一指李承憲@ILCHIjp
内面に入るにはまず不安を克服します。自分にはもっと高次元の自我があると信じる必要があります。心の平和によってのみ真我に出会えます。きれいに片付いた部屋と散らかった部屋では、どちらが物を探しやすいですか?瞑想は、乱れた心を整理して私たちが迷わずに真我に出会えるよう案内してくれます
Facebook斉藤 一治さん投稿記事
人は、なぜ「あたりまえ」であることに喜ばないのでしょうか。この世に生まれてきたこと
体が五体満足であること 家族、友達や仲間がいること 呼吸ができる空氣も水もあること
ご飯が食べられていること お風呂もトイレもあること 夜には寝る家があること
毎日朝にまた目覚めること こんなにあたりまえがすごいのに、なぜ皆んなは氣づかないのか…それを失ってからでは遅いのに。
はやく知ってください。あたりまえであることの喜びに感謝をしましょう
無償の愛と感謝を…感謝の秘訣は、目の前のものが「もし、なかったら…」と考えてみることです。「これを、この人がしてくれなかったら…」、「この品物がもしなかったら…」、
「この人がこういうことを言ってくれなかったら、その時はムッときたけど今頃自分は…」、
「もし空氣がなかったら…」、「もし、太陽の光がなかったら…」、 「もし、生まれてこなかったら…」、しかし、現実には、それらは「ある」のです。
ないものを「ある」と仮定するよりも、ずっと簡単でしょう?
そうしたら、その「ある」ということが、とてもありがたく感じてくるはずです。
そこから、「ありがたい」という思いがわき出てきます。「ありがとう」の反対は、不平不満です。これは地獄の心です。せっかく、いろいろな恵みを戴いても、「たったこれだけ?」、「まだ足りない」とむさぶる心です。
あるもので満足せず、もっともっと、もっともっとと、ねだる心です。
むさぶる心です。足りない、足りないと思っているうちは、決して心は幸せにはなりません。
「こんなにも戴いて、ありがたい、もったいない」と感謝をする習慣をつければ、心は満たされます。ひと言の不平、ひと言の不満、ひと言の文句、ひと言の愚痴、ひと言の他人の悪口、そのひと言ひと言が確実に、あなたを幸せから引き離していくのです。
中国の兵法家の『孫子』の言葉に「知足の心」というのがあります。「足りることを知る心」、これが幸せの条件の最大のものでしょう。
その「足りることを知る心」、そこから感謝は生じるのです。朝な夕な、ただただ「もったいない、ありがたい」と、すべてのことに感謝することが幸せのもとなのです。
「起きてよし、寝てよし、居てよし、すべてよし」で、ああ、ありがたいと思うと、世の中に「悪しきもの」など存在し得ません。
Facebook寺島 義治さん投稿記事
チベットには「人の半分食べて、人の倍働き、人の3倍笑いなさい」というコトワザがあるけど、その真意を知ってゾっとしたよ。
「人の半分食べる」というのは、謙虚とか禁欲とかいう意味だと思ってたけど、ぜんぜん違うそうだ。「残りの半分は、ほかの人に差し上げる」という意図なんだそうだ。
そもそも仏教でいう断食は、そういう意味があるらしい。修行だからとか、戒律だからというよりも「有限な資産を分け隔てなく」つまり、困っている人を助けるために、自分は食わないのである。身につまされるよね。現代では、断食もダイエットも、自分の健康のため。
もちろん、食うのも自分のため。「for me」ばっかりなんだよな。
日本で断食やダイエットをしている人で、「私が食べる予定だったものを、恵まれない人に」と考えてやっているひとは、ほぼ皆無なのではないか。
バクティ・ヨガを追っていくと、「いちばん日本に足らないもの」「いちばん自分に欠けているもの」が見えてくるような気がするよ。
健康やスタイルを維持するために食わないのではなくて、だれかの食べ物を奪わないために、食わない。
少食は健康のためではなく、ほかの誰かが困らないようにするため。
