雨引観音

https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/8785236/ 【雨引観音の鳥たち】より

http://www.tsukubapress.com/jiin/amabiki.html 【雨引観音】より

 雨引観音は雨引山楽法寺(あまびきさんらくほうじ)といい、真言宗豊山派の寺。 標高409mの雨引山の中腹にある。 坂東三十三観音霊場第24番札所。関東八十八ヵ所霊場特別霊場。東国花の寺百ヶ寺茨城第6番。 「一に安産、二に子育てよ、三に桜の楽法寺」と詠まれるほど安産や子育ての寺として知られる。 これは740年頃、聖武天皇と光明皇后が安産を祈願したところ、霊験あらたかだったことからという。 現在でも安産祈願や七五三などでの参拝者でにぎわう。

 587(用明天皇2)年、中国(梁)出身の法輪独守居士の創建。 本尊は延命観世音菩薩。推古天皇、聖武天皇、嵯峨天皇の勅願寺として知られる。 特に嵯峨天皇の821(弘仁12)年、国中が旱魃で苦しんだことから、降雨を願い天皇自ら写経し寺に納めた(天皇の御染筆は寺宝として現存)。 すると国中、雨に恵まれ五穀は実ったという。天皇は大いに喜び、勅命により、雨引山と山号を定めたという。 また鎌倉時代には幕府将軍、宗尊親王の信仰厚く、寄進によって多くの堂宇が建立された。 さらに江戸時代にも幕府から多くの寄進があるなど広く信仰を集めている。

 本尊の延命観世音菩薩は前立尊とともに国指定重要文化財。榧(かや)材を用いた一木造で、平安初期の一木彫像(いちぼくちょうぞう)風という。 また、一種の地方作風ともいうべき特色がある。 前立尊は、本尊にならって造られたものと考えられるが、製作年代は鎌倉時代とみられ、寄木造となっているなど製法も異なっている。 このほか、本堂、仁王門、東照山王社殿(附棟札2枚)、多宝塔(棟札1枚)、絹本着色愛染明王画像、絹本着色弁財天画像、絹本着色十一面観音画像、 木造不動明王立像、五鈷杵、大般若経が茨城県指定文化財。 雨引山黒門、鬼子母神堂、東照権現徳川家康公像、仁王尊像一対、木造五智如来坐像は桜川市指定文化財。

 仁王門の仁王像は、2017(平成29)年11月に吽形、2018(平成30)年年11月に阿形が寺から搬出され、 東京都内にある東京芸術大学大学院の保存修復彫刻研究室で解体修理が行われた。2020(令和2)年12月24日修理を終え戻っている。 仁王像は約800年前の鎌倉時代のものと考えられ、県内最古の仁王像という。最初の仁王門が建立された当時のものと推定される。 作者は「慶派」の流れをくむ仏師によるものと見られている。像の大きさは高さ約2.4m、幅最大約1.2m。 木目の連続性などから2体は1本の巨木からつくられた。阿形の内部に1519(永正16)年に修理した際の銘札が見つかっている。

 なお、当ページの作成に際し、公式パンフレット、公式ホームページなどを参考にした。

本堂

 観音堂。記録に残る本堂は、1254(建長6)年、鎌倉幕府の将軍、宗尊親王が執権北条時頼を諭して再建したと伝えられる。 1474(文明6)年、真壁城主真壁久幹と弟の高幹によって五間四面の本堂が建立された。 その後せまくなったことから1526(大永6)年、真壁城主真壁治幹大檀那として七間四面の堂宇に改築した。 現在の本堂は江戸時代1682(天和2)年に建立されたもの。本堂の彫刻は、日光東照宮の彫刻を手掛けた無関堂円哲による。 1998(平成10)年、屋根瓦葺き替え及び塗り替えを行った。扁額は「観音堂」。茨城県指定文化財。

本堂 本堂扁額

本堂、正面から(左)、本堂の扁額(右)

