https://buddhablog.exblog.jp/25478531/ 【蓮の花のように 怒りに対する対処について】より
音声に驚かない獅子のように、網にとらえられない風のように、水に汚されない蓮のように、犀の角のようにただ独り歩め。
『ブッダのことば』中村元訳(岩波文庫)スッタニパータ71編より
蓮の花に昔からとても憧れを持っている。
泥だらけの沼の中に蓮の根があるが、その先には圧倒的に美しい華が咲いている。ピンク色と白の絶妙な色合いと繊細な花びらは、心配になるくらい大胆に力強く咲いていてため息が出るほどに素晴らしい存在に感じるのである。なぜこんなに、蓮の花が好きかというとブッダが好んだからという理由だけではない。
怒らない事は本当に難しいと常々思っている事に関係しているのではないか、とはたと気が付いた。
変な人が世の中にはたくさんいるのはあまり気にならない。電車の中で変な人がいても、気にしなかったり、遠くに行ったりするだけである。
しかし、親しい人間に対して自分の考えている事や方向性についてきちんと時間と労力を費やして話して、相手が理解していないと思われる行動や発言を見つけたとき、怒りは容易にピークに達してしまうことに気が付いた。
この怒りはとても激しいものであり、表面的に怒らない事は出来ても怒っていれば心の中で熱湯がやかんの蓋を猛々しく押し上げるが如く、相手には強烈な印象と共に伝わってしまう。
今日紹介するブッダの話はそんな自分を諭してくれるようなエピソードである。
ブッダが布教活動を始めたばかりの頃、アッコーサカというバラモンがいた。
ブッダは武士であったので属していたのは、下位階級のヴァイシャ(庶民)とシュードラ(隷民)の2階級を統治するクシャトリヤという階級である。上位階級の聖職者・僧侶階級であるバラモンが宗教的行為を司っているので、下位階級で武士の職務外のブッダが布教活動をする事を面白く感じる訳がない。しかも、多くの人がブッダの教えに惹かれ、弟子になってゆくのである。
それは例えるならば、代々続く由緒ある和菓子店の隣に脱サラしたド素人同然のお菓子好きが洋菓子店を開いたら、結果、客が全部取られてしまった、というような話で憤りを感じるというのも頷ける話ではある。
大人気のブッダの様子を何日も見ていてアッコーサカはついに爆発した。竹林精舎に出かけていってブッダに罵詈雑言を投げ付けたのである。もうそれは言いたい放題。ブッダの弟子たちは「あんなことを言わせておいていいのか!」と怒り狂わんばかりでその様子で眺めていたことであろう。言い終わったと見るや、ブッダは彼に向かって静かにこのように問うた。
「あなたは友人や親族を食事でもてなすことがありますか」
アッコーサカは素直に返す。
「ああ、もてなすよ」
「では、もし彼らがあなたのもてなしを受け取らなかった時は、あなたが用意したごちそうは誰のものになりますか」
「もし彼らが受け取らなかったら、ごちそうは全て私のものになるな」
「あなたはさきほど私を侮辱しましたが、私は侮辱してません。あなたは私を嘲りましたが、私は嘲っていません。あなたは私を非難しましたが、私は非難していません。つまり、あなたから私は罵詈雑言を受け取りません。だからあなたの私に投げ付けた汚いことばはすべてあなたのものになるのです」
汚いことばは受け取らない。相手にダメージを与える為に、相手を傷つける為に激しいことばや汚いことばを吐いているのであるが、全て鏡のように相手にブッダは返している。おそらく、ここでアッコーサカの心は折れていたと思う。でも、さらにブッダは続ける。
「怒る者に同じ怒りで報いる者は、最初に怒る者よりも悪いのだ。相手が怒っているのを知って、自分の平静を気付きで守り、自分の怒りと相手の怒りの両方の怒りを耐えることは尊い。真理を知らぬ人々に愚かと思われたとしても気にすることはない」
これを聞いたアッコーサカは心を打たれてブッダの弟子となり、修行を重ね、やがて最高の悟りに達した聖者である阿羅漢の地位を得るまでになったという。