なお、インドにいる厳密な菜食主義者「ヴィーガン」たちは、牛乳を飲まない。
もともとの理由は「子牛から食事を奪うのは可哀想だから」だそうである。
じぶんの健康のために牛乳を飲まない人間と、子牛を気遣って飲まない人間の、どちらが人間的に高等か。「行為だけ真似る」と、哲学が抜けて、利己主義の多様性が増えるだけなんだな。西洋のヴィーガンは、根っこはただの好き嫌いと似たようなものなのかもしれない。
インドのヴィーガンたちは健康なのに、西洋のヴィーガンたちはのきなみ精神や体調を壊してしまうそうだ。同じアーリア系なのに、反応がまったく違う。
もしかしたら、方法とか慣れとかそういう話じゃなくて「気持ち」が違うからなのかもしれないな。自分のための食事制限は、身体や精神を壊してしまうのかもしれない。
そういえば、バガヴァッド・ギーターにも「(命を)与える人はさらに与えられ、守る人は奪われる」と書いてある。
Facebook松本 昌大さん投句記事
仏陀釈迦牟尼は自己を探究していくジュニアーナ・ヨーガの偉大な達人でした。
イエス・キリストは自己を神にゆだねていくバクティ・ヨーガの偉大な達人でした。
ラマナ・マハルシはジュニアーナ・ヨーガとバクティ・ヨーガを融合させた偉大な達人でした。
ラマナ・マハルシは梵我一如、「宇宙である神と自己は一体である」という古代インドの大聖者ヤージュニャヴァルキヤが説いた真実を復活させた近代インドの大聖者です。
ラマナ・マハルシは
頭からハートに向かって「私は誰か?」と言い続けることによって真我実現に至る真我探究を説きました。
真我探究は、特定の宗教に入らなくても、出家しなくても、現実生活を送りながら真我実現することができる画期的な方法です。
真我探究はハートに光を集中し続け、ハートから光を広げ続けることによって
ハートにある真我は永遠の愛の光であることを実感する実践です◎
真我探究の実践は万人に開かれています◎
Facebook寺島 義治さん投稿記事
ヨガにはなぜこんなにも多くの流派があって、ヤヤコシくなったのか、わかったような気がする。「一部分だけをフォーカスしている」からだったんだなあ。
ボクたちが「ヨガ」と聞いて想像するのは、ほぼすべて「ラージャ・ヨガ(王のヨガ・統合的ヨガ)」に属するもので、いろんな流派はすべてこれの一派に過ぎなかった。
しかしこの「ラージャ・ヨガ」には、決定的に欠落している要素がある。それが「カルマ・ヨガ(行為・奉仕のヨガ)」「バクティ・ヨガ(絶対的信仰のヨガ)」「ジニヤーナ・ヨガ(智慧・知識のヨガ)」である。
じつは、最も古い伝統的なヨガこそが「カルマ・バクティ・ジニヤーナ」の3つで、元来ヨガは「たづな」を意味し、この3つの修練によってこそ「梵我一如」が得られると強く主張していた。
おそらくこれが進化したり相互影響して、大乗仏教になったのだろう。言っていることがほぼ同じだからだ。
困っている人を助け、幅広く勉強をして、神仏に絶対的な帰依を行うというのは、大乗仏教の姿勢そのものでもある。
しかし12世紀以降、西洋からインドに逆輸入されたヨガは様変わりして、健康増進と心身改造を主眼とした体育的な方法論に堕し、ヨーガの心臓部でもあった奉仕・学習・信仰という「魂の要素」は割愛された。大衆化し、骨抜きにされたのである。
キリスト教の影響が強い西洋においては、この核心部分こそが、最も相容れなかったのだろう。「統合的」といいながら、肝心の部分は消去したのである。
だからある意味、ボクたちが見ているヨガは、ヨガではないともいえる。「ヨガのようなもの」なのかもしれない。
日本では「信仰」ということが敬遠されるようになってしまった。体操や瞑想、呼吸法は行っても、神仏への絶対的帰依や、他者への無償の奉仕は行わない。じぶんの健康のことばかり考えている。
世界でいちばんヨガから遠い国、それが日本なのかもしれない。
0コメント