比定する人もいます(これを否定する意見も多々ありますが)。

私自身も、記紀に登場する高木神、武御雷命、天照大神、天孫ニニギといった神々は実際に金官伽耶国に住んでいた人々のことではなかったかと考えています。

つまり、記紀における数々の神話はこの国の歴史を語っているとも考えられるのです。

が、ここでひとつ、断りを入れておかねばなりません。

「日本人の祖先が朝鮮半島にいた」ということを書くと、即座に「だったら日本人の先祖は韓国人だと言うのか?」と、目をむいて怒り出す人がいます。しかしながらこれは歴史の認識不足による勘違い、としか言えません。

古代の朝鮮半島に存在した伽耶国、百済、新羅という国はすべて、その国が滅亡するときに、遺民たちが数万という単位で日本に逃げてきています。彼らは日本に亡命し、帰る場所がなくなったため、そのまま日本で生活し、生涯を終えました。

彼らの多くは先住していた日本人と婚姻し、子孫を残しました。そのため、現代のわれわれのDNAには伽耶、百済、新羅の人々の遺伝子はすべて受け継がれています。この意味で、これらの国はすべて日本の祖先国と言って良いのです。

一方、古代から大陸における戦争では、勝ったほうが負けたほうの人民を皆殺しにするということが普通に起こっていました。伽耶も百済も新羅も、国が滅亡するときは男性や子供はほぼ殲滅され、男系の遺伝子は大陸にはほとんど残らなかったのです。

負けた国の女性は勝ったほうの慰みものになりました。そのため、女系の遺伝子は現在の韓国にも残っていますが、男系の遺伝子のほとんどは日本にこそ残されたのです。

それゆえに、伽耶、百済、新羅の文化、風俗、習慣などもほとんど日本側に引き継がれました。これらの国の伝統行事や祭祀、習俗から家の建付け方法に至るまで、日本人に引き継がれたのです。

この意味で、われわれが日本の古代史を考えるとき、頭の中に思い浮かべるべき地図は現在の日本地図ではなく、朝鮮半島全体と日本列島をまとめて「一つの国」と認識してとらえるべきなのです。現代のように国境が日本と韓国とに分かれているのは朝鮮半島が異民族である高麗という国に侵略され、それまで居住していた民族が根絶やしにされて以降のことで、それまでは日本と朝鮮半島は同じ国と言って良い状態だったのです。

言葉を変えて言えば、後の時代に日本、韓国、北朝鮮と呼ばれるようになった巨大な同一文化圏の中に、古代には伽耶、百済、新羅、高句麗、そして出雲、熊襲、伊都国、奴国といった都市国家群がひしめいており、これらの都市国家が時間とともにだんだん集約されて大きな国家になってゆく様子が日本の古代史であるともいえるのです。

このことを正しく理解していれば、「高天原は朝鮮半島にあった」という仮説を耳にしても腹は立たないはずです。なぜなら、古代、そこは日本だったのですから。

そして、実際に金官伽耶国が建国されてからしばらくの間、日本と朝鮮半島の歴史は金官伽耶国を中心に動いており、当時の金官伽耶は日本の首都と呼べるような存在でした。

なぜかと言いますと、この地方には鉄の鉱脈が大量に存在しており、鉄を保有することがそのまま国家の強さの基準になっていた時代においては、この地が戦略上、極めて重要な土地だったからです。

現在の韓国の高霊市から金海市にかけて流れる洛東江という川の沿岸部に、鉄鉱石の鉱脈がいくつも点在しておりました。これに目をつけたのが朝鮮半島北部にいた遊牧民たちです。

紀元前200年頃、現在の中国に強大な前漢帝国が出現し、周辺にいた遊牧民族たちを辺境に追いやります。

しかし、紀元1年前後になりますと、さしもの前漢帝国の国力も疲弊してきます。

その後、新という国が前漢を滅ぼして勃興しますが、この国はわずか15年で滅び、後漢となった漢帝国が復活、強大な支配力を取り戻します。

これに対し、遊牧民族たちはヨコの連絡を取り合って連携し、後漢に対抗しようとします。

この連携戦略の要と言えるのが、遊牧民族たちによる金官伽耶国の建国でした。

彼らはこの国に入り、鉄鉱石鉱山の利権を押さえることで鉄製の強力な武器を大量に作り、後漢に対抗しようとしたのです。

金官伽耶国を建国した初代の王の名は金首露(キムシュロ)といいます。

当サイトの主宰者である堀哲也氏によりますと、「金」という文字には「仏」という意味があるそうで、古代の仏教徒はしばしば仏の教えを黄金に例えていたようです。

また、「シュロ」という名前は「光り輝く」という意味のサンスクリット語「シュリ」から来ているようで、金首露という名前には「光り輝くブッダの教え」という意味があるようです(いずれも堀哲也氏投稿より)。

仏教は、階級主義が顕著だったインドや漢帝国では受け入れられず、財産をほとんど持たずにアジア大陸を自由に移動していた遊牧民たちに受け入られ、広がって行きました。

そして、金首露王の王妃となった許黄玉という女性。この人こそ釈迦族の女性でした。

この許黄玉と金首露の子供たちが蘇我氏の先祖につながって行きます。

(続く)。(写真は韓流ドラマ「鉄の王キム・スロ」より)。

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