https://monsieurk.exblog.jp/28726370/ 【俳句の翻訳】より
朝日新聞に月一回掲載される、「星の林に ピーター・J・マクミランの詩歌翻 遊」を愛読している。毎回、和歌や俳句1篇を英訳し解説するもので、7月11は、
鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分哉 (蕪村『自筆句帳』)取り上げていた。
その訳は、
Galloping towards Toba detached palace
Five or six samurai
Wrapped in autumn gales.
Tobaだけでは英語圏の読者には分からないので、detached palace 「離宮」という説明を補った以外は原文にそって訳している。galeは「大風、疾風」である。
マクミラン氏は解説で、「この句の情景はまるで絵物語に描かれたようで、『保元・平治物語絵巻』などを思い起こさせる。絵物を右から左へ広げると、暴風の吹き荒れる画面が広がってゆき、駆けてゆく武者たちの動きがいきいきと見えて来る。・・・
日本語でこの句を読むと、鳥羽殿へ急ぐ武者たちの緊張感と、心をざわめかせる野分の風が重なって、一句全体に漂う不安感が印象に残る。しかし、主語が中心になる英語圏の人が読むと、主語である武者に焦点が絞られ、彼らは何をしようとしているのか?という武者の物語に意識が向かうのだ。そのため、英訳では最も注目される武者を最後の行で登場させるのが自然である。だが原文通りの語順でもやはり私は武者たちに焦点を絞ってしまうことに気づき、元の形を生かすことにした。」と述べている。
一つの句でも、英語圏の読者と日本の読者では焦点の置き方が違うという指摘は大変興味深い。俳句のような短詩の場合は、さまざまな読みが成り立ち、それを翻訳する場合も訳者によって異なる訳ができあがる。そして一つの解釈である翻訳を読むことで原文の句の理解が深まっていく。
日本の詩歌が他の言語に翻訳された歴史は古く、次回のブログで触れるつもりだが、ここでは実際にどう翻訳されているかを取り上げてみる。訳文は、「DMM英会話Blog~俳句を英語で楽しもう」によった。
先ずは芭蕉、
古池や 蛙飛び込む 水の音
このあまりに有名な句は、さまざまに訳されている。
Oldpond / Flogs jumped in / Sound of water.
(小泉八雲)
Theold pond, Aye! / And the sound of a flog / leaping into the water.
(Chamberlain)
Theancient pond / A flog leaps in / The sound of the water.
(Donald Keene)
Theold pond. / A flog jumps in / Plop!
(Reginald Blyth)
Anold silent pond... / A flog jumps into the pond. Slash! Silent again.
(Harry Behn)
「古池」を old pondとするか、ancient pondとするか。oldの場合はそれほど広くなく、水が少し淀んでいる池が想像されるし、ancientという形容詞からは庭園や神社や寺などの由緒ある池の姿が浮かんでくる。飛び込む蛙は一匹か複数なのか。「飛び込む」の訳語もjump、leapの二つに分かれる。さらに水の音の表現も、plop、slashと違う。Behnは蛙が飛び込んだあとに戻って来た静寂をsilent againと言葉を添えて強調している。
こうした翻訳の工夫や苦心は、マラルメを中心にフランス象徴詩を日本語にしようとしてきた者にとって、とても他人事ではない。
次も芭蕉の句、
静けさや 岩に滲み入る 蝉の声
Whatstillness! / The voices of the cicadas / Penetrate the rocks.
(Blyth)
Ah!Tranquility / Penetrating the very rocks / a cicada’s voice.
(HelenCraig Mccullough)
そして蕪村、
春の海 ひねもす のたりのたりかな
Spring ocean / swaying gently / all day long.
