Facebook近藤裕子さん投稿記事🍀🍀優しいことばで🍀🍀
「愛語廻天」愛語よく廻天の力あり道元禅師の言葉です。
「愛語には、天をも動かす力がある」となり、 思いやりのある真心の言葉には、
人の運命を好転させる力がある」ということだと思います、
思いやりのある言葉を心がける。
愛のある言葉は、相手を幸せにすると共に、自分をも幸せにしてくれるものです。
感情が言葉を超えてしまい 反省することはよくあります。
「和顔愛語」という言葉もあります。常に心がけたいものです。
https://www.shunancitypromotion.jp/udakiyoko2023/ 【俳人|宇多喜代子さん】より
旧徳山市で生まれ、「私の体は徳山でできている」と語る宇多さん。大阪のご自宅へ伺い、かつての周南市や約70年俳句と共に歩んできた宇多さんの人生についてお聞きしました。
●初めての師、俳句との出会い
俳句の出会いは、旧徳山市から大阪へ引っ越した高校3年生の時。俳句を習っていた祖母が親しくしていた僧侶・遠山麦浪さんとの出会いがきっかけです。
昔、祖母から短歌を詠んで聞かせてもらってはいたものの、馴染めなかったという宇多さん。「でも祖母と一緒に麦浪さんにお会いしたとき、勧められて作った俳句が褒められて、それがとてもうれしくって。麦浪さんは、非常に高潔で洒脱(しゃだつ:俗気がなくさっぱりしていること)な人で素敵だなと思ったこともあり、俳句を始めました」
それからは俳句を持ち寄って批評しあう「句会」へ参加するようになりました。当時、若い女性が句会に参加するのは珍しかったそうです。
「私にだけお菓子を出してもらえて、シュークリームなどをいただきました。当時シュークリームなんて見たこともなかったから、おやつに釣られて句会へ行っていました」と笑顔で話します。
●俳句を続けるためにアルバイト
趣味でたしなむ人は多いが、生業にするのは難しい俳句の世界。俳句にすっかり魅了された宇多さんは、続けたい一心で、歯科医院でアルバイトをしながら俳句を続けたといいます。
1950年代後半になると新聞社などが主催するカルチャーセンターが開設され始め、俳句教室で講師を務めるようになりました。
●俳人としての歩み
そんな宇多さんに転機が訪れたのは1970(昭和45)年。俳人・桂信子さんが俳誌「草苑」を創刊する際、声がかかり本格的に俳人活動を開始することになります。
45歳となる1980(昭和55)年には、デビュー作の句集「りらの木」を発表し、現代俳句協会賞を、2001(平成13)年には、句集「象」が俳句界で最も権威ある賞とされる蛇笏(だこつ)賞を受賞します。
また、2006(平成18)年には、俳句界で最も歴史ある全国組織の団体「現代俳句協会」で会長を就任。紫綬褒章や文化功労者に選ばれるなど、俳人として歩み続けます。
花の色は水上にあり夜市川
父までの瓦礫を越えるりらの枝
●俳句の魅力は
「これからも5年に一度は句集を出すつもり」と話す宇多さんに、俳句の魅力について尋ねてみました。
「短歌と違い、俳句は短くて、点で捉えられるところがいい。型が決まっていて制限があり、余計なことを言わなくていいので私の性分に合っていました(笑)。短歌だと少し知識が必要ですけど、俳句は特別な教育は必要ありません。字が書けたら詠めますよ。それに吟行と称して戸外に行っても、家にこもっていても俳句が詠めます」
特別な道具も必要なく、ペンとメモ帳があればどんな場所にいても詠めるのも俳句の魅力の一つです。
俳句を詠む上で欠かせないのが、季節を表す「季語」です。季語の魅力について宇多さんはこう話します。
「若い頃は季語はいらないと思っていたけど、今では季語を作ったのは俳句の大きな手柄だと思います」
続けて「私が誰かに本をお薦めするときは『歳時記』を、日本人の必携の本として紹介しています。今は季節感が薄れてきていると言われますが、日本にいたら季節を楽しまないと!」と話します。
春 立春の今日あれをしてこれをして
