「黒歯国」はどこにあった?

https://ameblo.jp/yamatai-nihongi/entry-12408311302.html 【「魏志倭人伝」最後の国「黒歯国」はどこにあった? ~船行一年の罠~】より

テーマ:邪馬台国

***【お知らせ】************************

総合オピニオンサイト「iRONNA」に論文が掲載されました。

タイトルは〈「邪馬台国は熊本にあった」魏の使者のルートが示す決定的根拠〉です。

ぜひ、本ブログとあわせてお読みください。

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 先日、『甦る三国志「魏志倭人伝」』(彩流社/2012年)の著者である中島信文氏とお会いする機会がありました。拙著『邪馬台国は熊本にあった!』の中で、ご著書から一部引用させていただいた方です。

 そこで、今回はその引用した中島氏の説に関連して、黒歯国(こくしこく)について書こうと思います。

 黒歯国は「魏志倭人伝」に最後に登場する国です。

 「魏志倭人伝」には、邪馬台国や伊都国などの女王卑弥呼に属する国と、それに敵対していた狗奴国の他にも、いくつかの国が登場します。

 その部分の記述は次のようになっています。

女王国東渡海千余里 復有国 皆倭種 又有侏儒国 在其南 人長三四尺 去女王四千余里 又有裸国 黒歯国 復在其東南 船行一年可至参問 倭地絶在海中洲島之上 或絶或連 周旋可五千余里

*区切り方は私の考えによる

 その内容は、まず「女王国から東へ千余里、海を渡ると、いくつか国がある。皆、倭の系統の人の国である」と記します。続けて、「その(倭種の国の)南に侏儒国(しゅじゅこく)がある。(侏儒国は)女王国から四千余里離れたところにあり、身長1メートルほどの小さな人たちがいる」と述べます。

 そして、その後に裸国(らこく)と一緒に登場するのが黒歯国です。ここの解釈が従来からの問題点で、トンデモ系の説を出現させる原因にもなっています。

 「又有裸国 黒歯国 復在其東南 船行一年可至」を「またその(侏儒国の)東南に裸国、黒歯国がある。船行一年で至るべし」と訳し、黒歯国は侏儒国から東南へ、船で1年もかかる遠方にあるとする説が従来の主流でした。

 しかし、それに基づいて比定地探しを行うと、もう何でもありの状況に陥ります。船で1年なら、地球上のほぼどこにでも設定できるからです。日本の北海道や沖縄はまだよい方で、インドネシアや南米などという説まで飛び出してくるのです。

 太平洋で船が流されて、奇跡的に南米に流れ着くという可能性がゼロだとは断言しませんが、その人がまた日本に戻ってきて「東南に黒歯国がある」と伝える可能性は限りなくゼロに近いのではないかと思います。それに、そんな国が東夷伝倭人条に書かれること自体に違和感を覚えます。

 なぜこんな解釈が長い間完全否定されずにきたのか? そこには『後漢書』の記述も影響を及ぼしていると思います。『後漢書』が黒歯国について次のように述べているからです。

自女王国東度海千余里 至拘奴国 雖皆倭種 而不属女王 自女王国南四千余里 至朱儒国 人長三四尺 自朱儒国東南行船一年 至裸国黒歯国 使駅所伝極於此矣

(女王国から東へ千余里、海を渡ると拘奴国がある。皆、倭の系統の人だが、女王には属していない。女王国より南に四千余里で朱儒国に至る。身長は1メートルほどである。朱儒国から東南に船で1年行くと、裸国、黒歯国に至る。ここが郡使や通訳の行き来する限界である)

 『後漢書』は、明らかに朱儒国(侏儒国)から「船で1年で」黒歯国に至ると記しているのです。

 『後漢書』倭伝の記述は、「魏志倭人伝」がもとになっていると言われています。しかし、内容には多くの食い違いがみられます。この部分だけをみても、「魏志倭人伝」では女王国の南にあった狗奴国(くなこく)が、『後漢書』では女王国から東へ千余里海を渡ったところに移動しています。国名も微妙に「朱」儒国、「拘」奴国と変わっています。また、朱儒国(侏儒国)についても、「魏志倭人伝」では倭種の国の南にあり、女王国から四千余里のところとされていますが、『後漢書』では女王国から南に四千余里のところに変わっています。