翻ってわが身を振り返ると、敵対する人間を取り込んだブッダの迫力は凄いし、なんだかできそうな気がする。しかし、自分と仲良くしている身近な人からこういう類の攻撃を受けると話は別であろう。丁寧に説明して、理解し合えたと安心しているところに大きく外れた反応や意味がわからない攻撃が返ってくると、「なんか軽視されていたのかな?」とか
「この人は自分の都合の良いように操ろうとしているのかな?」
とどうしても勘ぐってしまうし、そんな自分を真っ向から否定する事はできない。
しかし、「怒る者に同じ怒りで報いる者は、最初に怒る者よりも悪い」というブッダのことばには、尤もだ、と素直に首肯できる。
このような怒りが噴き出る機会は極力ない事を願うが、不幸にもそんな怒りが噴出しそうな時はブッダのエピソードを思い出そうと思う。
とはいえ、そんなシーンに遭遇すれば怒り狂う事が続くと思うが、一歩一歩ブッダのような怒らない境地に近づいて、蓮の花のような存在に近づきたいものである。(I)
https://note.com/yukinobukurata/n/n09095b5195ca 【「水に汚されない蓮のように」(『スッタニパータ』「第一 蛇の章 犀の角」より)】より
https://buddhablog.exblog.jp/25478531/ 【蓮の花のように 怒りに対する対処について】より
音声に驚かない獅子のように、網にとらえられない風のように、水に汚されない蓮のように、犀の角のようにただ独り歩め。
『ブッダのことば』中村元訳(岩波文庫)スッタニパータ71編より
蓮の花に昔からとても憧れを持っている。
泥だらけの沼の中に蓮の根があるが、その先には圧倒的に美しい華が咲いている。ピンク色と白の絶妙な色合いと繊細な花びらは、心配になるくらい大胆に力強く咲いていてため息が出るほどに素晴らしい存在に感じるのである。なぜこんなに、蓮の花が好きかというとブッダが好んだからという理由だけではない。
怒らない事は本当に難しいと常々思っている事に関係しているのではないか、とはたと気が付いた。
変な人が世の中にはたくさんいるのはあまり気にならない。電車の中で変な人がいても、気にしなかったり、遠くに行ったりするだけである。
しかし、親しい人間に対して自分の考えている事や方向性についてきちんと時間と労力を費やして話して、相手が理解していないと思われる行動や発言を見つけたとき、怒りは容易にピークに達してしまうことに気が付いた。
この怒りはとても激しいものであり、表面的に怒らない事は出来ても怒っていれば心の中で熱湯がやかんの蓋を猛々しく押し上げるが如く、相手には強烈な印象と共に伝わってしまう。
今日紹介するブッダの話はそんな自分を諭してくれるようなエピソードである。
ブッダが布教活動を始めたばかりの頃、アッコーサカというバラモンがいた。
ブッダは武士であったので属していたのは、下位階級のヴァイシャ(庶民)とシュードラ(隷民)の2階級を統治するクシャトリヤという階級である。上位階級の聖職者・僧侶階級であるバラモンが宗教的行為を司っているので、下位階級で武士の職務外のブッダが布教活動をする事を面白く感じる訳がない。しかも、多くの人がブッダの教えに惹かれ、弟子になってゆくのである。
それは例えるならば、代々続く由緒ある和菓子店の隣に脱サラしたド素人同然のお菓子好きが洋菓子店を開いたら、結果、客が全部取られてしまった、というような話で憤りを感じるというのも頷ける話ではある。
大人気のブッダの様子を何日も見ていてアッコーサカはついに爆発した。竹林精舎に出かけていってブッダに罵詈雑言を投げ付けたのである。もうそれは言いたい放題。ブッダの弟子たちは「あんなことを言わせておいていいのか!」と怒り狂わんばかりでその様子で眺めていたことであろう。言い終わったと見るや、ブッダは彼に向かって静かにこのように問うた。
「あなたは友人や親族を食事でもてなすことがありますか」
