虹についての考察

http://opera-ghost.cocolog-nifty.com/blog/2019/03/lgbt-7bf3.html 【虹についての考察(万葉集から能「道成寺」、LGBTまで)】より

まずは大前提として下記事をご一読ください。

【考察】何故、虹を詠んだ和歌は希少なのか?

更に出来得ることなら、次も併せて目を通して戴ければありがたい。

アボリジニの概念〈ドリームタイム〉と深層心理学/量子力学/武満徹の音楽

国立民族学博物館再訪と〈虹蛇〉について。

アボリジニ(オーストラリア先住民)の神話と、そこにしばしば登場する〈虹蛇〉について書いた。

概要を述べる。アボリジニの概念〈ドリームタイム〉には守り神のような存在〈虹蛇〉が棲み、両性具有で水を司る。鎌首をもたげた蛇の姿と虹の足が重ねられたイメージ。蛇は卵を丸呑みにし、後で消化されない殻だけを吐き出す習性がある。それが死と再生(=ドリームタイム)のメタファーとなる。虹蛇はアボリジニの詳細な自然観察から生み出された、象徴的存在である。

古代中国人も虹と蛇を結びつけて思考していた。「虹」という漢字の虫偏(むしへん)は大蛇/龍を意味する。漢文で書かれた「万葉集」が編纂され、漢文学が隆盛を極めた古代日本(7世紀〜8世紀)の人々もその概念を共有していた。平仮名が公的な文書に現れるのは905年に完成した「古今和歌集」からである。

では蛇は男性と考えられたのか?女性なのか?古代人の思考は昔話に顕現する。「蛇女房」と「蛇婿入り」という、どちらも人間と結婚する噺がある。つまり古代日本における蛇のイメージもアボリジニ神話と同様、両性具有と考えられる。一方、「鶴女房(鶴の恩返し)」はあるが、鶴が人間の男として現れる噺は聞かない。鶴は女性原理の象徴なのだ。

「蛇女房」はこんな噺だ。出産時に夫が「見るなのタブー」を破ったため蛇の正体がばれ、夫婦は一緒に暮らせなくなる。女房は別離の際、子供に乳代わりにしゃぶらせるよう自分の眼を与えるが、不思議な玉の評判が広まり、殿様に取り上げられてしまう。ここから2つのパターンの類話に分かれる。①困った夫は池に女房を探しに行き、彼女はもう片方の眼も与えて盲目となってしまう。時と方向が判らなくなると困るからと言い、蛇は夫に朝と晩に鐘を鳴らしてくれるよう頼む。②殿様の横暴に怒った蛇は洪水を起こし、城ごと押し流してしまう。

ここからはっきりと分かるのは【①蛇と寺の鐘の密接な結び付き②蛇は水を司る】ということである。

次に「今昔物語集」に書かれた〈安珍・清姫伝説〉を見てみよう。熊野に参詣に来た美形の僧・安珍を見て清姫は一目惚れし、言い寄る。修行の身ゆえ、困った安珍は清姫を騙して逃げる。清姫の怒りは天を衝き、遂に蛇身に化け安珍を追跡する。道成寺に逃げ込んだ安珍は梵鐘を下ろしてもらい、その中に潜む。しかし清姫は許さず鐘に巻き付く。遂に安珍は鐘の中で焼き殺されてしまうのであった。安珍を滅ぼした後、清姫は蛇の姿のまま入水する。

ここでも蛇と寺の鐘が結びついている。そして蛇と水の親和性も語られる。〈安珍・清姫伝説〉は後に能「道成寺」に変換された。寺の鐘は形態的に女性の子宮に似ており、そこに閉じこもる〈安珍・清姫伝説〉は胎内回帰願望と読み解くことも可能だろう。アボリジニ神話において、虹蛇に母子が呑み込まれる物語に類似している(レヴィ=ストロース著「野生の思考」に紹介されている)。

〈安珍・清姫伝説〉には続きがあり、蛇道に転生したふたりはその後、道成寺の住持のもとに現れて供養を頼む。また能「道成寺」では死んだ清姫が白拍子の姿に変化(へんげ Metamorphose)し、再び寺を訪ね舞を舞う。アボリジニ神話の母子もその後、虹蛇に吐き出され生き返る。両者は死と再生というテーマで繋がっている。

こうして見ていくと、オーストラリアのアボリジニ・古代中国・古代日本を結ぶ〈虹=蛇〉という概念は、ユング心理学における元型のひとつ、太母(the Great Mother)に相当すると考えられる。

