https://blog.goo.ne.jp/okadaguu/e/5a9d5a1e7c44efa91bbfa1024fe3a321?fm=entry_awp_sleep 【月読尊~お月さまの神様~】より
月読尊(つくよみのみこと)
月読尊はその名前の文字から判るとおり月の神様で、太陽の女神である天照大神(あまてらすおおみかみ)の弟です。そして素戔男尊(すさのおのみこと)の兄神にあたります。
※月読尊はウサギではありません・・・
世界の神話の中では太陽と月は兄弟関係にある場合が多く見られるのですが、日本でもやっぱり太陽と月は姉弟です。
日本書紀での月読尊は「太陽の光に次ぐ存在」とされています。
太陽神の弟ですからね。それはそれは貴公子然とした神様だったのでしょう。
また平安時代に書かれた伊勢神宮の儀式文書には、「馬に乗った男神で、紫の衣を纏い、黄金の太刀を佩いている」と書かれています。
騎乗で、しかも紫の衣を着こなして・・・さらに黄金づくりの太刀を佩いているなんて・・・
ますますもって貴公子ですね。
この月読尊、はじめはお姉様の天照大神と一緒に天上にあって世の中を統治しておられたのですが、ある日、天照大神から「地上にいる食べ物の神様である保食神(うけもちのかみ・女神)に会っていらっしゃい」と言われて、地上に降り立ちます。
訪ねてきた月読尊に対し、保食神(女神)はこれを歓迎し、早速宴を催してたくさんの食事で月読尊をもてなします。そう。保食神(女神)は食事の神。突然訪れた貴公子に対する豪勢な宴の用意など造作も無い事。そんな保食神(女神)の食事の用意をご紹介しましょう。
①まず口を開けます②出します③召し上がれ
・・・・
月読尊は(何故か)これに大激怒!
己の太刀をさっと抜くや保食神(女神)を斬り殺してしまうのでした。
月読尊は天上に帰還し、事の詳細を姉の天照大神に報告すると、今度は天照大神が大激怒!
「貴方はなんて悪い神なんでしょう!私はもう貴方となんか一緒に住みたくないわ!」
哀れ、月読尊は保食神(女神)が何かと頑張って出した食事を我慢して食べなかったばかりに、姉神から離別を宣言されてしまうのでした。
これ以降、太陽と月は昼と夜別れて現れるようになった…という事です。以上が世界に昼と夜が出来たお話でした。
姉の天照大神や弟の素戔男尊と違い、あまり数は多くはありませんが月読尊を祀った神社は全国にもチラホラ見うけられます。
一番有名なのは伊勢神宮の・・・内宮別宮・月読宮(『伊勢の神宮』サイトより)と、
外宮別宮・月夜見宮(『伊勢の神宮』サイトより)でしょうね。
その他にも山形の月山神社や、全国各地の月読神社に祀られています。
さてさて。最後に月読尊のちょっと素敵なお話を一つ。
伊勢神宮の外宮・豊受大神宮とその別宮である月夜見宮は細長い道で繋がっています。
地元の人はこれを「神路通り」と呼んで、その道(特に正中)を進むのを避ける風習があります。なんでもその道は夜になると、月読尊が白馬に跨って外宮の豊受大神(女神)のもとへ通うんだとか。白馬に乗った月の神様が、女神様のもとへ通う道。「神路通り」はそんなロマンティックな道です。
Facebook麻生 隆尋さん投稿記事 ⛩️⛩️⛩️⛩️⛩️⛩️⛩️⛩️【西寒多神社】
病院通院の帰りに、西寒多神社へお参りをしてきました🙇
神社の裏参りの際、しっかりと大祓詞・月待之祓を奏上して参りました🙇💓
まだ梅雨明け宣言がでませんね😅
🌻西寒多神社 御祭神本殿🌻 天照皇大御神、月読尊、天忍穂耳命
⛩️⛩️⛩️⛩️⛩️⛩️⛩️⛩️
⛩️神社拝詞⛩️
掛けまくも畏き 西寒多神社の大前を拝み奉りて 恐み恐も白さく
大神等の広き厚き御恵を辱み奉り 高き尊き神教のまにまに 天皇を仰ぎ奉り
直き正しき真心もちて 誠の道に違ふことなく 負ひ持つ業に励ましめ給ひ
家門高く身健に 世のため人のために尽さしめ給へと 恐み恐も白す
⛩️大祓詞⛩️
高天原に神留り坐す 皇親神漏岐 神漏美の命以て
八百萬神等を神集へに集へ賜ひ 神議りに議り賜ひて 我が皇御孫命は 豊葦原瑞穂國を 安國と平らけく知ろし食せと 事依さし奉りき 此く依さし奉りし國中に
