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AI(人工知能)が席巻する現代社会。ユヴァル・ノア・ハラリはその先に、アップデートされた一握りの超人(ホモ・デウス)とその他大多数の人びと(無用者階級)からなる超格差社会の到来を予測しました。それを信じるかどうかはともかくとしても、情報技術のめざましい進歩の裏で、いま、人間や社会の本質が改めて問われているのは確かです。われわれは一体どのような存在であり、AIや機械とは何が違うのか。情報を生み出す源泉、情報伝達のしくみ、そしてハラリの未来像を避ける方途について、情報学者の西垣通先生にお聞きしました。
https://www.toibito.com/toibito/articles/%E3%83%9B%E3%83%A2%E3%83%87%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%81%AE%E9%99%8D%E8%87%A8?fbclid=IwAR0fiIMs9CDIi8JFWBz9LWLEb8k95KLaN59q2Jvy7mKXJhsLwhQ3ubKj9Jo【】
1. 「ホモ・デウス」の降臨
生物機械論の背景
――人類が一握りの超人(ホモ・デウス)と大多数の平凡で貧しい人びと(ユースレス・ピープル)に分かれるというユヴァル・ノア・ハラリの未来像は、危機感をあおられつつも、どこかSFの世界の話のようにも聞こえるのですが、この議論の前提になっているものは何だと思われますか。
ハラリの未来社会像の前提条件の一つは、人間をふくめたすべての生物は「アルゴリズム」であるというものです。アルゴリズムというのは論理的なデータ記号を定められたルールに従って処理していく手順のことで、コンピュータもアルゴリズムにしたがって動くので、ハラリは生物機械論者であると言ってよいと思います。生物の本質が記号の順次処理(コンピューティング)であるというのは非常に大胆な仮説ですが、西洋の伝統的な考え方、すなわちユダヤ=キリスト一神教的な思想に照らしてみると、決して暴論でありません
全宇宙(世界)は絶対的な実体要素で構成されており、それらの間には静的な論理秩序が存在しているというのがユダヤ=キリスト教の基本的な考え方です。ヨハネ福音書には「太初にロゴスありき」「ロゴスは神とともにあり」「ロゴスは神なりき」と書かれています。「ロゴス」は言葉や論理という意味ですが、同時に神が創造した全宇宙の真理でもあります。だからこそ、その真理を聖書によって学び、それに従って生活することが昔の西洋人の生き方だったわけです。
――この世界は神によって論理的に創られたのであり、聖書にはその論理=真理が書かれていると。
近代になると神様の影は薄くなっていくのですが、こうした思想は万物を「客観世界」の構成要素と捉える世界観へと受け継がれました。そして、理性を持つ人間が論理と実験でその「客観世界」を探求し、そこにある秩序を解明すると同時に、得られた成果を活用していく。これが科学技術に他なりません。
――生物機械論の根底にあるのは、生物も世界の要素であることに変わりはなく、よって論理的な秩序に支配されているという考え方なんですね。
これは分子生物学の議論ともぴったり一致しています。分子生物学の基本は、大まかにいうと、われわれの体は細胞核の中にあるA・T・G・Cという4つの塩基の配列を設計図としてつくられているというものです。つまり、すべての生物(細胞)は塩基配列というデータを読み込みながら生きているのであり、それはすなわちアルゴリズムだというわけです。
ここで出てくるのは、知能とは何かという問題です。われわれには心や意識というものがあり、それらと知能は密接に関係していると一般に考えられてきましたが、アルゴリズムの典型はコンピュータの作動手順なので心や意識とは無縁です。ということは、もしも生物をアルゴリズムととらえるなら、知能は心や意識とは無関係に存在するという方向に議論が進んでも不思議ではありません。
――知能が心や意識から切り離されてしまうと。
そうなると、あとは知能を担う機械の性能だけということになります。人間の脳細胞の数は1000億くらいだと言われていますが、脳の記憶力や反応速度は最新のコンピュータに比べるとたかが知れています。するとコンピュータは人間よりも賢いんだということになり、その結果われわれはそういった「スーパー機械」の判断や決定に従って暮らすようになる、というわけです。
――心や意識をもつ人間が、それらをもたない「スーパー機械」の判断に従って暮らす社会ですか。ネットでの買い物なんかを考えると、既にそうなっている感じがしますね。