夏 夕立の半透明をふりかぶる
秋 田をめぐり来し朔日の赤柏
冬 なにもかも倒れて真冬深みたる
さらに、俳人には「定点観測が重要」と宇多さん。
「私はよく『自分の木を一つ決めること』とお伝えします。庭に生えている木でも、駅や公園の木でもいい。その木を観察すると、3ミリの芽が5ミリや1センチに伸びていく。毎日の変化がおもしろいのです」
季節の移ろいや日常の些細な変化を感じ取ることから俳句作りが始まっているのだと感じました。
03.インタビュー
徳山での戦禍の記憶
1935(昭和10)年に生まれ、幼少期は徳山一番丁で過ごしていましたが、特に心に残っているのは戦争の記憶だということでした。
第二次世界大戦中である1945(昭和20)年の7月、徳山に軍燃料廠(しょう)があったことから爆撃を受け、町は火の海になりました。当時、宇多さんは10歳。
「今では徳山の町が丸焼けになったことを知っている人も少ないかもしれません。B29爆撃機から焼夷弾がパラパラと落ちてきて…私が住んでいた家も全焼しました」
八月の赤子はいまも宙を蹴る
「あの日、道で赤ちゃんが手と足を広げたまま転がっていて…。今もあちこちで戦争が起こっているけど、赤ちゃんが戦場で亡くなるときはこういう姿なんだと思いました」
宇多さんの中で戦禍の記憶は、今も深く刻まれています。
稲の原祖母と二人の敗戦日
戸田での田んぼの記憶
空襲直後、祖父母が住んでいた戸田の家に、母と共に引っ越しました。田畑に囲まれ、農業を営んでいた祖父母の家で過ごした記憶も深く根付いています。
「子どもながらに手伝いをよくしていました。薪を使ったお風呂沸かしやニワトリの世話、米作りなど、工夫しながら作業した経験は農業を好きになるきっかけでした」
戸田で過ごした日々は、宇多さんにとって俳句作りの大きな礎となりました。
いつしかに余り苗にも耳や舌
早苗饗(さなぶり)のいちにち湯野の湯の熱き
「田んぼにまつわる俳句は、全部がこの頃の記憶につながっていると言っても過言ではありません」
俳句雑誌の編集長時代には、田んぼの特集を組まれたそう。
宇多さん自身も、お米が好きすぎて、田んぼを借りて珍しい品種の米を育てたり、中国まで米のルーツを訪ねに行ったりしたこともあるそうです。
「俳人の中でも米と言えば私ですよ」と笑顔で話します。
旧徳山市で過ごした学生時代の思い出
戸田で約3年を過ごした後、福川へ引っ越し、桜ヶ丘中学校(現:桜ケ丘高校)へ通うことになりました。
「私の人間形成において、最も影響を受けたのは中学時代です。本当に素敵な先生がたくさんいらっしゃり、自由な校風で伸びやかに過ごすことができました。私はエッセイのような文章をよく書いていましたが、それを先生が大変褒めてくださって。その先生に出会わなかったら、文章を書いたり読んだりしていなかったと思います」
福川から徳山まで列車で通学していた宇多さん。
「徳山駅前は戦後で焼けてしまったけど、復興の勢いがすごかったですね。大規模な区画整理でできた駅前の広場には青森からトラックでリンゴを売りに来ていたんですよ」そのうちに商店街も栄えていきました。
その後、徳山高校へ入学しますが、宇多さんの父が復員し1学期の途中には仕事の関係で大阪へ引っ越すことになります。
「友達がたくさんいたから離れがたくて、泣きの涙で大阪へ行きました。1週間すれば新しい暮らしに慣れましたけど(笑)」
徳山高校の応援歌「山は岐山」の一節をよどみなく暗唱する宇多さん。
「『山は岐山の初紅葉 海は鼓海の波の音』いいフレーズだと思って」覚えていたのだそうです。
徳山(現:周南市)は住みよい街
親戚が周南市に住んでいるため、よく帰省するという宇多さんに現在の印象を伺いました。
「新幹線があるから帰りやすいですね。今は随分変わっていて戸惑いますが、海と山がはっきりした土地だから、どこに何があったのかと察しが付きます。商店街を歩けば、知っている名前のお店もありますし。徳山は小ぢんまりした地方都市だから住みやすいと思います」