仁王門

 仁王門は1254(建長6)年、本堂と同じく鎌倉幕府の将軍、宗尊親王によって建立されたのが最初。 現在の仁王門は1628(天和2)年の再建。 2階建て、上層に縁を張り出して高欄を巡らした楼門形式が特徴。また、柱はすべて丸柱で、柱脚部を丸める「ちまき」がみられる。 仁王門の彫刻は、1704(宝永元)年、本堂同様、無関堂円哲による。扁額は「雨引山」。鎌倉時代に「慶派」の仏師によって造られた 仁王尊像がおさめられている。茨城県指定文化財。

仁王門 仁王門扁額

仁王門(左)、仁王門の扁額(右)

多宝塔

 天平年中(730年)、聖武天皇の后、光明皇后よって建立されたのが最初と伝わる。 1683(天和3)年、三重塔を再建しようと進めたがかなわず、1853(嘉永6)年に三重塔を改め多宝塔とした。 上層の平面が円形、下層は正方形。屋根の最上部には鋳鉄製の相輪がつけられている。茨城県指定文化財。

東照山王権現

 1613(慶長18)年、当時の住職が現在の静岡県の駿府城にて徳川家康公に謁見し、家康公の命令により各宗の学僧と対論、 法論に勝って賞詞を受けるとともに寺領を賜った。このことに恩義を感じ家康公の死後の1625(寛永2)年、 境内に家康公を祀る東照大権現を建立した。現在の社殿は、1727(享保12)年、東照大権現と山王大権現を合祀し再建したもの。 正面に扉が2つあるのはこのため。

 小さい建物ながら軒反りの強い入母屋造の屋根の上に千鳥破風をのせ、正面の向拝は軒唐破風を設けている。

 東日本大震災の影響により傾きなどが見られたことから、2018(平成30)年8月21日から2019(平成31)年3月20日にかけて 世界最古の企業として知られる社寺建築の金剛組により社殿保存修理工事が行われ、傾き直しやこけら葺きの葺き替えを行った。茨

東照山王権現社殿

薬井門

 通称「黒門」と呼ばれる。真壁城の城門として造られたものを、廃城に伴い雨引観音の表門として移転した。 真壁城の貴重な遺構でもある。「雨引山黒門」として桜川市指定文化財。1999(平成11)年に現在地に移転修復した。

磴道

 とうどう。「厄除けの石段」といい、薬井門と仁王門の間、145段ある大石段。 江戸時代の1821(文政4)年から1年2ヶ月かけて造られた。 一段登るごとに「南無観世音菩薩」と唱えて登れば、145段登りつめた時、厄が落ちるとされる。

阿弥陀堂

 大正時代に建立された阿弥陀堂が老朽化したことにより再建され2021(令和3)年3月完成した。 高齢者や妊産婦などに配慮しバリアフリー化、参拝者の利便性及び安全性の向上を図った。金剛組の施工。

手水舎

 仁王門に隣接してある。

参道

 仁王門と本堂の間の石段は新しく造られたもの。やや急ながらきれいな石段となっている。

延命水

 伝説では、寺を開いた法輪独守居士が持参した本尊延命観世音菩薩の袖から滴り落ちた水が泉となって涌きかえったとされ、 本尊の名にちなんで延命水と名付けられたと伝わる。

 この霊泉の水を飲むと、延命観世音菩薩の霊力がその身に加わり、延命長寿の功徳があるという。 また、1400年余、いかなる旱魃の時にも清らかな浄水をたたえ枯れなかったされる。

 古歌に「ひとしずく 手にむすびなば 雨引の 命を延ばす 薬井の水」と詠まれている。

延命水 延命水全景

延命水(左)、延命水全景(右)

鬼子母神堂

 もと御所明神と言い、約600年前に足利尊氏を祀るため建立されたものという。いつしか鬼子母神堂となったとされる。 現在の堂は約300年前に再建されたもの。老朽化により2015(平成27)年4月から修復工事が行われ、 2017(平成29)年3月16日、落慶式が行われた。桜川市指定文化財。