(三浦ダイアン、三浦清一郎)
「ひねもす」、「のたりのたり」などのニュアンスを伝えるのは絶望的である。sway gently all day longと説明的に訳すのが精一杯だろう。
http://knt73.blog.enjoy.jp/blog/2017/06/post-e4ab.html【日英バイリンガル俳句 <「薔薇呉れて聖書かしたる女かな」(高浜虚子)>】より
「高浜虚子の俳句『壺すみれ』をHAIKU(英語俳句)に翻訳する」において誤訳の例を紹介し、俳句をHaikuに翻訳する難しさに触れましたが、同じ翻訳者が掲句を次の通り英訳しています。(出典)One Hundred and One Exceptional Haiku Poems by Kyoshi Takahama
Giving roses,
A woman
Lent me a Bible
上記英訳の「giving」について、「誰が誰に薔薇を与えたか」曖昧です。原句においても、「薔薇呉れて」「聖書貸したる」「女かな」の主体(主語)と客体(目的語)の関係が曖昧です。したがって、曖昧な翻訳になるのもやむを得ないでしょう。しかし、「give」は二重目的語をとる授与動詞ですから、この翻訳のように目的語が一つしかない文法的に不完全な表現は英語俳句(HAIKU)として拙いでしょう。
高浜虚子がこの俳句を詠んだ背景を知ろうとインターネット検索をすると、「増殖する俳句歳時記」の今井肖子の解説に、高浜虚子の下記自解が紹介されていました(抜粋)。
「ふとしたことで或る女と口をきくやうなことになつた。その女は或とき薔薇を剪つてくれた。そしてこれを讀んで見よと云つて聖書を貸してくれた。さういふ女。」
上記の高浜虚子自解に基づいて主体・客体の関係を明瞭にして次の通り翻訳します。なお、上記の翻訳は各行の最初の文字を大文字にしていますが、このように3行で一つの文(各行は文の一部)になっているHAIKUの場合は不適切です。文頭のみ大文字にして句意を明瞭に表現します。
Giving me roses,
a woman
lent me a Bible.
余談ですが、高浜虚子は原句を作ったときは26歳です。
今井肖子の句評にあるように、高浜虚子はこの女性に対して何か格別の思いや印象があったのでしょうか? それとも、「聖書」と「バラ」や「イエス・キリスト」と「バラ」の関係などについて何らかの「謂いわれ」があったのでしょうか?
高浜虚子が掲句を作った背景として、「薔薇」と「聖書」の間に何か関連があるのではないかだろうかと興味が湧き、インターネットで検索すると、「シャロンのバラ」とか、「Rose Of Sharon」という言葉が目につきました。(Jesus As The Rose Of Sharon参照。)
掲句の背景について何かご存知の方があればコメントを頂きたいと思っています。
https://note.com/langeech/n/n1f93cab6226c 【2021年8月9日(月)|聖書の翻訳比較について】より
聖書を読むときは、複数の翻訳を比べながら読むのがいいと思う。というのは、別に新奇なアイデアでもない。
解釈上問題のある箇所ーー例えば、Aという解釈とBという解釈との二つの解釈がいずれも妥当な箇所があるとする。Aの解釈を採用した翻訳しか読んだことがなければ、Bの解釈を知ることはできない(良質な注解書などを参照しながら読む場合は例外)。
「複数の翻訳を比べながら聖書を読むことで、複数の解釈を知ることができる」という解釈上の利点の他にも、複数の翻訳を並べて読むことの価値はある。
それは、普段とは違う翻訳で読んでみることで、読み慣れてしまった箇所を新鮮に味わい直すことができ、再び感動し、また驚くことができるというものである(はなはだ主観的ではあるけれど)。
多くのクリスチャンが愛唱する聖書箇所に、イザヤ書43章4節がある。とりあえずここでは、「高価」や「尊い」に関わる表現に注目してみたい。
(以下の引用文について、太字はすべて筆者による。また「/」は訳文における改行を表す。)
わたしの目には、あなたは高価で尊い。/ わたしはあなたを愛している。(新改訳2017)
あなたは私の目に貴く、重んじられる。/ 私はあなたを愛するゆえに・・・(協会共同訳)
われ看(み)てなんぢを寶(たから)とし尊きものとして亦(また)なんぢを愛す(明治元訳)
あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの、わたしはあなたを愛するがゆえに・・・(口語訳)
わたしの目にあなたは価高(あたいたか)く、貴く/ わたしはあなたを愛し・・・(新共同訳)
Because you are precious in my eyes, / and honored, and I love you, ... (English Standard Version 2016)
Since you are precious and honored in my sight, / and because I love you, ... (New International Version)