荒振る神等をば 神問はしに問はし賜ひ 神掃ひに掃ひ賜ひて 語問ひし 磐根 樹根立
草の片葉をも語止めて 天の磐座放ち 天の八重雲を 伊頭の千別きに千別きて 天降し依さし奉りき 此く依さし奉りし四方の國中と 大倭日高見國を安國と定め奉りて 下つ磐根に宮柱太敷き立て 高天原に千木高知りて 皇御孫命の瑞の御殿仕へ奉りて 天の御蔭 日の御蔭と隠り坐して 安國と平けく 知ろし食さむ國中に成り出でむ天の益人等が 過ち犯しけむ種種の罪事は 天つ罪 國つ罪 許許太久の罪出でむ 此く出でば 天つ宮事以ちて
天つ金木を本打ち切り 末打ち断ちて 千座の置座に置き足らはして 天つ菅麻を 本刈り断ち 末刈り切りて 八針に取り辟きて 天つ祝詞の太祝詞を宣れ
此く宣らば 天つ神は天の磐門を押し披きて 天の八重雲を伊頭の千別きに千別きて 聞こし食さむ
國つ神は高山の末 短山の末に上り坐して 高山の伊褒理 短山の伊褒理を掻き別けて聞こし食さむ 此く聞こし食してば 罪と言ふ罪は在らじと 科戸の風の天の八重雲を吹き放つ事の如く 朝の御霧 夕の御霧を 朝風 夕風の吹き払ふ事の如く 大津辺に居る大船を 舳解き放ち 艫解き放ちて 大海原に押し放つ事の如く 彼方の繁木が本を 焼鎌の敏鎌以ちて 打ち掃ふ事の如く 遺る罪は在らじと 祓へ給ひ清め給ふ事を 高山の末 短山の末より
佐久那太理に落ち多岐つ 速川の瀬に坐す瀬織津比賣 と言ふ神 大海原に持ち出でなむ 此く持ち出で往なば 荒潮の潮の八百道の八潮道の潮の八百會に坐す 速開都比賣と言ふ神 持ち加加呑みてむ 此く加加呑みてば 気吹戸に坐す気吹戸主と言ふ神 根國 底國に気吹き放ちてむ 此く気吹き放ちてば 根國 底國に坐す速佐須良比賣と言ふ神 持ち佐須良ひ失ひてむ 此く佐須良ひ失ひてば 罪と言ふ罪は在らじと 祓へ給ひ清め給ふ事を
天つ神 國つ神 八百萬神等共に 聞こし食せと白す
⛩️月待之祓 ⛩️
掛巻も 畏き 月弓尊は 上絃の 大虚を 主給ふ月夜見尊は 圓滿の 中天を 照給ふ
月讀尊は 下絃の 虚空を 知食す 三神三天を 知食と 申す事の由を 聞食て
祈願 圓滿 感応 成就 無上 靈法 神道 加持
Facebook清水 友邦さん投稿記事
三種の神器「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」はヒスイ(翡翠)とされています。
拙著「よみがえる女神」の表紙のヌナカワ姫 (沼河比売・奴奈川姫)は越(富山・新潟)の国のヒスイ(翡翠)の女王です。
皇位継承の三種の神器の鏡はアマテラス、勾玉はツクヨミ(月読命、月夜見尊)、剣はスサノオとされています。
古事記によるとイザナギの左の目から「アマテラス」、右の目から「ツクヨミ」、鼻から「スサノオ」が生まれています。
この三神は多くの神々でもっとも尊いので「三貴子(みはしらのうずのみこ)」と呼ばれます。
日本書紀の一書にウケモチが口から米飯、魚、毛皮の動物を出してもてなすとツクヨミが汚らわしいとウケモチを殺してしまいます。するとその亡骸から粟、稗、稲、麦・大豆・小豆が生まれました。世界各地に見られる食物起源のハイヌウェレ型神話と呼ばれています。
ツクヨミは月の神で農業の起源に関わる古い神なのでしょう。
月の引力は潮の干満と関係があり植物の樹液と開花に影響を与えます。
古代農業は月の満ち欠けが暦になっていました。
けれども、アマテラスとスサノオに関する記述は大量にあるのにツキヨミに関する記述は少なく謎の神となっています。
松尾大社のツクヨミ(月読)は高御産巣日神(タカミムスビ)を祖とするので、古事記のイザナギとは異なる別系統のツクヨミではないかと言われています。
奴奈川姫神社の伝承もツクヨミと同じ高御産巣日神(タカミムスビ)を祖としています。
勾玉は皇位継承のシンボルなのでツクヨミの古い時代の伝承は、新しい権力者にとって都合がわるかったので、おそらく消されてしまったのでしょう。
三種の神器を持たない天皇は、「正統」ではないとされます。
南北朝時代、足利尊氏は、後醍醐天皇に対抗する為に、無理やり光明天皇を擁立しましたが後醍醐天皇は三種の神器を持ち出していました。
