感動を共有しあう喜び

http://mokuenn.jugem.jp/?eid=251 【俳句の評価軸】より

 俳句は、自然との出会いや生活の中での作者の感動を、五七五の一行詩(三行詩)に詠うものである。この句に接した読者が作者と同じ感動を共有できれば、最高である。感動を共有する為の要因として、1番大切なのは「詩情性」、即ち、作者の心情が滲んでいるか、着眼点が自然の偉大さ、それに対する感謝の念であるかである。2番目は、「口誦性」、即ち、リズム・調べであり、口の中で称えてすっきりとしているかどうかである。3番目は、「映像性」である。句を読んで、その情景がすんなりと脳裏に描けるかどうかである。4番目は、「斬新性」である。奇抜とか異端でなく、伝統を守りつつも新しい感性の着眼点、表現の句である。

 俳句評価の要因の重みづけを以下の様に考える。

詩情性   ・・・・・・ 40点

口誦性   ・・・・・・ 30点

映像性   ・・・・・・ 10点

斬新性   ・・・・・・ 20点    

計          100点

 句会で選をするとき、我々は漠然とした評価軸で採る、採らないを決定しているが、これ等の評価軸と重み付け(各人に依って異なると思うが)で、総合点を出して、一種の絶対評価をしたら良いと思うが、如何であろうか・・・

http://mokuenn.jugem.jp/?eid=229 【俳句の評価】より

 「俳句は□□□□である」との、先人の言葉がある。「客観写生・花鳥諷詠である」(虚子)「諸人旦暮の詩である」(草城)「日記である」(眸)「私小説である」(波郷)「韻律詩である」(兜太)「リズムである」(湘子)等など、それぞれの見解が分かれている。各先人共に、「俳句」という巨大な捉えどころのないモノの、自分の興味のある一部分を捉えて唱えているのであろう。しかし、概観してみると、句の対象の重心が「自然」か「人」かのの違いが一番大きいと思う。この句柄の違いは、フランス料理か日本料理か中華料理かの違いの様に、俳句の「優劣・正邪」の問題とは違うと思う。ならば、俳句の句柄に関係ない俳句の「優劣・正邪」は何によって決まるのかを考えたい。それは唯一つ、「読者に感動をもたらす句」又は「余韻」の深い句と、云うことであろう。 

 ならば、その「感動」を生み出す要素を列記すると、①季語が効いている ②調べが良い ③映像性が優れている ④発想・表現の斬新さ であろう。この相関図を示す。中でも、季語のが効果的かどうかという尺度が重要であるが、それは写生力より生れる。季語をよく見て、季語と親しくなり、季語の本情を知れば、効果的に使える。次に大切なのは、調べである。出来上がった句を、何回も実際に口で称えてその口誦性の良さを確かめたい。この口誦性の良さは、言葉の平明さによって生れる。次に大切なのは「斬新さ」である。着想、句材、表現の斬新さは、作者の「新しさ」を求める心と好奇心が大切である。最後は、作者の「意(こころ)」を抽象的・観念的な言葉でなく、具象に託して表すことにより、映像性が高まるのである。

 これから作句に当たっては、この俳句の評価尺度を大切にして行きたいと思う。


https://www.lib.tokushima-u.ac.jp/m-mag/mini/126/126-3.html 【M課長の図書館俳句散歩道 (俳句の魅力 その2)】M課長の図書館俳句散歩道 (俳句の魅力 その2) より

前回は、俳句の魅力の1つとして「発見する喜び」についてご紹介をしましたが、今回は 「感動を表現する喜び」、「感動を共有しあう喜び」について掲載します。

いきなりですが、次の3句の内、あなたはどの俳句に感動しますか?

牡丹散りて 打かさなりぬ ニ三片       与謝 蕪村

夜の色に 沈みゆくなり 大牡丹        高野 素十

白牡丹といふといへども 紅ほのか       高浜 虚子

牡丹は、初夏の季語です。花の王といわれる中国渡来の花で白や紅など大輪の花を咲かせます、花の姿は華麗で、寺社の庭園などで観賞用に栽培されており、奈良の長谷寺は、牡丹の寺として有名です。

どの句も、牡丹の花の美しさや香りをみごとに詠んでいますが、特に蕪村の句は、画家としての蕪村の眼力と表現力を感じる名句です。

高野素十(すじゅう)は、茨城県出身で水原秋櫻子の勧めで俳句をはじめました。虚子に師事し、客観写生の第一人者と評価されました。水原秋桜子、山口誓子、阿波野青畝とともにホトトギス「四S」として知られています。

感動とは、深くものに感じて心を動かすことですが、俳句は自然のものや、人間とその暮らしに触発された感動を詠い上げる詩です。

俳句をつくる時は、五感である「視覚」、「聴覚」、「嗅覚」、「触覚」、「味覚」を通して表現する豊かな感性が必要だと思います。

芭蕉と同郷の門人であった服部土芳の著わした俳論書である「白さうし」には、芭蕉も「見るに有、聞くに有、作者感ずるや句と成る所はすなわち俳諧の誠なり」「物の見えたるひかり、いまだ心に消えざる中に云ひとむべし」と、物の本質を変化の途中で見つめ、その場の感動を言葉にすることが俳句であるといっています。

俳句をつくる極意はその場の感動を「じゃんけん」のように、パッとつかんで、グっとひきよせ、チョキっと言葉にすることかもしれません。

次の2句の内、どちらにあなたの心が揺らぎますか?