自分が読み慣れまた聞き慣れてきたのは新改訳2017の訳で、「わたしの目には、あなたは高価で尊い」というものであった。
もちろん、これだけでも感動に値する。しかし、読み慣れまた聞き慣れるうちに、このことばの内容の深さ、驚きを見失ってしまっていた。
文語訳では「寶(たから)」と訳されている。神にとって、「あなた」は宝ほどに価値のある、大切なものであるという。
しかし私が最も感動を味わったのは、また驚いたのは、英訳を読んだときだった。
Since you are precious and honored in my sight, … (New International Version)
このhonoredということばにはっとさせられた。
自分は英語母語話者ではないため、その意味を完全に理解できているとは言い難い。それでも、honoredということばが持つ響きに感動した。
英語のhonoredという語の用例を見るに、I am greatly honored by your presence(あなたがいてくださることによって私は大いにhonoredです→ご臨席を賜り大変光栄に存じます)やI feel highly honored by your invitation(あなたが招いてくださったことによって私は大いにhonoredです→お招きいただき光悦至極に存じます)など、一人称の主観的な感情を表すことばとして用いられているという印象を受ける。
しかしイザヤ書43章では、神ご自身が「あなた」と呼ばれる対象に向けて、You are honored in my sight(あなたはわたしの目にhonoredである)と述べておられる。
一般的な用法とは異なるために、異様な印象を受けた。異様な印象が強かったために、耳に残って離れないようになった(ちなみに、You are honoredという表現が本当に異様なのかどうかは、実際に英語母語話者の方に尋ねてみないと分からない・・・)。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い」という、あまりに聞き慣れすぎて聞き流すようにさえなっていたこのことばを、英訳に触れることで、新鮮に聞き直すことができた気がした。もっと言えば、忘れていた感動(もしくは、そもそも感じられていなかった感動)を再び味わえた心地がした。
ところで、「神はあなたを愛しておられます」ということばも、あまりに聞き慣れすぎたためにその感動を味わえなくなっている、驚くことができなくなっている、そんな気がしている(共感してくださる同志、おられませんか)。
上に取り上げた箇所で言えば、「わたしはあなたを愛している」よりも「わたしの目には、あなたは高価で尊い(あなたはpreciousでhonoredな存在である)」の方に感動を覚える。
神の〈愛〉という重要な主題を、今や陳腐になってしまったとさえ言える「愛」ということば以外で語ることができたら、驚きと感動を取り戻せるのではないかと思ったりもする。
しかしおそらく、新しく見出した表現もそのうち陳腐になり、また別のことばを探さないといけなくなるだろう。噛めば噛むほど味が出ることばがあったとしても、長く噛みすぎるといつかは味がしなくなるものだ。
それでも、工夫の探求は続けたい。
「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見、追い立てる者たちの前での彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを確かに知っている」(新改訳2017)という出エジプト記(3章7節)の記述などは、「愛」ということばこそ用いられていないけれど、神の〈愛〉を感じさせてくれる。
他にも、例えば遠藤周作による『沈黙』のあの場面もまた、「愛」ということばを用いることなく神の〈愛〉を感じさせてくれる。
「自分は今、自分の生涯の中で最も美しいと思ってきたもの、最も聖らかと信じたもの、最も人間の理想と夢にみたされたものを踏む。この足の痛み。その時、踏むがいいと銅板のあの人は司祭にむかって言った。踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はおまえたちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。」(『沈黙』新潮文庫版、219頁)
「(踏むがいい。お前の足は今、痛いだろう。今日まで私の顔を踏んだ人間たちと同じように痛むだろう。だがその足の痛さだけでもう充分だ。私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあう。そのために私はいるのだから)」(『沈黙』新潮文庫版、240頁)
とはいえ、これらのことばが神の〈愛〉を表現するものだったとしても、光が当てられているのは一側面に過ぎない。神の〈愛〉はもっと多面的で、そのゆえに色々なことばで言い換えられるのだろうと思う。
キリスト教の「愛」ということばについて、皆さんはいかがお考え(お感じ)ですか?最近、特に心を占めている問題です。
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