宇多さんの人生観
今回の取材で宇多さんの人生観に触れることができました。
「昔は空を見て明日は雨が降りそうだとか、寒くなりそうだとか察知して次の日の予測を立てていたんですよ。今は天気予報を当てにするけど、観天望気も大事です」と話します。
観天望気とは、自然現象を観察して天気を予測することをいいます。
文明の利器に頼りすぎる現代人は、観察力や洞察力、自分自身で考える力を高めることが大切だと感じると共に、四季を楽しみながら何気ない日常を慈しむ時間も必要なのではないかと思わせられました。
また、折に触れ「私は生まれてから意地悪な人に出会ったことがないんです。身内にも恵まれていたし、周りの人もいい人ばかり」と話す、気さくで温かい人柄の宇多さん。そんな宇多さんに、誰もが心を許し多くの人が惹きつけられるのではないでしょうか。
百歳は花を百回みたさうな
https://www.lib.tokushima-u.ac.jp/m-mag/mini/131/131-2.html 【○M課長の図書館俳句散歩道 (俳人の名言)】より
いよいよ師走,とうとう「年の暮れ」の月になりました。今年1年を振り返ってどんな年でしたか? 来年を迎える前にいろいろと考える月にしてはいかがでしょうか?
12月12日の「漢字の日」に「今年の漢字」として京都清水寺で,巨大な和紙に漢字一字が揮毫されます。
ちなみに12月12日を「漢字の日」としたのは,日本漢字能力検定協会が1995(平成7)年に制定したのはご存知でしたか?
「1(いい)2(じ)1(いち)2(じ)」=「いい字1字」の語呂合わせです。
1995年 の漢字は「震」でした。兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)発生した年でした。
そして昨年2014年の漢字は「税」で,17年ぶりの消費税増税の年でした。
皆さんにとっての今年を反映させる「あなたの漢字」を考えてみてください。
ふりかえる あなたの漢字 年の暮れ
今回は,時代を超えて語り継がれる俳人の名言にふれて,その人生観や俳句の理念を紹介します。
○ 松尾芭蕉
新しみは俳諧の花なり,古きは花なくて木立もの古りたる心地せらる
作品の新しい味わいは,俳諧の花というべきものである。古い姿は,木立が花もつけずに古色を帯びているもののように見える。
「あたらしみ」は,味わいや趣がこれまでにないさまのことです。句の姿,趣向,心,ことばを問わず,いろいろな意味でのオリジナリティを言います。
芭蕉自身は俳論のようなものは書いていません。この言葉が書かれている「三冊子」は,芭蕉と親しく接して教えも受けた伊賀上野の服部土芳の随聞録だと伝えられています。
古池や かわず飛び込む 水の音
和歌では蛙はその鳴き声が詠まれるものとされていましたが,芭蕉はそのような約束ごとやきまりではなく,池に飛び込む音を句にしました。そこに俳諧としての独創があるとされています。
俳諧は考えるものではなく感じるものですが,芭蕉の「物我一如」,心が物に入ってそこから顕れ出た情感から,彼は蛙そのものの心境に「新しみ」をとらえていると思います。
○ 与謝蕪村
俳諧は俗語を用いて俗を離るるをたっとぶ
安永6年(1777)「春泥句集」の序にある言葉です。庶民の文芸として発展してきた俳諧は, 特別な言葉でなく日頃使っている日常語を用います。それが大衆に広がる俳諧という文学の強みですが,現実をそのまま詠むのでなく現実性を離れて表現することが大切です。
現実を離れた世界とは,想像力を働かせた人間の深い夢の世界だと思います。
蕪村の「月並俳句帖」から俗を離れた句を紹介します。
ちりて後 おもかげに立つ ぼたん哉
散ってしまった花に,別れた人の面影をみています。面影が見えるのを「立つ」と表現しているのは,俗語を用いて俗を離れている蕪村の俳人としての表現の力です。
いっしょにいた時より,愛しく感じるその気持ちは,儚い恋だったのでしょうか?