「スーパー機械」とはすなわち「AGI(Artificial General Intelligence)」、つまり何にでも使える汎用人工知能のことですが、ここで見落としてはいけないのは、人工知能は勝手に動いているのではなく、背後でコントロールしている人間がいるということです。コンピュータは、プログラムをいじればどんなアウトプットでも出すことができます。つまり人工知能にアクセスできる一握りのエリートがそれを操り、大多数の民衆は人工知能の下した決定に従って生活するようになる。前者の支配階級すなわち「ホモ・デウス」と、後者の「無用者たち」からなる超格差社会、それがハラリの考える未来の社会像です。
――ごく一部のエリートがAIを使って権力と富を独占し、われわれ庶民(=無用者階級)はやることもなく、雀の涙ほどのベーシックインカムを頼りに、ジャンクフードを食べながら日がな一日ネットフリックスを見て暮らす……。
それを肯定する学者もいるわけです。そういう社会が理想であると。こうした議論の根底にあるのは「超人間主義」つまり人間を超える知能が存在するという考え方です。これを主張しているのはSF作家ではなく、欧米のすごい秀才たちばかりですよ。スーパー機械に従うのが幸福かどうかという点では意見がわかれますが、超人間がやがて出現するという点で、彼らは一致しています。
ハラリも超人間主義者だと思いますが、ホモ・デウスが出現する社会が望ましいとは思っていないようです。困ったものだと心配しているけれど、どうしたらいいかわからないし、ブレーキは踏めないと言っています。それに対して「ブレーキは踏める!」と、私は言いたいんです。
2つのパラダイム
生物機械論や超人間主義の土台となっているのは「コンピューティング・パラダイム」という世界観・価値観だと言っていいと思います。
コンピュータの理論的な基礎をつくったのはアラン・チューリング(1912-1954)とジョン・フォン・ノイマン(1903-1957)という二人の天才数学者ですが、それは一般的にイメージされているような実務的な計算機械ではなく、論理操作を高速で実行し、真理を自動的に導く機械を理想として考案されました。そこに、この世界は静的な論理秩序(それが造物主のつくったものかどうかはともかく)によって構成されているという、西洋の伝統的な思想が影響しているのは言うまでもありません。つまり、コンピューティング・パラダイムでは客観世界の万物が神の視点から俯瞰的にとらえられ、データ化されて、論理的に分析・処理されるわけです。
――すべての存在物は一義的なデータに還元できるし、そのデータを処理するアルゴリズムであるという点で、生物も機械も同じだということですね。
客観世界にもとづくコンピューティング・パラダイムとは対照的に、個々の生物の「主観世界」にもとづく枠組みを提唱するのが、情報科学のもう一つのパラダイムである「サイバネティック・パラダイム」です。
主観世界は、コンピューティング・パラダイムが前提としている客観世界とは違って、限定された視野しか持ちません。しかもそれは生物特有の認知の歪みから逃れることができない。たとえば、ヒトとイヌでは色を認識する視覚細胞の仕組みが異なるため、それぞれの目に映る世界のあり方は異なっていると考えられます。
しかしすべての生物は、限られた不完全な情報をもとに、何とかして生きていこうとしている。生物とはそういうものであり、ここが非常に重要な点です。一方、コンピューティング・パラダイムには「生きる」ことの独自性という話は一切出てきません。
――サイバネティック・パラダイムにおける「世界」は、普遍的な論理秩序によって構成されたものではなく、それぞれの生物の特質によって産出されるものだということですね。ただ一つの客観世界が生物とは無関係に存在するのではなく、個々の生物ごとの主観世界があり、生物は自分自身の主観世界で得られる情報にもとづいて生きている。
そういうことです。付け加えると、サイバネティック・パラダイムでは「知能」というものが、あくまで生物の生存とのかかわりでとらえられます。平たく言えば、知能とは「(人間を含め)生物が生きるためのノウハウ」と位置づけられるのです。すると当然、「生物ではない機械に真の知能が宿ることはない」ことになります。つまり、コンピュータはいかに高速にデータを処理できたとしても知能をもたないので、超人間はおろか超生物の人工知能さえも否定されることになるわけです。
ここで浮上するのは「意味」の問題です。世間をにぎわせている生成AIもそうですが、人工知能は情報のもつ「意味」をうまくつかむことができません。これはAIが誕生した1950年代から続いている大問題で、未だにまったく解決されていない。ではいったい意味とは何かということになるんですけど、それがサイバネティック・パラダイムのもとで見えてくるんですよ。
――とおっしゃいますと?