弁財天

 弁財天は、開山当初から祠られている鎮守。 財宝をもたらす女神、また琵琶を奏でていることから技芸上達の霊験もあるとされる。

弁財天霊像

弁財天脇手水(左)、弁財天前の泉(右)

六角堂

 六角堂は、正六角形鉄筋コンクリート銅板葺造り木造勾欄付建物という。 本尊は薬師如来。1723(享保8)年、江戸幕府8代将軍、徳川吉宗公が養女竹姫の眼病平癒祈願のために、仏師円哲に彫刻させた仏像で、 このことから眼病平癒の霊験あらたかとされる。 またこの堂に祀られる不動明王像は茨城県指定文化財。 1438(永享10)年、室町幕府の将軍足利義教公が関東鎮護の本尊として謹刻させ奉納したもの。

御供所

 総受付、札守授与所、納経所。安政年間(1854~60年)の建立。2層の建物で、江戸時代の楼閣として特色のある建造物とされる。 祈祷の受付、御守の授与、御朱印の授与はこちらへ。

絵馬堂

 絵馬堂として建てられたが現在は改装され、「お休み処・おみやげ処」となっている。参拝者は誰でも無料で利用できる。 建物は1934(昭和9)年の建立で、現在でも大小の絵馬数十枚が飾ってある。

客殿

 奥の院。江戸時代は雨引山楽法寺運営の中枢的建物だった。 仁王門などと同様、1254(建長6)年、宗尊親王によって建立されたのが最初。 現在の建物は1792(寛政4)年の再建。1987(昭和62)年に瓦葺きに替えられた。 主尊は聖観世音菩薩、前立として普賢菩薩を祀る。

客殿

 本坊は、1871(明治4)年以降、1976(昭和51)年に建て替えられるまで 雨引観音の寺院内にあった安養院の庫裡を使用していた。 この建物は、正面から見れば平家建て、側面から見ると2階建てという変型的2階建てだった。 これは江戸時代、幕府の犯罪人が逃げて来た場合、仏の慈悲をもってかくまった遺構という。 当時いかに権威の有った寺院であったかを示すものとされる。 現在の建物は、2011(平成23)年12月に完成した。鉄筋コンクリート2階建て、金剛組の施工。

地蔵堂

 子安地蔵尊を祀る。この建物も仁王門などと同様、1254(建長6)年、宗尊親王によって建立されたのが最初。 仁王門向かって左手にある。

地蔵堂

 聖見堂は、雨引山第30世聖見和尚の徳を偲んで、1995(平成7)年に多宝塔の西側、弁天池の上方に建立された。 室町様式の建造物で、本尊は、建武年中(1334~37年)に室町幕府の初代将軍となる足利尊氏公が寄進した大日如来。 学業成就の功験あらたかであるという。

宿椎

 やどしい。推定樹齢1000年のスダジイの巨樹。 本堂が火災になった際、本尊がこの樹の下に避難し仮の宿としたとの言い伝えからこの名があるという。 桜川市指定天然記念物。

鐘楼堂

 最初は仁王門と同じく1254(建長6)年、宗尊親王によって建立された。 その後1682(天和2)年に再建、現在の鐘楼堂は1830(文政13)年に建立されたもの。 1975(昭和50)年に瓦葺きに替えられた以外は建設当時のもの。

聖徳明福智観世音

 多宝塔前にある。交通安全、火災消除に御利益有とされる。

白衣観世音菩薩

 びゃくいかんのん。世界の平和と自由、幸福及び日本の繁栄、交通安全の為にと、 1975(昭和50)年4月、弁天池の東側に建立、その後、多宝塔奥に移転した。

水子地蔵尊

 御供所の前に建立されている。1980(昭和55)年10月奉納。

千手観世音菩薩

 客殿前にある。

延命観世音菩薩

 石造延命観世音菩薩前立尊。

大石垣

 御供所下の石垣は1822(文政5)年、尾張(現在の愛知県)の知多半島の石工を招き構築したと伝えられる。 高さ13m、横幅約70m、御供所下以外の部分を含めると約200mに及ぶ。

