橋本多佳子

https://www.sankei.com/article/20190501-OVHTEURTAROXZBREC273SW3JTY/ 【美しき人 橋本多佳子(下)いのち の きらめき 十七音に】より

 昭和16(1941)年、42歳で初めての句集を出した後、橋本多佳子の句作は途絶えがちになる。

 夫を亡くし、4人の娘を抱えての戦時下での生活。昭和19年には大阪の街中に住む危険を思い、奈良のあやめ池に疎開した。

 「さびしさを日々のいのちぞ雁わたる」

 この頃の句にはさびしさを詠ったものが多い。

 転機は終戦まもない昭和21年春に訪れる。奈良在住の俳人の紹介で西東三鬼、平畑静塔を紹介され、3人で奈良俳句会を始めたのだ。それは強烈な句会だった。旅館に泊まり込み、夏となれば男たちは半裸。冬には三人が三方からコタツに足を突っ込み、疲れたら眠り、目覚めたら作るという真剣勝負。「刺青の肉襦袢」や「堕し薬が煮えるうしみつ」という言葉が乱舞するすさまじいものだった。

 三鬼も静塔も俳壇に大きな足跡を残した人物だが、戦時中は新興俳句弾圧事件(京大俳句事件)で句作から遠ざかっており、三人が三様に空白を埋めようと力を尽くす戦後だった。

 「奥様時代の私の世界は完全に吹き飛ばされてしまった。私は覚悟をした。厳しい二人を向うにして悪戦苦闘することによって自分を創り直さう、知らぬ世間を知らうとした」(『日吉館時代』)

 誰もが望んで得られる環境ではない。一方、深窓の奥様が男たちと夜を徹して句作することに渋顔を浮かべる人もいただろう。しかし時と場所を得たとき、多佳子は恐れずそこに飛び込む。

 ところで「美しい人」の気配は男たちの心を乱すことはなかったのだろうか。静塔は記している。

 「いつも姿は整い、身嗜のよい人なのに、私は一回も多佳子が人前でコンパクトを使うのを見たことがなかった程、私達の間には男女の交際の感じなどはすぐに消え失せたのであった。あの三鬼さえ、多佳子を世の常の佳人としては扱わず、気の強い妹か姉としてあしらっていた」(『多佳子と私』)

 そうした鍛錬の中から名句が次々生まれる。

 「凍蝶を容(い)れて十指をさしあはす」

 「雄鹿の前吾もあらあらしき息す」

 「罌粟(けし)ひらく髪の先まで寂しきとき」

 「いなびかり北よりすれば北を見る」

 これらを収録した句集『紅絲(こうし)』が昭和26年に出版され、多佳子は俳人としての地位を確かなものにした。かつて「女誓子」と酷評された時期を乗り越え、見事に自分の世界を構築したと絶賛された。

 さて、多佳子の世界とは何だろう。

 『北を見るひと 橋本多佳子論』の著書がある倉橋みどりさん(52)は、「七曜」同人として橋本美代子さん(多佳子の4女)の指導を受け、いまは俳人協会幹事として活躍している。多佳子の世界を「いのちきらめく世界」と表現する。

 例えば先の「いなびかり」の句。北という不吉な方角に突然のいなびかりを見ながら、目をつむったり、耳をふさいだりせず、ただまっすぐ見つめ返す。

 「自分の宿命を宿命として受け入れるしなやかな強さが多佳子の信条。その強さがあるからこそ、対象に深く感応できる。十七音に閉じ込めたいのちのきらめきを時空を超えて共有できる、そこが魅力」

 句に込めた濃厚なきらめきを「強烈な官能」「女性ならではの情念」などと言い立てる声もあった。同志の静塔にして、「紅絲」は「嘆きの集」であり、その嘆きは「ヴァニティの致すところ」と書き、多佳子を立腹させたこともある。

 「ヴァニティにはいろんな意味合いがある。静塔は精神科のお医者さまですから、ちょっとからかったんじゃないでしょうか」と美代子さんは笑う。

 多佳子は生涯着物姿で過ごした。残された写真を見るとその姿はいつもすっきりと美しい。

 「おしゃれ」というエッセーを書いている。終戦後のある日、突然女性の俳人が訪ねてきた。裏山でイモを掘っていた多佳子は急いで手足を洗い、もんぺを着替えたが、少々客人を待たせた。まもなく相手は所属雑誌に「多佳子は人と会うとき、お化粧に手間取る」という文章を書いた。

 多佳子は粘つく視線をやり過ごしつつ、「おしゃれは紅や油をつけることではなく、おのれの身の隅々まで心を行届かせること」とし、それは「俳句に対しても同じこと」とこう反撃した。

 「おのれを甘やかして、泥のついたままの句や、素朴といふ名のもとに平板な句を人の前に放り出さぬやうにしたいと思ってゐます」

 美しき人は激烈だ。筆者はさぞや赤面したことだろう。

     ◇

【石野伸子の読み直し浪花女】「浪花女的読書案内」と題した冊子に

 産経新聞の夕刊(関西圏)でも好評連載中の「読み直し浪花女」が冊子になり、「浪花女的読書案内」として発売されている。連載は大阪ゆかりの作家の作品の中に浪花女像を再発見しようとスタート(夕刊では平成24=2012=年11月から)。山崎豊子、織田作之助、河野多惠子ら28人の作家を取り上げ、冊子では、この中から26人分を再編成している。

 ノーベル賞作家の川端康成は故郷・大阪をどう作品に埋め込んだか。野坂昭如はなぜ大阪時代を語らなかったか、林芙美子の絶筆はなぜ大阪だったのか。石野伸子産経新聞特別記者・編集委員が思いがけない視点から名作を解読する。

