牛頭天王

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【スサノオ・シュメール?】

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【スサノオの剣・お神酒】


Facebook横山 航宜さん投稿記事

「牛頭天王」を言霊で読み解いてみると、次のように解釈することができます。

「ウシ」は、水を司る存在、すなわち月を表す。これは仏教の解釈です。

「頭(カシラ)」は高きを司ると解釈されます。

したがって、牛頭天王とは、仏教の祖である日月燈明如来が出生地に帰郷する天王、つまり統治者を指します。

645年、法道仙人と天竺より日本にやってきた牛頭天王の物語は、大和の末裔が再び天竺の霊鷲山から帰郷したという話として言霊によって語られています。

法道仙人が牛頭天王と共に持ち帰ったもの、それはカタカムナ図象符と言霊の法則です。その秘宝は大分に帰郷した後、播磨一帯の山々を開山し、山の民(サンカ)に布教していき、六甲にまで辿り着くのです。

「ウヂ」は元々「ウブツチ」の言葉で、「ウブ」の反しは「ウ」、「ツチ」は約めて「チ」となり、「ウヂ」となります。これは産土、つまり出生地や家の名前を指します。

また、「苗字(メウジ)」とは、「苗(ナヘ)」が土から生じるという意味から来ています。後世の人々が「苗(メウ)」を名前(メウ)の文字と解釈するべきだと誤解することがありますが、それは誤った理解(ヒカゴト)です。「父子を同苗と言う」ことは、同じ土地から生じた「苗」、つまり同じ家系や血統を示すという意味になります。

「氏神」は出生地(ウブツチ)の神を指します。「産宮(ウブスナ)」とは、「産砂(ウブスナ)」という意味で、「苗」は土砂から生じ、「人」は母親の子宮から生まれます。そのため、宮(ミヤ)の字を「スナ」と訓読みします。

神社には「牛王(ゴワウ)」と称する板(フタ)があります。これは、「ウブツチ」の字を、「生」の字の下の一を省いて「コ」(牛)とし、その一を土字の上に加えて「王」とすることで表現されています。したがって、「牛王(ゴワウ)」は「ウブツチ」、すなわち出生地を表すのです。

ちなみに、「牛馬」は神仏習合を象徴しています。牛馬童子はその後天道法師から仁聞菩薩となり、宇佐神宮、六郷満山を開山し、神仏習合を復興させました。

Facebook若林愛永さんコメント記事

牛頭は北極星からきたスサノオと途中別れた 本人たちは忘れてるみたいだが

http://manoryosuirigaku2.web.fc2.com/chapter3-3_main.html 【①スサノオと牛頭天王】より                

 第一章6-2で、天武天皇はスサノオノミコトがアマテラスオオミカミに献上した草薙剣に祟られた、と『紀』に記されたことを述べました。そしてその文章の裏には、天武天皇は本来草薙剣に祟られるはずでなかった、という意味があったと解釈できます。

 スサノオノミコトは『紀』で素戔鳴尊、素戔男尊、『記』ではタケハヤを加えられた建速須佐之男命、須佐乃袁尊と記されます。聖武天皇に献上された(733年)とされる『出雲国風土記』(写本)でのスサノオは、神(かむ)須佐能袁命、須佐能乎命です。

 イザナギとイザナミの間に生まれた三貴子(アマテラス、ツクヨミ、スサノオ)の誕生について、『記・紀』は、綿津見三神が誕生したあとで、「イザナギが左の眼を洗ったときにアマテラス、右の眼を洗ったときにツクヨミ、鼻を洗ってスサノオが生まれた」としています。

 この箇所については、「左の眼を日となし右の眼を月となし、髪を星辰となす」という、唐代の初期に編まれた道教の教理書『業報因縁教』を原典にしていることが指摘されています。

 それはともかく、三貴子が統治した場所と役割を右表にまとめました。これを見るだけでも『紀』一書の方が『記』に近く、恐らく原話に近かっただろうと思われるのと同時に、ツクヨミとスサノオの役割が途中で入れ替わっていて、原典から見れば、スサノオが星辰の神から「乱暴狼藉を働いた海の神」に変えられていることがわかります。

 スサノオはまず、父のイザナギに対して母がいる「根国」(ねのくに)に行きたいと願い出たために、許可と共に追放を受けました。そこで姉のアマテラスに暇(いとま)乞いをするために高天原に上ったところ、攻めるのではないかと疑われて、誓約(うけい)を行い、そのときに生まれたのが、宗像氏が祀った宗像三神です。