涼風の 曲がりくねって 来たりけり

すず風や 力いっぱい きりぎりす

「涼風」や「風涼し」は、晩夏の季語で、夏の終わり頃に吹く涼しい風のことです。

どちらも小林一茶の句です。

一茶の住んでいる長屋の奥へ、涼しい風は曲がりくねって、ようやくたどり着きました。

夏の終わりに、涼しい風が吹いてきました。その時、きりぎりすが力いっぱい鳴きはじめ秋の気配が漂ってきました。

流れゆく 大根の葉の早さかな      高浜虚子

ホトトギスの理念となる「客観写生」「花鳥諷詠」を提唱した虚子の代表句です。

この句の発見は、大根の葉の流れの速さであり、感動は、川を流れ行く葉の速さの美しさです。

この写生でいう情景を想像してみてください。この美しさは、虚子が俳句にするまで誰も発見していなかったかもしれません。そしてこの速さを素直に美しいと感じることができたのは、彼の豊かな感性であったことはいうまでもありません。

俳句は感動を表すことを中心とするため、説明はむしろ必要とされない傾向があります。

説明や理屈に限定されず自由に想像することができる感動こそが俳句の面白さでもあります。

蕪村の代表句に次の俳句があります。

夏河を 越すうれしさよ 手に草履      与謝蕪村

蕪村の母の故郷である丹後与謝野町を訪ねた道中に詠んだとされています。

炎天の夏に、裾をあげて冷たい川に素足をつけた時の心地よさが伝わります。

絵画的な俳句がさらに足の涼感も感じることができる感動と感触のある句です。

「うれしさよ」は、感動そのものの言葉ですがこの句では、素直に伝わってきます。

さらに、このうれしさは、母の故郷をたずねる「うれしさ」でもあると思います。

うれしいことも かなしいことも 草しげる      種田山頭火

「あるがまま、雑草として芽をふく」ことを心情とした彼にとっては、「うれしいこと」「かなしいこと」その気持ちのままに生きて行くことが、生きる意味を見いだすことであったのかもしれません。

「感動を共有する喜び」とは、句会などで、同じ俳句仲間と語らう時間は楽しいものです。

漱石が来て虚子が来て大三十日(おおみそか)    正岡子規

明治28年、俳句仲間でにぎわう子規庵の情景が目に浮かびます。

新年や 鶯鳴いて ほとゝぎす           正岡子規

この句は「ほとゝぎす」創刊号に掲載され、俳誌の創刊を新年に鳴く鶯に喩えて詠んだものです。

俳句雑誌「ほととぎす」は、正岡子規が提唱する俳句革新を目的として明治30年に、海南新聞にいた友人の柳原極堂の手により松山で刊行されました。「ほととぎす」の名前は、子規を意味しています。明治31年に、東京で高浜虚子が継承し、明治34年には、雑誌名を「ホトヽギス」に変更しました。

夏目漱石が小説『吾輩は猫である』『坊っちゃん』を発表したことでも知られ、明治期には総合文芸誌として、大正・昭和初期には俳壇の有力誌として読み継がれ、平成25年には通巻1400号となり、現在に至っています。

まさに、俳句を中心とした文芸活動を通じて、作者と読者や読者同士の「感動を共有する喜び」の場となっています。

図書館が、友達とのコミュニケーションの場として感動を共有する場であれば、とてもうれしく思います。

図書館で 友と語りし 夏をゆく

http://www.isc.meiji.ac.jp/~haiku/zemityou.html 【ゼミ長より】より

各期のゼミ長から西山ゼミや俳句への思いを語ってもらいました。

●4年(10期)ゼミ長 田勢也子

俳句を始めてから、今まで気にも留めていなかったほんの些細なことに気が付けるようになりました。私達の日常は意外にも輝いていて、様々なことに囲まれていました。春のうららかな陽気も、夏の蝉の声も、秋の月の美しさも、冬の凍てつく寒さも、全てが私達の日常を構成しているのです。それらを当たり前だと思って生活する人と、情景を切り取って自分の言葉で表現する人とでは、人生の楽しみ方が変わってくるのではないでしょうか。

 俳句は、いつまで経っても褪せることなく、私が見た景色、聞いた音、香りを思い出させてくれます。また、他者に自身の感動を共有することも出来ます。

 たった17音、されど17音。言葉で表現する楽しさをあなたにも味わって頂きたいです。

●3年(11期)ゼミ長 亀倉涼

 俳句は十人十色です。

 同じ景色をテーマに俳句を詠んでも一語一句誰かと重なることなどまずありえません。たとえ、感じたことや表したいことが同じでも表現、言葉が人によって変わります。同じ山に行ったのに、同じ街並みを歩いたのに、言葉にするとまるで違うのです。自分が気が付かなかったことを俳句にしていたり、知らなかった言葉を使っていたりします。そうすることで他人を理解でき、自分の価値観や視野が広がります。

 私はこれが俳句の最も魅力的な一面だと考えます。また、その景色を見て感じたことを言葉として残しておくことができます。自分がそれを見返したらもちろんその時の景色や感情を思い出すことが出来ますし、他人が見てみてもその景色を想像することができ、思いまで伝えられる時もあります。

 何年後、何十年後への自分へ俳句という趣味を贈りませんか?

●2年(12期)ゼミ長 山本惇

 俳句と聞くと古臭いイメージがあると思いますが、今の私たちにとても大切なことを教えてくれます。普段何気なく過ごしている日々も、ふと気をかけて周りを見てみると季節の変化など様々なことに気づくことができ、5・7・5のかたちで表現することで、自分とは違う考えを持った人と共有することができます。5・7・5の17音の型に決まっていると窮屈に感じるかもしれませんが、この17音はとても自然で頭に残りやすいです。また俳句はどれが正解でどれが不正解といったことがないので、気軽に詠むことができるのも魅力の一つだと思います。

 俳句を詠むことで今まで見てきた景色がガラリと変わります。ぜひ多くの人に俳句を詠んでもらいたいです。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000