 92ページ、1500円(税込み、送料別)。冊子の申し込みは、名前、住所、郵便番号、電話番号、希望の冊数を明記し、はがき(〒556-8666(住所不要))▽FAX06・6633・2709▽電子メール( naniwa@esankei.com )―のいずれかで「冊子 浪花女的読書案内」係へ。産経新聞販売店でも申し込み可。問い合わせは、産経新聞開発(06・6633・6062、平日午前10時~午後5時)。

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【プロフィル】石野伸子 産経新聞特別記者兼編集委員。生活面記者として長らく大阪の衣食住を取材。生活実感にもとづき自分の足と感性で発見したホンネコラムをつづるのを信条としている。


http://heiseiinnyokujiten.blog.fc2.com/blog-entry-1056.html 【橋本多佳子◆橋本多佳子全句集  …………☆西東三鬼、平畑静塔たちとの“ぶつかり稽古”で生まれた名句集『紅絲』】より

罌粟ひらく髪の先まで寂しきとき (紅絲)

 「天狼」創刊後、日吉館の奈良俳句会の作です。深夜まで続くこの句会で、私は鍛錬されました。この句の想を抱きながら、上五に据えるものが見つからず迷っていましたとき、ぱっと私の眼前に真紅なけしの花が浮びました。

「罌粟ひらく」で、「髪の先まで寂しさとき」が、ぐっと支えられたように思えて嬉しかったことを思い出します。この句は、その夜の句会で三鬼、静塔、暮石の三氏に採って貰いました。     ――自句自解

 俳句のアンソロジーとして当方が愛読したものに、平井照敏編『現代の俳句』(1993・講談社学術文庫)がある。高浜虚子をはじめとする107人の俳句を集めたもの。

 好きな句に〇印をつけているが、その数の多い俳人ベスト3は、久保田万太郎、橋本多佳子、橋閒石である。

 のちに『久保田万太郎全句集』(1971・中央公論新社)、『橋閒石全句集』(2003・沖積舎) を購入したが、このほど文庫版の『橋本多佳子全句集』を手に入れた。

 橋本多佳子、1899(明治32)年~1963(昭和38)年。

 好きな句10句と思ったが、どうしても絞り切れないので、20句選んだ。

霧を航き汽笛の中を子が駆くる――第1句集『海燕』(1941年)

月光にいのち死にゆくひとゝ寝る

七夕や髪ぬれしまま人に逢ふ――第2句集『信濃』(1946年)

母と子のトランプ狐啼く夜なり

乳母車夏の怒濤によこむきに――第3句集『紅絲』(1951年)

いなびかり北よりすれば北を見る

雪はげし抱かれて息のつまりしこと

祭笛吹くとき男佳かりける

ゆくもまたかへるも祇園囃子の中

星空へ店より林檎あふれをり

あぢさゐやきのふの手紙はや古ぶ

かじかみて脚抱き寝るか毛もの等も

ひと死して小説了る炉の胡桃

春空に鞠とゞまるは落つるとき

生き堪へて身に沁むばかり藍浴衣

罌粟ひらく髪の先まで寂しきとき

雪まぶしひとと記憶のかさならず ――第4句集『海彦』(1957年)

嘆きゐて虹濃き刻を逸したり

九月の地蹠ぴつたり生きて立つ――第5句集『命終』(1965年)

雪はげし書き遺すこと何ぞ多き

 圧倒的に第3句集『紅絲』の句が多い。

 多佳子、昭和22年(48歳)から26年(52歳)までの句。

 奈良の旅館日吉館で、敗戦の翌年、毎月1回泊まり込みの句会が開かれた。西東三鬼、平畑静塔、橋本多佳子、榎本冬一郎、右城暮石たちで、翌年には山口誓子を主宰に『天狼』を創刊した。上掲の「自句自解」にあるように、きびしい“鍛錬句会”だった。

「この日吉館句会の数年間と言うものは一同精魂をつくして俳句に打ち込んだわけであります。……歯に衣をきせない、率直で鋭く時には相手をむかむかさす、時には相手がしぼんでしまって泣きそうになる。多佳子さんなどは日吉館から帰りましても二、三日はよく寝れない、と言うことを言って居りました。口惜しくて、まあ、なぐり合いにはなりませんでしたけれどそういう厳しい句会でありました。ぶつかり稽古と言うのですか、そういう型の句会でした。 (『平畑静塔対談俳句史』)

 

 その座から『紅絲』収録の上掲の名句が生まれた。

 山口誓子は、ある吟行で多佳子が「一処に眼を据ゑ、それに向つて感情の火花を散らしてゐる」句作方法を眺めたと書いている。“一処一情”であると。たしかに名句のできあがる場では、同時におびただしい写生句がつくられている。そこに全集を読む楽しさがある。

 私生活では、38歳で夫を失い、4人の娘を育てた。俳句では混沌とした敗戦の翌年に泊りがけの句会を行い、「七曜」主宰となり、『紅絲』を巡っては、平畑静塔、堀井春一郎の“ヴァニティ”、“エクスタシイ”批評などで多佳子の激しい怒りを経験し、また奈良句会ではどてらを脱いで長襦袢ひとつになって怒りまくったというゴシップもある。そのうえで“スター俳人”として上掲にあるような絶唱を残した。

 その魅力をまねて当方も一句つくった(笑)。

 乳母車夏の怒濤によこむきに

 原発や春の怒濤の真正面

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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