つまり、個別の生物にとって「価値があるもの」として出現するのが意味なんです。私は今のどが渇いているのでこのお茶を飲みます。すると、おいしい。これが意味です。一方私は酒が飲めないので、ここにいくら高級なワインがあっても意味がない。ワインは私が生きていく上で価値のないものなんです。それを知らずに私にワインを送ってくる人がいて困っちゃうんですけど(笑)。つまり個々の生物の生存にとっての価値および重要性、それこそが意味なんですよ。
――なるほど。だから、生物ではないAIには意味が理解できないんですね。
2. 生物とは何か
フィードバック制御
――サイバネティック・パラダイムの起源である「サイバネティクス」という学問はどのようにして始まったんですか。
サイバネティクスを初めて提唱したのはノーバート・ウィーナー(1894-1964)という数学者です。第二次大戦中、高射砲の研究に従事していたウィーナーは、どうすれば命中精度を高められるかを考えました。相手が止まっていればそこに照準を合わせればいいんですけど、高射砲の標的である戦闘機は猛スピードで飛び回るので簡単には当たりません。
そこでウィーナーが考えたのが「フィードバック制御」というもので、これは要するに、ある瞬間の標的の位置とこちらが撃った弾が通過した位置(着弾点)の差を計測し、その差が小さくなるように砲の動きをコントロールするというものです。標的位置と着弾点の差が次の入力として戻ってくるので「フィードバック」というわけです。
――その差をどんどん小さくしていけばいつかは命中すると。
戦争なので撃つとか撃たれるという物騒な話になりますが、たとえば私たちが落ちている物を拾うときもこれと同じことをしています。物を拾うというのは、手の位置とその対象物との差が小さくなるように体の動きをコントロールしているわけです。差があるうちは動かし続け、差がゼロになればOK。あとは拾うだけ。
サイバネティクスという言葉は元々「舵を取ること」から来ているんです。潮の動きや川の流れの中で舵を左右に動かし、行き過ぎたら戻す。つまり、コンピューティング・パラダイムのように、俯瞰的な視座から全体を見渡して最適な動きを導くのではなく、その時その時の自分と対象物との関係から状況を判断して次の行動を決めるというわけです。
フィードバック制御の代表的な応用先として、義肢の工学的制御が挙げられます。ウィーナーは戦争で手足を失った患者の動作を補助するために、生体反応と電子回路を組み合わせた義肢を開発しようとしました。ちなみに「サイボーグ」という言葉の由来はサイバネティクスです。
――そうだったんですね。
でも、サイボーグというと人間と機械のキメラのようなイメージがあるでしょう。サイバネティクスは個々の生物の主観世界にもとづく学問なのに、初期のサイバネティクスはその逆に、生命体が機械に組み込まれていくような印象を与えてしまった。
――むしろ生物機械論の方に近づいていってしまったんですね。
生物機械論というのは非常に強力なんです。人間の体を「客観的」に見れば、それは複数の器官や細胞によって構成されているわけですから、結局は一種の機械だということになってしまう。ウィーナー自身はそういう考えに反対していて、人間の自由や主体性を大事にすべきだという思想の持ち主だったのですが、自身の研究では生物機械論を打破することが結局できなかった。1970年代になってそれを実行したのは、ハインツ・フォン・フェルスター(1911-2002)という物理学者です。
オートポイエティック・システム
フェルスターの議論は「二次サイバネティクス」と呼ばれます。生物の主観世界というのは個々の観察と意味づけにもとづいて時々刻々と形成されているため、不安定で科学的客観性をもちにくい。しかしある観察に基づく対象を別の観点から再帰的に観察するという二次的操作によって、数学的な安定性(客観性)を得ることができる。
簡単に言うと、私に見える世界は私の内部状態、たとえば健康なときと体調がすぐれないときによって異なるわけですが、とはいえその都度まったく別のものになるといった不安定性はなく、生きて観察し続けているうちに安定していく、ということです。
――今の自分の状態プラス過去の記憶に基づいて主観世界が構成される、ということですか。
そういうことです。ある瞬間の世界の見え方には昔のイメージやそのときとった行動が影響を与えており、それらの記憶をもとにわれわれは各々の世界を形成している。これを「再帰的」とか「自己言及的」というふうに言うわけですが、こうした議論をふまえて、生物という存在をシステム論的に定義したのが、次にご紹介する「オートポイエーシス理論」です。
「オートポイエーシス(auto-poiesis)理論」は生物哲学者のウンベルト・マトゥラーナ(1928-2021)とその弟子のフランシスコ・ヴァレラ(1946-2001)によって提唱されました。生物と機械の本質的な違いは、このオートポイエーシス理論によって初めて明確になったということができます。
