https://www.sankei.com/article/20230302-X5LNLPUVE5NM7KOQB2DBEOX7XY/ 【徳川家康の信仰㊤ 天台と浄土、どちらの信徒?】より
前回までに徳川四天王のうち2人を取り上げましたので、本当は酒井忠次か井伊直政のことを書くべきなのですが、徳川家康の信仰のことが気になったので、今月はそれを書いてみたいと思います。
歴代徳川将軍のお墓がどこにあるかご存じでしょうか? 大きくは2つに分かれて存在しているんだよね、と答えられた方はかなりの歴史通ですね。2代秀忠、6代家宣、7代家継、9代家重(「今でしょ!」の林修先生に似ているとの説あり)、12代家慶、14代家茂は芝の増上寺。他の4代家綱以下は上野の寛永寺になります。特例は初代家康と3代家光で、日光に祀(まつ)られていることは有名ですね。
増上寺は浄土宗の大寺院です。江戸時代の荘厳な建物は残念ながら太平洋戦争時の空襲で焼けてしまいましたが、戦災を免れた「三解脱(さんげだつ)門」(他のお寺だと山門に相当する。重要文化財)の威容から、当時のさまがしのばれます。ちなみに、最寄りの地下鉄の駅が「大門」(読みは「だいもん」です。「おおもん」は吉原)なので、ぼくは恥ずかしいことにずっと三解脱門=大門だと思っていました。違います。大門は表門で、別にあります。もとは江戸城の城門を移築されたものだそうですが、現在の大門は昭和12年に作られていて、コンクリート製だそうです。
一方の寛永寺は天台宗のお寺。山号は東叡山。まさに東の比叡山の名にふさわしい大寺で、上野恩賜公園一帯を寺域としていました。現在、この地域は花見客でにぎわったり、動物園、博物館、美術館が立ち並んでまさに「私たちの憩いの場」になったりしていますが、江戸時代は将軍家のみたまの安息地ということで、町人の出入りが禁じられていました。
寛永寺は江戸城の北東、すなわち鬼門に置かれ、増上寺は南西、裏鬼門にあります。平安京の比叡山延暦寺と石清水八幡宮に相当するわけです。為政者が本当に風水的なことを意識していたのかどうか、ぼくは寡聞にして知らないのですが、位置関係はそういうことになっています。また、江戸城の本丸と寛永寺を結ぶ線を延長していくと、日光東照宮に達するのも有名な話ですよね。
ところで、改めて言うと、2つのお寺は天台宗と浄土宗。宗派が違うわけです。では家康は、どちらの宗派を信仰していたのでしょうか。「宗論はどちら負けても釈迦(しゃか)の恥」との川柳もありますし、仏様は異端審問など、あまりかたいことは仰(おっしゃ)らないイメージがありますのでどちらでもいいのかもしれませんが、少し考えてみましょう。
そういえば、こんなエピソードがあります。病に倒れた(胃がん説が有力)家康の容体がいよいよ重くなり、お気に入りだった藤堂高虎が駿府城に駆けつけた。すると家康は、そなたには随分と尽くしてもらったが、われわれは宗派が異なるのであの世では会えまい。これでお別れだ、と言った。すると高虎は枕頭(ちんとう)に侍(はべ)っていた南光坊天海を伴って別室に下がると、ややあって家康のもとに帰ってきて言った。いま天海さまにお願いして、宗旨を変える儀式を行っていただきました。これで私も大御所さまと同じ宗派になりました。あの世でも変わらずに奉公いたします。それを聞いて家康はにっこり笑った、というのです。
高虎の本来の宗旨は日蓮宗です。それを天台宗の高僧である天海に頼んで変えたというのだから、天台宗になったと考えるのが自然です。これはたぶん史実ではないのでしょうが、一応この話の前提としては、家康は天台宗を信仰していたことになりますね。いやしかし。彼の旗印は有名な「厭離穢土(おんりえど)、欣求(ごんぐ)浄土」でしたし、「南無阿弥陀仏」と細かな字で書き連ね、手印を押した資料も存在する。敬慕するお母さんであるお大の方は、荘厳な知恩院に祀られているとおり、熱心な浄土宗の信者です。こう見ていくと、やはり史実の家康は浄土宗を信仰していたと考えるべきではないでしょうか。