上図はユングによる「心」の構造である。中心に自己(SELF)があり、それを取り巻く円の内側(深層)が集合的無意識(Collective unconscious=Cの世界)。Aは元型(Archetype)で、アニマ(男性の思い描く理想的女性像)、アニムス(女性が思い描く理想的男性像)、太母(the Great Mother)、老賢人(the Wise Old Man)等が該当する。その外側に個人的無意識(Personal unconscious)が存在し、心的複合体=感情複合(Complex)を内包する。その代表例がフロイトが提唱したエディプス・コンプレックスだ。さらに「心」の表層に意識(Consciousness)があり、自我(EGO)が配置されている。

太母(the Great Mother)とは、子を慈しみ、優しく包み込む母のような存在であると同時に、牙を向き人々に襲いかかり、すべてを呑み込む山姥のような姿として立ち現れることもある。安珍に襲いかかり焼き尽くす清姫や、殿様の狼藉に怒り川を氾濫させ、洪水で城下町を呑み込む蛇女房の姿は、正に太母(the Great Mother)そのものである。

虹=蛇〉は母であると同時に父でもある。蛇の頭部は男根を想起させる。両性具有の性質を象徴するのが〈虹〉だ。フランスの構造人類学者レヴィ=ストロースは南北アメリカ先住民の神話を研究した「神話論理」において〈虹〉を「半音階的なもの」と呼んだ。つまりある音から、別の音に、段階的(微分)変化を経て移行することを意味する。具体的にはワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」やラヴェルのバレエ音楽「ダフニスとクロエ」に顕著な手法である。

【考察】「君の名は。」もうひとつの解釈〜両性具有という見地から

父性原理で思考する欧米の人たち(キリスト教徒)は全てのことを〈2項対立〉に分けて、切断する。正義か悪か、YesかNoか、男か女か。その中間項は一切認めない。いわゆる近代ヨーロッパにおける合理主義である。0か1かの二進法で計算するコンピューターの原理も同じ。だからキリスト教社会において同性愛者は差別され続けてきた。しかし日本など母性社会では違う。

ここでLGBTと虹の関係について述べよう。LGBTとは、「Lesbian」(レズビアン、女性同性愛者)、「Gay」(ゲイ、男性同性愛者)、「Bisexual」(バイセクシュアル、両性愛者)、「Transgender」(トランスジェンダー、性別違和を含む性別越境者)の頭文字をとった言葉で、Sexual Minority(性的少数者)の総称。そのシンボルとなっているのがレインボーフラッグである。1970年代から使用されているという。

何故〈虹の旗〉なのか?

それは性別を男か女か、2つに分けて切断するのではなく、その移行段階(グラデーション)、境界域に位置する人々を(排除せず)認めて欲しいという主張であり、多様性(Diversity)を象徴している。

今年のグラミー賞も、アカデミー賞も多様性(Diversity)が大きなテーマとして掲げられた。これが現在、世界を取り巻く潮流である。いま欧米社会は、失ってしまった〈野生の思考〉を取り戻そうと、必死に藻掻いている。

欧米的「理性」からの脱却

己の尾を噛んだ蛇は古代ギリシャ語でウロボロス(ouroboros)と呼ばれる。

蛇は円環を形成し、始まりもなく終わりもない。過去・現在・未来は同時にここにある。 共時的(対義語は通時的)表象であるウロボロスはアボリジニの概念〈ドリームタイム〉と同義である。

中国では新石器時代の紅山文化(紀元前4700年頃-紀元前2900年頃)にウロボロスが現れている。

円環を形成することで始まりも終わりもない完全なもの、永遠性、永劫回帰を表象する。つまりウロボロスはドリームタイムと同義なのだ。

下の写真は管楽器ディジュリドゥ。

自然の状態で内空をシロアリに食べられたユーカリの幹から作られる。音の高さを変えるための指穴(tone hole)すらない。つまり表層の彩色以外、楽器(発音機構)としての加工が皆無なのである。

写真上がクーラモン(木製・樹皮製の容器)で、下のバスケットにも虹蛇が描かれている。

ブーメランにはゴアナがレントゲン画法で描かれている。

オセアニアにとどまらず、みんぱくはアイヌや日本を含め膨大な展示物があり、1日では到底全てを見て廻れない。エスニックなレストランも愉しいし、通い詰めたくなるワンダーランドである。アボリジニ関連以外では特にパプアニューギニアの仮面に強く惹かれた(例えばこちらやこちら)。

また行こう。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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