三笠

 薬膳中華茶房三笠。「医食同源」「地産地消」「手作り」を基本理念とし、 地元の厳選食材をバランス良く調理した薬膳本格中国料理を提供する。

マダラ鬼神祭

 日本二大鬼神祭とされ、京都・広隆寺と雨引観音のみで行われている。マダラ鬼神が馬で大石段をのぼり、 鬼を従えて踊り、破魔矢を放つなど見ごたえのある行事となっている。 マダラ鬼神祭については桜川市へ。

 仁王門周辺や本堂前などに桜がある。河津桜や染井吉野などの桜が約3千本が植えられている。 3月から約1カ月間にわたって様々な桜が楽しめる。雨引観音の桜については 桜川市へ。

紫陽花

 磴道の両側には10種3000株の紫陽花が植えられている。雨引観音の紫陽花については 桜川市へ。

 初夏には参道を登りきると藤が迎えてくれる。


https://estela.hatenadiary.jp/entry/2022/02/19/122512 【諸行無常、生々流転、万物流転、そして絵巻物】より

 「諸行無常」は『平家物語』が主張する仏教の世界観であり、「生々流転」は岡倉天心の高弟横山大観の大作で、長さは40mを越える(東京国立近代美術館蔵)。「万物流転」となれば、ギリシャの哲学者ヘラクレイトスの哲学的テーゼで、どれも似たような内容だと直感できる語彙である(All things are in flux.)。

 例えば、大観の「生々流転」は世界の絶え間ない変化を表現していて、それこそが世界の本質なのだと言われると、素直に頷いてしまう。その説得力の理由を探すと、自然変化の劇的で巧みな表現にある。大観の画力も、大乗仏教の経典創作能力も、直感的に人々を説得する手段としてはこの上なく見事なのである。一方、「普遍」、「不変」、「不易流行(松尾芭蕉)」などが変化を否定する語彙として思い浮かぶ。不変の哲学者となれば、ヘラクレイトスの好敵手パルメニデスだろう。

 生きることは波乱万丈の出来事を経験することであり、因果的な物語には心躍らせるが、論証的な説明は退屈でしかないという経験を誰もがもっている。私たちの世界は徹底して因果的であり、それを誇張すれば、「諸行無常、生々流転、万物流転」となる。だが、私たちの関与や関わりが弱くなったり、なくなったりすると、因果的でない状況が生まれてくる。私たちの関与が弱くなるミクロな世界や関与のない数学の世界では非因果的な世界が立ち現れる。その意味で、因果的であることは極めて人間的で、そのため人は歴史に重要な役割を与えてきたし、因果応報、栄枯盛衰を経験しながら、誕生から死までの自らの人生を因果的に捉えてきた。時には「因果的=歴史的=時間的」な現実から逃れ、現実から距離を置くために俯瞰的に世界を眺め直したくなり、それが普遍的、一般的な知識の探求を促したのだと言えなくもない。いずれにしろ、私たちにとって生活世界は因果的であり、それゆえ、神話であれ、相対性理論であれ、それを使って生活世界の出来事について述べたり、説明したりする場合は因果的に記述し、説明することになる。というのも、物理世界に因果的でない変化があったとすれば、それは私たちには不可解で、奇跡でしかないからである。