ひとつ、抜け道がないわけではありません。それは、天台宗の性格を考慮することです。天台宗、とくに比叡山延暦寺は、いわば中世仏教の総本山としての性格を有していました。鎌倉新仏教として知られる浄土宗も、浄土真宗も、日蓮宗も、禅宗ですら、みな延暦寺もしくは天台寺院で修行した僧によって打ち立てられた宗派です。この史実を以(もっ)て、たとえば黒田俊雄先生は中世の仏教界の正統は平安時代と同じく、依然として天台宗であり、また真言宗である。これらを「正」とすれば、鎌倉新仏教は「従」と位置づけねばならない。そうした内容の「顕密体制論」を唱えられました。
黒田理論の是非はおくとしても、天台宗は思想の懐が深く、また広く、鎌倉新仏教の母体となっています。浄土宗を開いた法然上人も延暦寺の黒谷(くろだに)で修行をし、「智恵第一の法然房」とうたわれた方でした。この意味で、天台宗と浄土宗は、決して矛盾するものではない、との思想が生まれてもおかしくはない。たとえば有名な長野の善光寺は、天台宗と浄土宗、2つの宗派の僧侶によって守られています。
天海は家康の没後、山王一実神道に依拠して家康の霊を権現(東照大権現)の神号で祀ることを主張しました。山王一実神道においては、山王権現とは大日如来であり、天照大神でもあります。天台宗に真言宗(大日如来は真言宗の最高仏)、それに日本古来の神道までを包摂するのが天海という思想の巨人ですので、彼が浄土宗との融和を図っていても不思議ではありません。次回もこのあたりについて、考察してみます。(次週に続く)
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■増上寺
室町時代の明徳4(1393)年、現在の東京都千代田区麴町あたりにあった寺院を、浄土宗第8祖の酉誉聖聡(ゆうよしょうそう)が真言宗から浄土宗に改宗し創建。当時は下総の守護大名、千葉氏との関係が深かったらしい。やがて江戸にやってきた徳川家康の帰依を受け、寺地は現在のところに移された。写真は本堂にあたる大殿(だいでん)で、昭和49年に建てられた。後ろには東京タワー(建設時に増上寺の土地を譲られた)が見える。
https://www.sankei.com/article/20230309-KQ63DB64X5K6DBFLAJLVYGTLTI/ 【徳川家康の信仰㊦ 「東照」に込められた意味は】より
何も疑問を感じなかったのに、立ち止まって考えてみると分からなくなることって、少なくないですね。家康の神としての名、東照大権現がまさにそれ。「権現さま」について、明神号を推す金地院崇伝と、権現号を主張する南光坊天海の議論の結果、権現に定まったという話は有名ですので、それはさておいて。世間でも研究者にもあまり問題になっていない「東照」の方を見ていきたいと思います。
東照。2つしかない漢字なので、いま文法は無視します。そうすると、①東を照らす、なのか。②東から(日本を)照らす、なのか。もしこれが①であると、ぼくが抱えている疑問が氷解するのです。疑問とは、「なぜ徳川家康は江戸に幕府を開いたのか」。源頼朝は朝廷の力が強力だったので、僻地(へきち)である東国を基盤とするしかなかった。足利尊氏は、武士はもう十分に力を付けたと評価して、京都で幕府を開いた。その流れを受けて、織田信長も豊臣秀吉も、先進地域であった京の周辺に政権の本拠を置いた。
ではなぜ、家康は当時はまだ田舎だった関東に拠点を置いたのか。それがぼくには、難問なのです。一つの答えとして、家康は内需拡大を狙った。関東と東北を発展させれば、日本列島はまだまだ豊かになる。そう考えた。それを答えAとして、これは妥当なのか。実際、陸奥国は江戸時代初めの生産力が150万石くらい、それが幕末には300万石に。出羽国は30万石が150万石に。飛躍的に米が取れるようになった。ではAは正解か? うーん、その割に家康って、政権を開いた後、江戸にはたった2年しかいなくて、駿府に行っちゃうんだよなあ。江戸に愛着を持っていなかったのかな? そこでもしも、東照が①ならば。日ごろ家康が「これからは関東・東北だ! 私はそのためにがんばるぞ」的なことを周囲に言っていた結果として①だとすると、実に都合がいいんですが…。
いや、ところがですね。東照を提案したのは朝廷だそうです。幕府から朝廷に申請があって、朝廷はそれでは次から決めたらどうですか、と東照大権現、日本大権現、威霊大権現、東光大権現の4つを示した。幕府はその中から東照を選択したそうです。提案元が同一なら、この4つは同じテイストであるはずですね。日本でも威霊でも、根本はそんなに変わらないとすると、東だけを照らす、はあり得ませんね。②東から日本を照らす、が正解のようです。