涼しさや 鐘をはなるゝ かねの声
「涼しさ」は夏の季語です。 早朝のさわやかな大気の中, 時を告げる鐘の音が,鐘を離れて彼方へ響き渡っていきます。 音を視覚的にとらえた斬新さは,画人として俳人としての蕪村ならではの素晴らしい句だと思います。
○ 小林一茶
金がないから何もできないという人間は,金があっても何もできない人間である
お金がなくても,すること,すべきことはたくさんあると思います。境遇や現実をうけいれることのできない人は,お金があってもその気持ちがなければ何もできないのではないでしょうか?
同じ様に,時間がないという理由で何もしない人は,時間があっても何もしません。
時間もお金も「ある」のではなく「作り出す」ものです。
軽妙諧謔な俳句を詠んだ一茶ですが, 実は私生活が不幸続きであったことはすでに前号までに紹介していますので,読んでみてください。
世の中は 地獄の上の 花見かな
一茶にとって世の中そのものが地獄でした。それでもけなげに生きているものは,つかの間の桜を楽しむ花見客のように儚く哀しく映っています。
こうした風刺の句の他,ユーモアと小さき動物や子供を見つめる優しい視線に溢れた句もたくさんあります。
われと来て 遊べや親の ない雀
やれ打つな 蝿が手をすり 足をする
陽炎や 縁からころり 寝ぼけ猫
猫の子の ちょいとおさえる 木の葉かな
雪とけて 村いっぱいの こどもかな
○ 正岡子規
如何なる時も平気で生きて居る
明治35年6月2日,新聞「日本」には次のように掲載されています。
「余は,今まで禅宗の悟りといふ事を誤解して居た。悟りということは如何なる時も平気で死ぬ事かと思って居たのは間違ひで,悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居ることであった」
「病状六尺」は,子規が病床での様々な感想を,死の二日前まで綴った凄絶な随筆集で,明治35年5月5日から子規が亡くなる前々日の9月17日まで新聞『日本』に127回に亘って連載されました。
5月5日
病牀六尺,これがわが世界である。しかもこの六尺の病牀が余には広過ぎるのである。僅かに手を延ばして畳に触れる事はあるが,蒲団の外へまで足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。甚しい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けない事がある。苦痛,煩悶,号泣,麻痺剤,僅かに一条の活路を死路の内に求めて少しの安楽を貪る果敢なさ,それでも生きて居ればいいたい事はいいたいもので,毎日見るものは新聞雑誌に限って居れど,それさえ読めないで苦しんで居る時も多いが,読めば腹の立つ事,癪にさわる事,たまには何となく嬉しくて為に病苦を忘るる様な事が無いでもない。
6月20日
「誰かこの苦を助けてくれるものはあるまいか」
7月26日
「病気の境涯に処しては,病気を楽むということにならなければ生きて居ても何の面白味もない」
9月17日
俳病の夢みるならんほととぎす 拷問などに誰がかけたか
脊椎カリエスという難病と闘いながら「俳句の革新」を成し遂げた彼の強靭な精神に対し,「敬服」という言葉しかみつかりません。
○ 種田山頭火
濁れる水の流れつつ澄む
自由律俳人として,山頭火の句は名言のような句が生まれます。
全国を放浪しその生涯を四国で終えた,山頭火が死の1か月前に詠んだ句です。
酒に溺れ,自殺を試みたこともある「濁った」人生であった彼が,四国を旅しながらなぜ「澄んだ」と思える境地に達したのでしょうか?
うれしいこともかなしいことも草しげる
おちついて死ねそうな草萌ゆる
年の暮れが近づいています
一茶の俳句から,年の暮れと新年の初夢の俳句を紹介します。
うつくしや 年暮れきりし 夜の空
初夢に ふるさとをみて 涙かな
人間の心は,はかり知れない奥行きをもっているということを,一茶はいつも教えてくれます。
今年も図書館をたくさんご利用いただきありがとうございました。
皆さんの今年への感謝と来年の夢にそえて
夢紡ぐ 書架が誘う 年の暮れ
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