 論証や証明がもつ俯瞰的な観点を最初に導入したターレスは一流の幾何学者となり、幾何学によって因果的な世界から独立した数学的世界の存在を示すことに成功した。彼に始まる幾何学は、その後ユークリッドによってギリシャ数学の主役として『原論』にまとめられることになる。幾何学的な見方を使って世界を非因果的に説明しようとした最初の哲学者がパルメニデスで、その形而上学は徹底して俯瞰的、非時間的であり、そのため因果的な運動変化は単なる仮象に過ぎないと見做された。運動変化の否定をより具体的に示そうとしたのが彼の弟子ゼノンだった。世界のすべてが既に起こったかのように扱われ、起こったもの、起こるもの、起こるだろうものが、同じ存在として列挙併記される絵巻物というのがパルメニデスの世界である。従って、変化に関わるような、例えば「可能性」といった概念はすべて否定され、様相や時制のない世界がパルメニデスの世界となる。彼の形而上学は決して荒唐無稽ではなく、その哲学的アイデアは原子論と同じように現在まで生き残り、ブロック宇宙モデル(Block Universe Model)として生きている。世界のすべてが「展開された絵巻物」として捉えられ、それを全体として俯瞰したのがパルメニデスの世界である。

 ゼノンのパラドクスを知る人は多いが、それが正確に何を述べているかということになると、専門家の間でも意見が分かれ、現在でも哲学への憧れを掻き立てるに十分な主題となっていて、好奇心の格好の対象であり続けている。運動自体の分割可能性、それを表現する線分の分割可能性、表現された運動についての論証が巧みに混同されることによって、運動に関わる彼のパラドクスが生じる。運動が分割可能なのか、運動表現が分割可能なのか、論証で使われる無限概念が適切なのか、これらの問題を丁寧に解きほぐしていけば、どこにも矛盾などないというのが標準的な解答である。

 因果的でない数学を使って因果的な世界をどのように理解し、説明するかは何も問題を孕んでいないように見えながら、実は重要な問題を多く抱えていることがその後の2,000年以上にわたる知的な探求の中で次第に露呈されていくことになる。この過程は実に魅力的で、人間の好奇心を刺激し続けてきた。パルメニデスが形而上学的な剛腕を振るって解決しようとしたのは「自然の数学化」と呼んでもいい問題であり、ゼノンのパラドクスによって、それが論理的な問題だけでなく、無限分割可能性を通じた「無限」の問題をも含むことが明らかになった。その試みはガリレオによって再度なされ、数学を巧みに使うことによって実行され、ニュートンが古典力学としてまとめ上げることになる。自然の数学化が引き起こす問題とその解決は数学研究そのものを大いに刺激しながら、現在もまだ続いている。

 「展開された絵巻物」とは絵巻物をすべて広げた世界であり、例えば、運動がその軌跡として表現される世界であり、物理学の世界である。大観の「生々流転」は絵巻物と呼んでもいいような40mの長さをもつ絵である。私たちはその絵自体が時間的に変化すると思っておらず、その絵の内容が時間的に変化する風景だと考えている。見えているのは静止状態の絵なのだが、その絵を通して生々流転の水の流れが表現され、私たちはそれを表象している。数学や物理理論は抽象的な絵巻物自体であり、私たちの経験は絵巻物が表現する具象的な表象内容なのである。数学や物理理論がなければ、私たちは諸行無常の世界を正しく表現することができないのである。


https://estela.hatenadiary.jp/entry/2021/04/30/091952 【不易流行】より

 「不易流行」は芭蕉が『奥の細道』の旅の間に体得した思想。「不易(不変の真理)を知らざれば、基立ちがたく、流行(変化)を知らざれば、風新たならず」、しかも「その本は一つなり」、すなわち「両者の根本は一つ」であると芭蕉は主張します。「不易」は変わらないこと、変えてはいけないもので、逆に「流行」は変わるもの、変える必要があるものを指しています。

 「不易流行」は俳諧について説かれた考えですが、他の事柄にも適用されてきました。不易と流行の基は一つ、不易が流行を、流行が不易を動かす、と言われれば、哲学好きは弁証法的変化を思い起こす筈です。「万物流転」、「諸行無常」、「逝く者はかくの如きか、昼夜を舎かず」、「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」などは、「流行」が世界の真理であるという立場。一方、パルメニデスの不変の哲学、4次元主義、対称性の原理等は「不易」が世界の真理という立場。この二つの立場は相容れない立場であると考えるのが合理主義、二つの立場は補完し合い、その基は一つと考えるのが弁証法主義とすれば、芭蕉の考えは後者となります。

