Facebookごとう 孝二さん投稿記事 I LOVE JAPAN❤️〜世界を融和に〜
「ベトナム中を感動させた 少年の大和魂」
東日本大震災は数々の人間ドラマを生んだが、3・11からまもなく、1人のベトナム人記者が取材で被災地に入った。避難所で少年にインタビューする。
少年は津波で両親を亡くし、激しい寒さと飢えで震えていた。一つのおにぎりを家族で分けて食べるような状況だった。記者は見かねて少年に自分のジャンパーを着せかける。
その時、ポケットから1本のバナナがぽろっとこぼれ落ちた。
記者が、「バナナ、欲しいか」と問うと、うなずくので、手渡した。
ところが、少年はそれを食べるのでなく、避難所の片隅に設けられたみんなで共有の食料置き場に持って行き、もとの場所に戻ってきたという。
記者はいたく感動する。帰国すると、<こういう子供はベトナムにはいない。……>と報道した。この記事が大変な反響を呼ぶ。
かつて、ドラマ「おしん」が大人気になったお国柄だ。ベトナムからの義援金は100万ドル
(約8000万円)にのぼったが、このうち、「バナナの少年にあげてください」という条件つきが5万ドルもあったというのだ。
「少年は大変けなげな日本人の美質、DNAをきちんと受け継いでいる。将来の日本を支える若い人たちのなかに、こういう子供は少なくない。」悲劇と苦難のもとでも失われない民族的な強じんさを、一少年の小さな行為から教えられた思いだ。
3・11は<第2の敗戦>とも言われるが、「敗戦の時にも同じような話があったんです」
と言う。それは、ある会合の席で、五百旗頭真防衛大学校長がジョージ・アリヨシ元ハワイ州知事から聞いたエピソードだ。
敗戦の1945年暮れ、占領軍の若い将校だったアリヨシは、東京・有楽町の街角で少年に靴磨きをしてもらった。寒風のなか、小柄な少年が懸命に心をこめて磨く。
アリヨシは白いパンにバターとジャムを塗り込んだのをプレゼントした。少年は頭を下げながらそれを袋に収める。「どうして食べないの」「家に妹がいるんです。3歳で、まり子といいます」と答えた。少年は7歳だという。アリヨシは感銘を覚えた。
「世界のどこの子供がこんなふうにできるだろうか。モノとしての日本は消失した。
しかし、日本人の精神は滅んでいない。あの時、日本は必ずよみがえる、復興すると確信した」と語ったそうだ。
「日本人の悲しみを共有し、日本人に感服する。」
Facebook相田 公弘さん投稿記事「置かれた場所で咲きなさい」
初めての土地、思いがけない役職、未経験の事柄の連続、それは私が当初考えていた修道生活とは、あまりにもかけはなれていて、私はいつの間にか“くれない族”になっていました。
「あいさつしてくれない」こんなに苦労しているのに「ねぎらってくれない」「わかってくれない」自信を喪失し、修道院を出ようかとまで思いつめた私に、一人の宣教師が一つの短い英語の詩を渡してくれました。
その詩の冒頭の一行、それが「置かれたところで咲きなさい」という言葉だったのです。
岡山という土地に置かれ、学長という風当たりの強い立場に置かれ、四苦八苦している私を見るに見かねて、くださったのでしょう。
私は変わりました。そうだ。置かれた場に不平不満を持ち、他人の出方で幸せになったり不幸せになったりしては、私は環境の奴隷でしかない。
人間と生まれたからには、どんなところに置かれても、そこで環境の主人となり自分の花を咲かせよう、と決心することができました。
それは「私が変わる」ことによってのみ可能でした。
いただいた詩は、「置かれたところで咲きなさい」の後に続けて、こう書かれていました。
「咲くということは、仕方ないと諦めることではありません。それは自分が笑顔で幸せに生き、周囲の人々も幸せにすることによって、神が、あなたをここにお植えになったのは間違いでなかったと、証明することなのです」
私は、かくて“くれない族”の自分と訣別(けつべつ)しました。
私から先に学生にあいさつし、ほほえみかけ、お礼をいう人になったのです。
そうしたら不思議なことに、教職員も学生も皆、明るくなり優しくなってくれました。
「置かれたところで咲く」この生き方は、私だけでなく学生、卒業生たちにも波及しました。
結婚しても、就職しても、子育てをしても、「こんなはずじゃなかった」と思うことが、次から次に出てきます。
そんな時にも、その状況の中で「咲く」努力をしてほしいのです。
どうしても咲けない時もあります。
雨風が強い時、日照り続きで咲けない日、そんな時には無理に咲かなくてもいい。
その代わりに、根を下へ下へと降ろして、根を張るのです。
次に咲く花がより大きく、美しいものとなるために。
※出典元:(置かれた場所で咲きなさい ノートルダム清心学園 渡辺和子 幻冬舎)
Facebookj相田 公弘さん投稿記事
人間だけではなくて、あらゆるいのちは「生かされている存在」ではあるんだけれど、
と同時にあらゆるいのちを「生かしている存在」でもあるんだ。
もっと「生かして生きる」っていう視点を大事にしたほうがいいですね。
わたしは「大事なことは、目に見えるものや、 地上に出ているものだけではないんだ」ということに気がつきました。目に見えていることだけ見ていても、本当のこと、真実はわからないのです。それは無農薬・無肥料の自然栽培に限ったことではありません。
人間もそうです。大事なことは、目に見えない部分にあります。
あなたの表に出ていない、自分自身の土壌と根はどうなっているでしょうか?
地球環境のなかで、あるいは神様や仏様のもとで、人々はよく「生かされている」という考え方をします。おごる気持ちがない謙虚な捉え方で美徳ではありますが自然に対面したとき、
「生かされている」という受身だけでは、人は本当は生きていけないことを知らなければなりません。
「人間も植物も、 地球上の生き物のひとつに過ぎないんだ」と思っています。
そして、万物の長として「活かして生きる」という考えを持つことがとても大事だと感じているのです。
人間がすごいのは、「思い」や「気持ち」の持ちようで、いくらでも物事を変化させられることです。心の眼が開くのです。
その力は、だれにでも、いつでも発揮できます。
「奇跡のリンゴ」木村秋則
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