ぼくの中では、一つ問題が片付きました。そこで次。日光輪王寺さまのホームページを拝見すると、東照大権現の本地仏は薬師如来とあります。確かに東方の仏様は薬師如来ですよね。あっ、そうか! 家康が薬師如来だからこそ、薬師如来の眷属(けんぞく)たる12神将を家康の家来たちに見立てて、「徳川十二神将図」もしくは12神将に四天王を加えた「徳川十六神将図」が描かれるのか。なるほど、なるほど。ちなみに武田は24将で安定していますね。上杉だと17とか25とか。毛利は18かな。
などと一応は納得したものの、実は根本的な問題が残っています。というのは、前回から問題にしている、家康自身の信仰です。家康は浄土宗の信仰を持っていたはず。となると、帰依していた仏は阿弥陀如来なんじゃないのかな。もちろん、阿弥陀如来は西方浄土にいらっしゃるので、東と西、方向も全く逆。いいのかな? まあ前回も言いましたが、仏様はそんなに堅苦しいことは仰(おっしゃ)らないはずですが…。
もう一つの疑問。そもそもなぜ日光か。これは回答があります。家康側近の金地院崇伝の『本光国師日記』には、崇伝と天海と本多正純が呼ばれ、「臨終候はば御躰をば久能へ納。御葬礼をば増上寺にて申付。御位牌をば三川之大樹寺に立。一周忌も過候て以後。日光山に小き堂をたて。勧請し候へ」と指示された、とあります。日光には「小さき堂」なのです。でも、家康は久能山から日光に改葬されたといい、あんなに荘厳な宗教施設が建立されました。
久能山、増上寺、大樹寺と異なり、家康は生前、日光とは縁がありません。想像してみてください。皆さんが眠るとき、知らない土地がいいですか? ぼくはいやだな。やはりなにがしかの縁故があるところ、思い出があるところが良い。家康ほどの英雄となると、発想が異なってくるんでしょうけれど。
日光という地はもとは修験で栄えたところです。天台宗と縁が深く、鎌倉時代には日光山座主がトップとして置かれました。その座主の地位を兼任していたのが、京都の本覚院門跡で、この門跡は青蓮院門跡の支配下にありました。ということを考えると、家康を日光に改葬して日光に巨大な宗教的施設(寺でもあり神社でもある。修験の聖地でもある)を創造したのは、家康の遺志というよりも、天台宗の高僧である天海僧正の理念に基づいていたのではないでしょうか。
江戸時代後期の武士で、勤務地の駿河をくまなく調査した阿部正信が『駿国雑志』という書物をまとめ、そこに家康の改葬についての天海の和歌を載せています。「あれはある 奈(な)け連(れ)は奈ひ尓(に) 駿河なる く能(の)奈き神の 宮遷(うつ)し哉(かな)」「駿河なる」は「する可なる」にかかっている。「くのなき」は「軀(く)のなき」という字を当てるべきだと地元静岡では言っている。となると、この歌の意味はこうなります。「家康様の遺体があればある、ないならないとしておけばよいではないか 家康様のご遺体のない、久能山から日光山への宮移しであることよ」。この歌が本当なら(あくまでも阿部が採集したもので、本物である可能性は高くはない)、家康の遺体は今でも久能山に眠っていることになりますが、さて?
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■家康が眠る?宝塔
日光の奥社にある宝塔。昭和40年までは非公開だった。元和8(1622)年の創建で、もともとは木造だった。寛永18(1641)年に石造に改められ、天和3(1683)年に現在の唐銅製(金・銀・銅の合金)になった。文化財としても貴重で、重要文化財に指定されている。この下に徳川家康の遺体が眠っているという。かりに遺体自体が久能山から移されていないとしても、神社は神霊を祀(まつ)るところであるから、全く問題はない。
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【プロフィル】本郷和人
ほんごう・かずと 東大史料編纂(へんさん)所教授。昭和35年、東京都生まれ。東大文学部卒。博士(文学)。専門は日本中世史。
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