 『後漢書』は、「魏志倭人伝」の完成後150年を経て編纂された書物です。そして、上記のように、その記述を100%信用してよいかどうか疑念の残る書物なのです。しかし、これらが単なる誤写か、意図的な書き換えだったかはわかりませんが、『後漢書』では黒歯国は船で1年かかる遠方に設定されてしまったのです。しかも、そこまで使者や通訳が行き来していたとまで書かれているのです。この『後漢書』の記述が、逆に「魏志倭人伝」の誤った解釈を肯定させてきた一因だともみることができます。

 しかし、「魏志倭人伝」を改めて読むと、別の解釈が成り立つことがわかります。私が、『邪馬台国は熊本にあった!』を執筆しているときに出会った書物がそれを教えてくれました。それが、中島信文氏の著作『甦る三国志「魏志倭人伝」』です。

 中島氏はその著書の中で、「至」の用法はすべて「至(動詞)+名詞(目的語)」であるとして、従来の「船行一年可至 参問倭地絶在海中洲島之上」と区切って「(裸国、黒歯国には)船行で一年かかる。倭の地の様子を尋ねるに〜」と読むのは間違いで、「船行一年可至参問 倭地絶在海中洲島之上」で区切って読むのが正しいという説を提出されています。氏は続けて、次のように述べます。

『船行一年可至参問』の正しい解釈とは、読み下し的には、「船行一年以上(の期間)が参問(倭調査の訪問)に至った。達した。要した。」であり、簡単に意訳すれば、「倭の旅は、ここまでで船を主体に一年以上の期間を要した」となる。(『甦る三国志「魏志倭人伝」』より抜粋)

 私は、中島氏のこの新解釈が正解だろうと思っています。「魏志倭人伝」の撰者である陳寿(ちんじゅ)はそのつもりで書き記したが、約150年後、『後漢書』の范曄(はんよう)はそう読まず、黒歯国まで船行一年と読んだのではないでしょうか。

 何はともあれ、中島氏の解釈を採用すると、「船行一年」の罠から抜け出すことができます。実に南米にまで移動させられていた黒歯国を本来の位置に引き戻すことが可能になるのです。

 冒頭の「魏志倭人伝」引用文の後半部分の「又有裸国 黒歯国 復在其東南 船行一年可至参問 倭地絶在海中洲島之上 或絶或連 周旋可五千余里」は次のように訳すことができます。

また、その(倭種の国々の)東南には裸国、黒歯国がある(らしい)*。倭の旅はここ(邪馬台国)まで一年以上の期間を要した。倭の地は、遠く離れた海の中の洲島の上にあり、あるいは海で隔てられたり、あるいは陸続きであった。めぐり歩いた距離は五千余里ほどであった。

*(らしい)としたのは、「魏志倭人伝」の原史料を書いた郡使の一行は、邪馬台国までしか足を運んでおらず、倭種の国、侏儒国、裸国、黒歯国については伝聞と考えているからです。

 そして、この解釈を、1里70メートルとして現在の日本地図に当てはめると、図1のようになります。

◆図1 侏儒国・裸国・黒歯国の比定地

 倭種の国々の東端がどこまであったかは記されていません。しかし、その南側にある侏儒国は女王を去ること4千余里ですから、ほぼ讃岐平野の辺りに比定することができます。そして、倭種の国々の東南にあった裸国と黒歯国は、距離が不明なのでかなりあやふやな比定になりますが、それぞれ徳島平野、淡路島あたりだったのではないかと考えられます。

 「黒歯国」は淡路島という結論になりました。私の中では、このあたりが現実的な結論ではないかと納得しています。そして、それは「魏志倭人伝」の描く倭の世界観が、最も狭くみても淡路島ぐらいまでは広がっていたということを示しています。

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