 宗像氏が支配していた海域は新羅との航路で、スサノオは新羅から木を持ち帰ったり、一書では韓(から)の国に金銀を求めたようにも書かれています。

 また、海人(あま)族にとって星は方位を知る基準でしたから、星と海は深くかかわっています。道教で特に重視された星は、北極星(北辰菩薩、妙見菩薩)と北斗七星(北辰の乗り物)です。

 つまり、スサノオは海と星そして宗像氏とも切り離せない関係があったわけです。   神話ではうけいのあと、スサノオがアマテラスの田を荒らして斑色(まだらいろ)の馬を放ったり、機織りの宮の屋根に穴をあけて斑色の馬の生皮を投げ込んだために、怒ったアマテラスが天岩戸(あまのいわと)に隠れるという展開になります。

 ところで、スサノオを祭神にする全国の神社の総本社が、京都の八坂神社(旧、感神院祇園社)です。東間に八岐大蛇の生贄になるのを助けて妻にした奇稲田姫(くしなだひめ)、西間に二人の間に生まれた八柱御子神(やはしらのみこがみ)が祀られています。しかしこれは明治期に神仏の統合整理が行われた以降であり、それ以前は中の座に牛頭(ごづ)天王・西の座に后で歳徳神(としとくじん。恵方神)とされる頗梨采女(はりさいじょ)・東の座に八王子(八将神)が祀られていました。

 牛頭天王信仰に深くかかわっているのが「蘇民将来」(そみんしょうらい)という伝承で、『釈日本紀』(鎌倉時代)に引用された『備後国風土記』(逸文)によると、「北の海の神武塔神(むとうしん)が南への旅の途中で日が暮れたために、裕福な巨丹(こたん)将来に宿を求めたが断られ、その兄で貧乏な蘇民将来は粟飯でもてなした。その後蘇民将来のもとに武塔神が現れて、昔の報いをすると言って、巨丹将来の妻になっていた蘇民将来の娘に、茅の輪を腰の上に着けるように伝えた。その夜、蘇民将来と娘を残して一家を滅ぼし、吾はスサノオだと言い残した」という話です。

 牛頭天王は祇園精舎(インド。釈迦の生地)の守護神であり、祇園社(八坂神社)の社伝は、斉明期(656年)に八坂造の祖になった人物が新羅の牛頭山に祀られていた天王を勧請して祀ったことに始まるとしています。また、『紀』はスサノオが高天原から新羅の「ソシモリ」(曾尸茂梨)に降臨したと記しています。

 ソシモリについても諸説ありますが、朝鮮語で「牛頭」の意味があったとする説が穏当だと思われます。牛頭が「最大の牛」を意味したゴータマ(釈迦の尊称の一)と関係することは明らかです。そして、スサノオが最初から牛頭天王と同一視されていたのなら、新羅からスサノオを再勧請する必要はなかったわけですから、牛頭天王とスサノオの習合を伝える蘇民将来はもっとあとに発生したものだと推定されるのです。

 しかし、兄の一家を滅ぼした蘇民将来がスサノオであり、「蘇」民が再来した天武天皇と習合される要素は十分にあったわけですから、スサノオや蘇民を祀る古社や古寺は本来天武天皇を祭神にしていた可能性が高いと考えられ、藤原氏興隆以降は天武天皇に対する直接の祭祀が皇室内外で禁止されたとも考えられます。

 蘇民将来は八坂神社の摂社「疫神社」に祀られていて、災難除け・厄除け・疫病除けを起源とする蘇民祭は、牛頭山の名前も、全国に残っています。裸祭として有名な黒石寺(こくせきじ。岩手県)の祭は蘇民祭です。

 八坂神社は当初は、藤原氏が氏寺から国寺に昇格させた興福寺の支配下にありました。スサノオを抑え込みながらアマテラスを最高神に祀り上げた神話に基づく寺社に対する意識と構造が窺えます。

 日本神話には道教的要素もありますが、東南アジア以外のいろいろな国の神話も紛れ込んでいます。スサノオのアマテラスに対する暴行からアマテラスが天岩戸から出てくるまでの有名な話は、ギリシャ神話との類似が顕著です。吉田敦彦氏による『ギリシャ神話と日本神話』(1978年 みすず書房)を参考にして、『ギリシャ周遊紀行』(2世紀中頃)と『紀』(本文)の粗筋を比較して示しておきます。