 そのような議論は横に置き、俳句のルールそのものに即して言えば、5-7-5の文字数、季語の有無、外国語の俳句に関する不易と流行が問題となるでしょう。さらに、俳句の認識論的な不易と流行、解釈に関する不易と流行等々、様々な不易と流行が考えられます。俳句の形式から内容へ、さらには俳句以外の事柄へと考察の対象を拡大していくと、ついには妙高市の不易と流行、つまり市の持続させていくべき伝統と、市への新しいものの導入が想像できますし、最後は私自身の不易流行が問題になってきます。

 このような説明は言葉遊びのように思われ、言葉遣いだけが独り歩きしているだけで胡散臭いこと極まりないのですが、それでも「不易流行」(あるいは、持続可能性と変化)は大変気になるのです…


https://estela.hatenadiary.jp/entry/2020/12/27/041216 【芭蕉と一茶の世界】より

 「不易流行」は松尾芭蕉が『おくのほそ道』の旅の間に体得した思想である。「不易を知らざれば基立ちがたく、流行を知らざれば風新たならず」、つまり「不変の真理を知らなければ基礎が確立せず、変化を知らなければ新たな進展がない」、しかも「その本は一つなり」、すなわち「両者の根本は一つ」であると主張する芭蕉は極めて哲学的である。「不易」は変わらないこと、変えてはいけないものであり、「不変の真理」を意味している。逆に、「流行」は変わるもの、変えていかなければならないものである。不易と流行の基は一つ、不易が流行を、流行が不易を動かす、と言われれば、「色即是空」、「空即是色」が連想され、さらには生物進化さえも彷彿させ、理性的な蕉風が浮かび上がる。

 深川の芭蕉の生きた時代は江戸中期の元禄時代。一方、北信濃柏原の一茶の生きた時代は江戸後期の化政時代。そして、二人の描く世界は見事なまでに違っていて、絵画なら新古典主義と表現主義の違いとも言えるのではないか。当時の芭蕉擬きの俳句の世界に生きてきたことを「月花や四十九年のむだ歩き」と一茶は詠む。一茶は俳句が言葉遊びの世界であってはならず、日常生活で誰もが経験する喜怒哀楽を詠まねばならないと主張する。

 普遍的で不変の自然や世界の構図を計算し、それを叙事的、劇的に描くのが芭蕉で、「荒海や 佐渡に横たふ 天の河」、「あらたふと 青葉若葉の 日の光」はそのような芭蕉の意図が見事に表現され、感覚の世界ではなく、認識の世界が詠われている。一方、一茶はどうだろうか。刹那的で脆く、変わりやすい心情を時に優しく、時に皮肉を込めて揶揄するのが一茶。悲しさ、くやしさ、もどかしさが綯い交ぜになった表現は理屈抜きに私たちの心に突き刺さる。「ひとりなは 我星ならん 天の川」では、天の川の傍にひとりでいる星が自分の星、自分の姿だと詠ってみせる。芭蕉とは大違いで、「これがまあ ついの栖か 雪五尺」と自らの運命を嘆いてみせ、「雪とけて 村いっぱいの 子どもかな」と喜んでみせるのもまるで平気なのが一茶。ロマン主義風のクラシック音楽が芭蕉とすれば、一茶は北原白秋風の童謡であり、演歌でさえある。そして、芭蕉と一茶の間には一茶の少し先輩越後の良寛がいて、一茶と生活世界を共有しながら、芭蕉と一茶の間で遊んでいる。

https://www.youtube.com/watch?v=kOPNuNh14tE&t=31s

https://www.youtube.com/watch?v=lr_NgV3T7vo

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