――それほど重要な議論なんですね。
生物とは何かというと、一般的には、「膜がある、代謝をする、自己複製をする」といった性質で定義されがちですが、では機械とどう違うのか。機械にだって膜はあるし、代謝や自己複製をする機械も存在します。あるいは、平衡状態を自ら維持しているものが生物だという議論もありますが、平衡状態を維持するだけならエアコンのあるこの部屋だってそうですよね。これらは確かに生物の性質の一部かもしれませんが、それだけでは機械との本質的な違いを説明できないんです。
一番肝心なのは何かというと、生物は「自分で自分を創り出すことができる」ということです。体の構成素である細胞が細胞自身から生まれるというのもそうですが、それだけではありません。たとえば私の心のなかの思考は、誰かにインプットされたわけではなく、私自身から生み出されたものです。加藤さん(編注:質問者のこと)だってそうですよね? 私が話したことをそっくりそのまま取り入れるのではなく、加藤さんなりに解釈してご自分のものにしているわけですから。
生物とはそういうふうに、自分で自分を創出するプロセスがネットワーキングされている「オートポイエティック・システム(Auto Poietic Systems 以下APS)」なのです。これが一番明快な生物のモデルです。
――機械にはそれができない。
機械は基本的にただ言われた通りにやるだけです。自分の動作を記録して次の動作を決めるという面もありますが、全体としては自分で勝手に決めて動いているわけではありません。それに対して生物は、世界の観察の仕方も、その世界でどう行動するのかも、ぜんぶ自分で決めている。人間もイヌもゴキブリも、みんなそうです。つまり生物は自律的であり、他律的な機械(人間の書いたプログラム通りに作動するコンピュータなど)とはまったく異なる存在なわけです。
自律的であるというのは、外部から観察するとロボットがまるで意思を持って動いているように見える、ということではありません。そうではなく、システムの作動そのものが「自己循環的」であり「閉鎖的」であるということです。つまり、自分の内部状態や記憶をもとに自らの主観世界を産出し、その閉じた世界の中で生きているということです。
――すべての生物は自分の、自分だけの世界を生きていると。
そうです。一方AIには「自分だけがとらえる世界」なんてありませんよ。そのことに気づかないから、みんな生物機械論者になっていくんです。生きるということを「遺伝子がコピーされて細胞が複製されることだ」ととらえるからマインド・アップローディング(編注:脳の記憶を丸ごと機械にコピーすることで永遠に生きられるという仮説)みたいな話が出てくる。でも、そうじゃないんです。生物とは自分で意味を生み出しながら作動しているオートポイエティック・システム(APS)であり、だから死んだら、自分も自分の世界もそこで終わりなんです。
3. 生命、社会、機械
社会は何でできているか
ここまでは一人の人間とか一匹のイヌという話でしたが、そういった個々の生物がオートポイエティック・システム(APS)だとすると、一人ひとりの人間(の心)によって構成される社会もそうではないかという議論が出てきます。
――社会も自律的で自己準拠的だというわけですね。
ええ。もしも社会が他律的なら、機械が人間によって運用制御されるように、社会も外部からコントロールされることになってしまいますから。でも、この点を理論化するのが難しかったんです。前述のように、自分で自分(の構成素)を創り出すのがAPSの定義ですが、社会がその構成素である人間を創り出すというのは、人間自身が自律的であるということと矛盾します。つまり、APSは別のAPSの構成素になることはできない。
――社会と人間(の心)の双方をAPSにすることは論理的に不可能だと。
この難点を克服したのがニクラス・ルーマン(1927-1998)という社会学者です。ルーマンは社会の構成素を人間ではなく「コミュニケーション」だと定義しました。社会はコミュニ―ケーションでできており、個々のコミュニケーションが新たなコミュニケーションを次々に生み出しているんだというわけです。
――なるほど。
ここで重要になるのが「メディア」です。メディアというと普通はインターネットやテレビや新聞が思い浮かびますが、ここでの定義は「コミュニケーションにおける論理的、意味的な伝達を可能にするもの」です。ルーマンはこれを「成果メディア」(もともとはタルコット・パーソンズの概念)と呼んで、その役割に注目しました。端的に言うと、ある特定の意味の領域を象徴し、そこでの適切なコミュニケーションを導くのが成果メディアです。たとえば、学問システムなら「真理」、経済システムなら「貨幣」がそれにあたります。
――あるシステムにおけるコミュニケーションの基準になるもの、みたいなイメージですか?