アッコーサカは素直に返す。
「ああ、もてなすよ」
「では、もし彼らがあなたのもてなしを受け取らなかった時は、あなたが用意したごちそうは誰のものになりますか」
「もし彼らが受け取らなかったら、ごちそうは全て私のものになるな」
「あなたはさきほど私を侮辱しましたが、私は侮辱してません。あなたは私を嘲りましたが、私は嘲っていません。あなたは私を非難しましたが、私は非難していません。つまり、あなたから私は罵詈雑言を受け取りません。だからあなたの私に投げ付けた汚いことばはすべてあなたのものになるのです」
汚いことばは受け取らない。相手にダメージを与える為に、相手を傷つける為に激しいことばや汚いことばを吐いているのであるが、全て鏡のように相手にブッダは返している。おそらく、ここでアッコーサカの心は折れていたと思う。でも、さらにブッダは続ける。
「怒る者に同じ怒りで報いる者は、最初に怒る者よりも悪いのだ。相手が怒っているのを知って、自分の平静を気付きで守り、自分の怒りと相手の怒りの両方の怒りを耐えることは尊い。真理を知らぬ人々に愚かと思われたとしても気にすることはない」
これを聞いたアッコーサカは心を打たれてブッダの弟子となり、修行を重ね、やがて最高の悟りに達した聖者である阿羅漢の地位を得るまでになったという。
翻ってわが身を振り返ると、敵対する人間を取り込んだブッダの迫力は凄いし、なんだかできそうな気がする。しかし、自分と仲良くしている身近な人からこういう類の攻撃を受けると話は別であろう。丁寧に説明して、理解し合えたと安心しているところに大きく外れた反応や意味がわからない攻撃が返ってくると、
「なんか軽視されていたのかな?」
とか
「この人は自分の都合の良いように操ろうとしているのかな?」
とどうしても勘ぐってしまうし、そんな自分を真っ向から否定する事はできない。
しかし、
「怒る者に同じ怒りで報いる者は、最初に怒る者よりも悪い」
というブッダのことばには、尤もだ、と素直に首肯できる。
このような怒りが噴き出る機会は極力ない事を願うが、不幸にもそんな怒りが噴出しそうな時はブッダのエピソードを思い出そうと思う。
とはいえ、そんなシーンに遭遇すれば怒り狂う事が続くと思うが、一歩一歩ブッダのような怒らない境地に近づいて、蓮の花のような存在に近づきたいものである。(I)
https://note.com/yukinobukurata/n/n09095b5195ca 【「水に汚されない蓮のように」(『スッタニパータ』「第一 蛇の章 犀の角」より)】より
https://www.youtube.com/watch?v=EsMyE8TO7DE
音声に驚かない獅子のように、網にとらえられない風のように、水に汚されない蓮(はす)のように、犀の角のようにただ独り歩め。
(出典: 中村元(翻訳) (1984年), 「三、犀の角」, 「第一 蛇の章」, 『ブッダのことば : スッタニパータ 改訳 (岩波文庫)』, 岩波書店, 17~22ページ.)
音声に驚かない獅子のように、網にとらえられない風のように、水に汚されない蓮(はす)のように、犀の角のようにただ独り歩め。
(出典: 中村元(翻訳) (1984年), 「三、犀の角」, 「第一 蛇の章」, 『ブッダのことば : スッタニパータ 改訳 (岩波文庫)』, 岩波書店, 17~22ページ.)
https://www.youtube.com/watch?v=cadboFbiaTg
肩がしっかりと発育し蓮華のようにみごとな巨大な象は、その群(むれ)を離れて、欲するがままに森の中を遊歩する。そのように、犀の角のようにただ独り歩め。
(出典: 中村元(翻訳) (1984年), 「三、犀の角」, 「第一 蛇の章」, 『ブッダのことば : スッタニパータ 改訳 (岩波文庫)』, 岩波書店, 17~22ページ.)
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