困った足利尊氏は後醍醐天皇に和睦を申し入れました。三種の神器と引き換えに、後醍醐天皇の皇子の成良親王が次の天皇となる皇太子に定められました。ところが引き渡された三種の神器は「偽物」で、後醍醐天皇は三種の神器を遂行して吉野に御所を構えて再び天皇位についたのです。そのために南北朝時代は二人の天皇が存在することになったのです。
天河大弁財天社(天河神社)のすぐ後ろにあるのが南朝黒木御所跡(なんちょう くろきごしょあと)です。
かように、三種の神器は天皇家の皇位継承と切り離せない関係にあり、2019年4月の伊勢神宮の参拝にあたって皇居から携えてきた「三種の神器」の剣と曲玉を持った侍従が前後を歩いています。
三種の神器の起源は中国の長江の下流域の浙江省一帯に広がる紀元前5千年前の良渚文化(りょうしょぶんか)と見られています。
稲の起源は7000~8000年前の稲作遺跡がある長江中・下流域でその場所から大量の玉が発掘されています。
良渚文化の三種の神器は玉琮(ぎょくそう)玉壁(ぎょくへき)玉鉞(ぎよくえつ)で政治と経済と軍事の王権を象徴していました。
千年あまり栄えた良渚文化は一夜にして忽然と消えましたが、玉の文化は王権の象徴として中国全土ベトナムまで広がっています。
勾玉の原料となるヒスイが採れる日本の産地は糸魚川です。
縄文時代の遺跡から出土するヒスイは成分分析からすべて姫川流域産のものということがわかっています。
縄文中期(五千~四千年前)の糸魚川はヒスイ加工の拠点があり、その頃は人口が最も多く27万人と推測されています。
縄文後期になると寒冷化がすすみ晩期になると人口は7万人まで落ち込みました。
そのころに大陸から稲作文化を持った人々が渡来してきて縄文時代は終わりを告げます。
弥生になり大陸から稲作と同時に、金属性の鉄剣や銅剣などの武器が伝来すると大規模な戦いが始まりました。
鳥取市の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡からは弥生時代に凄惨な戦いがあったこと示す人骨が多数出土しています。
1世紀の日本を記した『漢書』地理志には100あまりの「クニ」があったと記されています。
國という字は「弋」(くい)と「囗」(かこい)の合わせ字になっています。「弋」(くい)には「地中に打ち込んで目印にする杭」「獲物を捕らえる繳(いぐるみ)」「奪い取る」の意味があります。
古代は「口」だけでクニを意味していたのですが、クニとクニが争うようになると、武器である「戈(か・ほこ)」を取って「口(かこい)」つまり境界線を争うようになりました。
そして、「戈」と「口」が合わさって「或」となり、さらに大きな口が合わさって國という字ができたのです。
縄文時代から人を殺す武器が見つかっていませんので弥生以前の日本は集団で殺し合う大規模な戦争はなかったようです。
本格的な農耕が始まるとコメという富をめぐって国同士が土地を争うようになりました。
「倭国大いに乱れ。更(こもごも)相(あい)攻伐して歴年主(ぬし)なし」と弥生時代後期の2世紀後半の日本に争乱があったことが『後漢書』東夷伝にでてきます。
古事記にヤチホコ(八千矛命)が越(新潟県を含む北陸地方)にやってきてヌナカワ姫に妻問(つまどい)をする話が出てきます。
古代日本は母系だったので子供は母親の一族が育て家と財産は娘が相続しました。男性と女性は一緒に生活しないで夜だけ女性の元へ男性が通ったのです。
「よばい」の語源は「夜這い」ではなく互いの名前をよばわりあったから、よばいというようになったといわれています。言葉には呪術的な力があり、相手に自分の名前をあかすのは愛を受け入れる証でした。
糸魚川市では『古事記』の話をヌナカワ姫とオオクニヌシのラブロマンスとして「奴奈川祭り」をしています。
しかし、『古事記』に出てくるヤチホコの「家の戸を、無理に開けようとしたら、鳥が騒ぐのでこの鳥たちを殺してしまいたい」という言葉は穏やかではありません。
ヌナカワ姫の「どうか鳥たちの命は助けください。」は武力による圧力を受けていたように受け取れます。ヤチホコが沢山の矛(ホコ)という意味がある通り、武力と関係しています。