ギリシャ

 ①豊穣の女神デメテルが、行方不明になった娘のペルセポネ(ゼウスとの間の子)を探していた時、義弟のポセイドン(ゼウスの弟)はデメテルに邪心を抱いて、彼女をつけねらっていた。

 ②危険を感じたデメテルは牝馬に変じて馬の群れの中に身を隠したが、あとを追ったポセイドンは牡馬になってデメテルに近づいて、

 ③想いを遂げた。

 ④娘を発見できないまま夫の弟に犯されたデメテルは、悲嘆にくれて山中の洞窟にこもった。

 ⑤そのために作物は枯れて、飢饉になった。

 ⑥ゼウスが遣わしたモイライの説得を入れてデメテルが穴から出てきたので、

 ⑦世の中に実りが復活した。

日本

 ①スサノオは、姉のアマテラスが種をまいた田の上に別の種をまいたり、姉の田を取ったりまた実った

  田の中に馬を放ったりして、乱暴を働いた。

 ②ある日、アマテラスが織殿に居るのを覗いたスサノオは、屋根に穴を開けて、皮を剥いだ馬を投げ込んだ。

 ③驚いたアマテラスは梭(ひ)で陰部を打ってケガをした。

 ④怒ったアマテラスが山の中の天岩屋(あまのいわや)に隠れたので、

 ⑤世界は暗黒になった。

 ⑥オモイカネの策で岩屋の前でアメノウズメが踊りを演じ、騒ぎを聞いてアマテラスは外に出た。

 ⑦そのため世に光がよみがえった。 これによれば、大地を揺らして歩いたスサノオの原型が、海神で地震の神、また馬の神でもあったポセイドンにあったことになります。しかもそれだけでなく、アマテラスがデメテルに相当するのに加えて、ゼウスが天地開闢(てんちかいびゃく)のときに現れた創造神の高皇産霊尊(たかみむすびのかみ)、運命の三女神モイライが知恵の神の「思兼神」(おもいかねのかみ)の役割を果たしています。

 そうなると、ツクヨミがギリシャ神話の冥界の王ハーデスに擬せられたことも推定されます。ツクヨミは「月・黄泉」とも解釈できますので、「月と黄泉」あるいは「月の黄泉」から、夜の月と闇の黄泉の意味を併せ持った神として造られたものと考えられるのです。「夜見」の字も当てられるツクヨミは、夜に見られる月の意味の他に、ヨミの音に彼が治めた根国(夜之食国)のイメージを組み合わせた名前だったと考えられます。

 さらに、根国は『記』で「根堅洲国」(ねのかたすくに)とも記されるのですが、カタスとハーデスに奇妙な共音感があります。人格神ではなく、神社に祀られた自然神(太陽神)のアマテラスはアマテルと称されましたから(『延喜式』)、デメテルとアマテルまたアマテラスを無関係と切り捨てるわけにゆかないのです。

 スサノオ、アマテラス、あるいは他の神々や古い大王たちに比定できる人物が実在していたかどうかとか、遺跡から神話を実証できるかどうかは別の問題で、神話がより古い神話を無作為に収集したものではなく、操作・工夫されて作られたことを示しているのです。

 『記・紀』神話や各地の風土記に残る神話がいつ頃成立したのかは、明らかではありません。しかし、神話における一つのハイライト、善性のスサノオが行った八岐大蛇退治の話は、『出雲国風土記』にはありません。

 しかし、スサノオに与えられた役割や行動、また次項で述べるアマテラスとの対比から、

「荒ぶる神」スサノオは天武天皇を暗示していることが明らかなのです。

 両者に共通するキーワードは、出雲、草薙剣、宗像三女神(宗像氏)、星辰(占い)、新羅、馬(馬子)、戦い、報いなどで、「蘇民」の名前は読み方を変えれば「蘇我の民」にもなります。

 従来の研究ではアマテラスを持統天皇と考えながら、ほとんどはスサノオを単に神話のために造られた神として、天武天皇との関係を見過ごされてきました。なぜなら、加羅国からの渡来氏族(蘇我氏)の末裔だった天武天皇の実体がわからなかったために、スサノオが持つ様々な性格と対比できなかったからです。

 だから『紀』は暗に、スサノオが持っていた草薙剣は本来天武天皇に祟るわけがなかったのに、天皇は哀れにも自分を守るべきスサノオにも見放された、と皮肉を込めて言ったのです。

https://www.youtube.com/watch?v=Q_FIBTzKCi4

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