そうですね。たとえば研究者は学会で「真理」を基準にして、つまりどの説が正しいか誤りかについて議論を戦わせているわけです。だから学問の世界に「貨幣」という成果メディア、儲かるか儲からないかという基準を持ち込むのは、本当はおかしいんです。仮に損得の議論があっても、それは学問的コミュニケーションではない。
ルーマンは全体社会を学問/経済/法律/文学……といったさまざまな意味領域が機能的に独立・分化したサブシステムの集まりとしてとらえ直しました。これは「機能的分化社会理論」と名付けられ、多くの理論社会学者に支持されています。
――オートポイエーシス理論自体は生物学なのに、社会学の分野で受け入れられたんですね。
分子生物学をはじめ、生物学にはどうしても生物を機械的に捉える傾向があります。それを批判したのがオートポイエーシス理論なので、生物学者には受け入れられにくいのです。
では情報工学ではどうでしょうか。当初のオートポイエーシス理論では「情報伝達」という概念は認められにくい。生物は自律的で閉鎖的なシステム(APS)なので、情報が他の生物に直接伝達されることはありえないからです。でも、現実の人間社会では電子メールやLINEが交わされ、情報伝達は実際におこなわれています。この矛盾をどう考えればいいのか。――ここでようやく、私の提唱する「基礎情報学」が出てくるわけです。
すべての情報は「生命情報」である
オートポイエーシス理論によって生物は自律的なAPSと定義され、他律的な機械との違いが明確になりました。これによって人間がデータ処理機械(アルゴリズム)と同一視される脅威は理論的には克服できる。しかしながら現実的には、現代情報化社会において人間よりもデータが重視され、自由が侵害されていく脅威は残っています。なぜなら、人間の行動には他律的な面もあるからです。
人間は社会という共同体のなかで、法律をはじめとしたさまざまなルールや慣習に従わないと生きていけない。つまり、われわれは本来自律的で自由なのですが、同時に他者や社会と折り合いをつけながら生きている、という他律的で従属的な面も持っているんです。
たとえば営業マンは自分の意思とは関係なく、会社の命令に従って自社の商品を売らなければいけない。内心では欠陥だらけだと思っていても、「これは素晴らしい製品なんです!」と言って、それこそロボットのように客先を回らされる。コンピューティング・パラダイムのもとで、ホモ・デウスによる支配が行なわれるというハラリの未来像は、こういった社会機構からもたらされるわけです。
――社会的であるということは、他律的であるということでもあるんですね。
したがって、われわれが本来の自由を取り戻し、かつ快適な社会生活を送れるようになるには、サイバネティック・パラダイムとコンピューティング・パラダイムをうまく組み合わせた情報の理論が不可欠であり、それを目的としているのが「基礎情報学」と言えるでしょう。
ここから「情報とは何か?」という話になるのですが、コンピューティング・パラダイムのもとで伝達される「情報」はコンピュータによって処理されるデジタルデータのことです。でも、われわれが「メール届きましたか」と相手に尋ねるときは、デジタルデータが受信されたかどうかだけでなく、そのメールの内容が相手にちゃんと伝わっているかどうかを知りたいわけですよね。つまり、大事なのはデータのもつ意味内容なんです。
にもかかわらずその意味を捨象し、デジタルデータをどう伝達するかだけにもとづいて情報社会が構築されたらどうなるか。くり返しになりますが、人間はデータを処理するアルゴリズムと見なされ、人間よりもはるかに処理能力の高いAIの奴隷になってしまう。
――そうやってハラリの予測する未来社会が実現する。