ヤチホコ(八千矛神)はスサノオという説もありオオクニヌシ大国主は個人名ではなく国を治める役割の名称なので、歴代の支配者の数だけ大国主がいたことになります。
『出雲国風土記』には『大穴持命(オオクニヌシ)、越の八口(今の新潟県)を平げ賜ひて還り坐す』という記載がでてきます。
オオクニヌシは武力を背景に越の国(新潟県を含む北陸地方)を支配下においたようです。
縄文の人々は満足な武器を持ってはいなかったので金属製の武器を持った人々はやすやすと侵入できたのでしょう。
1665年(寛文5年)に出雲大社の境内の命主社(いのちぬしのやしろ)の背後の大岩の下から長さ35ミリの美しい糸魚川産のヒスイ(翡翠)の勾玉が銅戈(青銅で作られた祭礼用の戈)と一緒に発見されています。
北部九州では銅矛が祭祀の時の重要な祭器でした。
オオクニヌシは九州、宗像のタキリビメ(田霧姫)とも結ばれています。
オオクニヌシは九州と越の国に勢力を広げたのです。
出雲のオオクニヌシは越の国(高志国)で侵略者として見られていました。
糸魚川に昔から伝わる伝承ではオオクニヌシとヌナカワ姫を祝う伝説は少なく、出雲が攻めてきて、ヌナカワ姫を連れ去り、逃げ帰ったヌナカワ姫がオオクニヌシ・出雲族に追われて姫川沿いに逃げて自殺する悲劇の伝承が多いのです。
姫川の上流の松川に姫ヶ淵という深い淵があって、ここはオオクニヌシの手先に追われた奴奈川姫が入水自殺した場所なので、姫ヶ淵というようになったという伝承があります。
姫川の名もこれから出たといいます。
オオクニヌシは越のヌナカワヒメ(沼河比売・奴奈川姫)をなかば力ずくで娶って、越の国に支配を広げたのでしょう。
ヌナカワヒメ(沼河比売・奴奈川姫)の「ヌ」は「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」の「ニ・瓊」、と同じく、輝く宝石がもつ呪術力の意味があり翡翠(ヒスイ)のことを古代はヌナタマと呼んでいました。
翡翠の耳飾りは精霊の声を聞きやすくする働きがあると信じられていました。
魏志倭人伝に卑弥呼の後継者のトヨが勾玉を魏に献上したとありますが糸魚川産の翡翠だったのでしょう。
糸魚川では縄文の中期(紀元前5000年)頃から流線型の大珠(タイシュ)が作られ、次に日本にしかない独特の形をした勾玉へと形を変えて作られていきました。
新潟県糸魚川産のヒスイ(翡翠)の大珠は世界でもっとも古い装飾翡翠と言われています。
北海道まで運ばれ、青森県の三内丸山遺跡からも糸魚川産のヒスイ(翡翠)が出土しています。
弥生中期になるとヒスイ(翡翠)の勾玉は北部九州の甕棺墓(かめかんぼ)の副葬品として朝鮮半島の5〜6世紀の遺跡からも勾玉が多数出土しています。
古代の人々はヒスイ(翡翠)が病気平癒や念願成就や家内安全などの災いを払いう霊力を授けてくれると信じていたようです。
埋葬時にヒスイを副葬品として埋めたのは、ヒスイに死んだ人を蘇らす力や死後の旅の安全を守護する力があると考えていたからでしょう。
古墳時代中期(5世紀後半)に入ると呪術と関係が深いヒスイは必要とされなくなりヒスイの勾玉は急速に減少していきました。
女性原理から男性原理が優位になると墳墓の副葬品は呪術的なヒスイよりも金属製の武器が多くなったのです。
古墳時代をすぎて6世紀に入り仏教の時代になると呪術と関係が深い翡翠(ヒスイ)の勾玉は完全に消えてしまいました。
翡翠(ヒスイ)の原産地は長い間忘れ去られ日本にはヒスイの産地がないとされ、発掘されたヒスイは大陸から持ち込まれたものとされていました。
ヒスイ原石が糸魚川市の姫川で再発見されたのは1939年になってからです。
日本と中国の戦争が始まっていた頃、良寛さんを世に出した糸魚川の偉人・相馬御風(そうま ぎょふう)は昔、奴奈川姫がヒスイの勾玉をつけていたので、もしかするとこの地方にヒスイがあるのかもしれないという話を知人にしました。
その話を聞いた伊藤栄蔵が姫川上流小滝川周辺でヒスイの原石を再発見しました。
ヌナカワ姫がヒスイの女王として彫刻の像が建てられたのは戦後になってからです。
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