なので、最初の問題は情報という概念をどう定義するかです。基礎情報学において情報は「生命情報」、「社会情報」、「機械情報」の3つに分類されます。これらは包摂関係にあって、最も広義な情報が「生命情報」であり、それより狭義なのが「社会情報」、最も狭義なのが「機械情報」です。
――情報とはまず「生命情報」であると。
このことは、前述したように、「意味」というものが「個々の生物の生存にとっての価値および重要性」だということと深く関係しています。つまり「生命情報」は、主観的で身体的な意味形成によってもたらされるわけです。その生命情報を、言葉や画像、シンボルといった社会的な記号で表現したものが2つめの「社会情報」です。これはたとえば、のどが渇いて死にそうなとき、近くにいる人にそれを伝えて水をもらうという状況を考えてみるとわかりやすいでしょう。
――「のどが渇いて死にそうだ」という生命情報を言葉にすることで社会情報になるわけですね。
そういうことです。ただ、アフリカの砂漠で「のどが渇いたので水ありませんか」と言っても、ほとんどの場合は効果がありませんよね。つまり、社会情報は特定のルールや状況にもとづいて生成されるものであり、それは特定の社会(たとえば日本語圏)の中だけで通じるものなのです。
この社会情報を効率よく伝達・記録・処理するのが3つめの「機械情報」です。デジタルデータに限った話ではなく、文字もまた機械情報に他なりません。昔は「筆耕」といって、頼まれた文章を内容にかかわらず書き写す職業がありましたが、いまはそれがコンピュータに変わったというだけのことです。
改めてまとめると、たとえば、腹が痛くて頭もくらくらするという身体状況がうみだすのが生命情報、医者に対する「腹痛と発熱があります」という訴えが社会情報、訴えにもとづいて医者が診断をくだし、電子カルテに入力する「食中毒」という文字列が機械情報ということです。そしてこの機械情報にもとづいて、注射をしたり、薬を処方したりといった医療行為がなされる。
これは卑近な例ですが、情報とは本来生命的なものだという前提が守られれば、患者の主観的な自律性は保たれ、患者が単に形式的なデータ処理の対象となるという事態は避けられるでしょう。
――「痛い」という主観的な「生命情報」こそが根源であり、それは診察や検査によって得られる「機械情報」よりも重要視されなければいけないんですね。
機械情報において、個々人の主観に基づく意味(痛いという身体感覚)は潜在化しているのです。こういうプロセスに気づかないと、本人がいくら痛いといっても、「検査で異常がないのでどこも悪くない」といった診断になってしまうわけです。
4. 情報伝達とは何か
意味が伝わるしくみ
情報が文字やデジタルデータといった「機械情報」である以前に、個々の生物の主観的な意味にもとづく「生命情報」であるとすると、次に問題になるのは、その意味を含んだ情報がどのように伝達されるかということです。この問いに答えるのが、基礎情報学の「HACS(階層的自律コミュニケーション・システム Hierarchical Autonomous Communication System)」という新概念です。
HACSはオートポイエティック・システム(APS)の一種であり、システムの構成素がコミュニケーションであるというルーマンの議論を引き継いでいます。つまり、HACSにおいてもコミュニケーションという出来事はシステムの内部で自己循環的に創出されつづける。これは社会システムでも、個人の心(心的システム)でも同一です。ただ、システム間に上下関係がない従来のAPSと異なり、HACSはシステム間の階層関係をゆるすという特徴をもっています。
――どういうことですか?
会社を例にとってみましょう。会社の会議では企業活動に関するさまざまなコミュニケーション――たとえば、今期の売上はどうか、どんな新商品を開発するか、経費をどう削減するか等――がおこなわれますが、そのコミュニケーションの素材となるのは、会議に出席している社員の心(心的システム)が生み出す発言です。とはいえ、会議の参加メンバー全員が議題について内心で真剣に考えているとは限りません。ある人は今夜のデートのことで頭がいっぱいかもしれないし、また別の人は週末の旅行のプランを練っているかもしれない。ひたすら会議が終わることを待っている人もいるでしょう。
――心的システムは自律的なので、外部からは制御できないわけですね。
一方で、議長から意見を求められたら、会議の参加メンバーはその趣旨に沿った発言をしなくてはならない。新商品のアイデアを聞かれて、週末の旅行プランを話すわけにはいきません――話したところで、無視されるか、怒られるか、退席を命じられるのがオチでしょう。――つまり、社員の心的システムは、会議という場において、会社という社会システムの「制約」のもとにあるわけです。「階層関係」というのはそういうことです。
では、この場合の「情報伝達」とは何かというと、それは会議におけるコミュニケーションが、議題に沿って滞りなく継起しているということに他なりません。誤解の可能性は排除できないにしても、ある社員の心的システムから発せられた言葉の意味内容が、他の参加メンバーの心的システムによってそれなりに理解され共有されるからこそ、会議は進行していく。いろいろな発言があり、議事録が作成されれば、そこで「情報伝達」が実行されたと見なされるわけです。
――心的システム(社員)の間の「情報伝達」は、その心的システムの作動を制約している上位システム(会社)における出来事だと。
ここで重要になるのは「どこから見ているか」ということです。個々の社員の心的システムは本来自律的なのですが、その作動のありさまを会社という上位システムから見ると、まるで機械が与えられた役割を果たしているかのように他律的に見える。つまりHACSは、人間が自律的にも他律的にも見えるという、二重性を表すモデルなのです。
――システムは、それを見ている観察者とセットでとらえなければいけない。
そういうことです。あくまでもAPSとしての性質をもちながら、そこに階層性と(人間による)観察記述という属性を付加したシステム、簡単に言うとそれがHACSだということになります。
HACS(階層的自律コミュニケーション・システム)の概念(『新基礎情報学』P91より引用)
「記憶」の更新
――会社という社会システムにおいて人間が機械と同じように他律的だとすると、人間の仕事がよりデータ処理能力の高いAIに奪われる事態は避けられないということですか。
それについては、コミュニケーションの継続がもたらす通時的な側面を見ていく必要があります。前述した通り、基礎情報学において情報とは生物にとって瞬間的に「意味作用を起こすもの」ですが、それは同時に「意味構造を形成するもの」でもあります。意味構造とは要するに長期的な「記憶」のことです。
心的システムや社会システムの構成素であるコミュニケーションは、短期的(瞬間的)に消えてしまうのではなく、継続的に生起することで長期的には「記憶」を形成していきます――この形成作用を「プロパゲーション」といいます。そして、それぞれのシステムにおけるコミュニケーションの意味解釈は、そのようにして形成された「記憶」にもとづいて、自己準拠的に実行されるのです。このことは、われわれ(=心的システム)が辞書(=社会システムにおける「記憶」)を使って言葉の意味を調べることを思い浮かべるとわかりやすいでしょう。
重要なのは、心的システムはもちろん、社会システムにおける「記憶」も固定的ではなく、まるで辞書が改訂されるように変化していくということです。たとえば昔は、「男性は外で仕事をし、女性は家事をする」というのが社会的常識だったわけですが、今では性別に関係なく働きたい人が働くべきだという価値観に変わってきていますよね。こうした社会的な意味構造の長期的変化が起きるのは、構成メンバーであるわれわれの心的システムが自律的であり、社会的制約を変える自由をもつからに他なりません。
――他律的に見える社会システムにおいても、人間本来の自律性が失われるわけではないと。
その通りです。社員であれば、たとえ社長の言ったことでも、「ちょっと違うんじゃないですか」と意見を述べられるし、その結果会社の方針が変わるということもありえる。一方AIは、社内コミュニケーションに一時的には貢献できても、インプットされたプログラムと過去のデータにもとづいて他律的に作動するだけなので、システムの作動の仕方そのものに関わるような長期的変化を新しく起こすことはできません。データベースにある事例を提示したり、それらを組み合わせて短期的な最適案を示したりすることはできますが、本質的に新しいことはできない。にもかかわらず、重要な決定をぜんぶAIに任せてしまったら社会はどうなってしまうでしょうか。
――価値観の変化が訪れることなく、社会構造が固定されたまま未来永劫つづいていく……。それは困りますね。
つまり、人間は、短期的には社会からトップダウンの制約をうけて他律的に行動しても、長期的にはボトムアップで社会の意味構造、価値観を変えていくことができる。それが基礎情報学のHACSの分析で明確にわかります。しかし、この相違点を理解している人が、効率化至上主義で日本のデジタル化を推し進めようとしている有識者の中にどれくらいいるかは非常に疑問ですね。あるいは知っていて、あえてやっているのかもしれませんが。
――既得権益をもつ人にとっては、社会構造が変わらない方が都合がいいですもんね。
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